第四話 それぞれの未来へ
「しょうわ――? と言いましたわね」
「元号が変わったのでしょうか? 天皇陛下が――」
澄子は口ごもる。在位中の天皇が崩御するなど、女学生には恐れ多くて口に出せることではない。
「澄子さん、暦を!」
千代が叫び、澄子はあわてて自分の風呂敷から少女雑誌を取り出す。裏表紙をめくった
とはいえ、そこに「昭和五年」がいつ来るかなど載っているはずもないが――
「放送は最後に、九月二六日金曜日、と言いましたわ。聞きましたわね?」
「は、はい」
「今年の九月二六日は、月曜日ですから、金曜日になるのは――ええと、
とっさに計算する千代。
「千代さん、でも、あの、昭和五年と言ってましたから、三年後というのは――」
澄子がおそるおそる声をかけると、
「その通りよ! 素晴らしいですわ、澄子さん! つまりこのラジオは、九年後、もしかしたらもっと先、ということになりますわ」
引き算をすると、「七年前の震災」は大正一二年、わずか二年後に――
その時。
どこか遠くからぼそぼそと、くぐもった声が聞こえる。
「まだ何か放送してますわ!」
と千代がスピーカーに耳を当てる。
澄子もそれに従う。
喇叭型のスピーカーからはサー、サーという雑音が出るのみで、言葉らしきものは拾えない。二人はさらに顔を近づける。
そして、
ばたん、と乱暴に機械室のドアが開く。
「先生!」
二人は叫んだ。
「
声はスピーカーからのものではなかった。
千代と澄子が旧校舎で毎日のように密会をしていると聞いた教師たちが、見回りにやってきたのだった。
そして二人は教師たちの眼前で、スピーカーのそばで、口がつくほどに顔を寄せ合っていたのであり――
前例に従い、澄子と千代は学校で話すことを禁じられ、旧校舎の機械室は、千代の手から取り上げられることが決まった。
立ち退きにあたって機械室に置かれた怪しい機械群の廃棄方法が取り沙汰されたが、帝大の工学部から、機械室の荷物を引き取りたいという申し出があった。
女学校の教師たちは、これらの機械が千代の作った無線機などとは思いもよらず、帝大時代の備品だと思いこんでいたため、引き渡しには何の異存もなく決まった。
行李にまとめられた無線機を取りにきたのは、詰襟の男子学生だった。校門の外で用務員と話しているのを見かけて、聞き覚えのある声だと澄子は思った。おそらく千代と無線で話していた櫻井だ。機転を効かせて、千代の宝物を守ってくれたのかもしれない。
そして年は変わり、千代は女学校を卒業していった――
「あわただしくて申し訳ありません」
と澄子は千代に茶を出す。
「こちらこそ、いきなり訪ねてきて御免なさいね。澄子さん」
女学校では「着物に袴」という規定があり、千代も一応のところそれを守っていたわけだが、卒業以後は洋装にズボンを履いており、帽子を深くかぶると男子のように見える。
隣の部屋では、家人がどたばたと荷物をまとめている音が聞こえる。
「今、引越しの準備をしているところなんです。親戚のいる栃木のほうに引き払うことになって」
「あらまあ。寂しくなりますわ」
「でも、旧い家ですし、大きな地震でも来たら――ねえ?」
と澄子が微笑むと、千代は真剣な顔をして、
「ねえ、澄子さん。あの日の放送のことは、今でも信じておりますの? あれから何度か試しましたけど、結局、二度と受信できませんでしたわ」
「試したって、どちらで――」
「帝大の実験室」
と千代がぼそっと言うと、ああ、と澄子は相槌をうった。千代が男子のようななりをしている理由が、わかるような気がした。
「私は、機械のことは分かりませんから――でも、私が信じてるのは、放送よりも、千代さんの生き方です」
と言って、それから口に手をあてて、小さな声でささやいた。
「父に頼んで、縁談をお断りしていただいたんです。それで、うちを売ることになりまして」
「あら。貴女、案外抜け目ないのね。わたくしもお父様に逆らったことは――表面的にはですけど――ないのですよ?」
と、ふたりは笑った。
「もしかしたら、わたくしも近くに帝都から消えるかもしれませんわ。でも、貴女にだけは手紙を書きたいの。栃木の住所を教えてくださる?」
遠くない未来、澄子は千代に手紙を書くことになるだろう。
そのときは、『デミアン』の言葉を送ろうと思う。
「どんな人間の一生も、つまりは己へと向かう道だ。試行錯誤の道、かろうじて見える小道。だけど自分自身になれた者なんていまだかつていたためしがない。それでも百人が百人とも、自分自身になろうと努力する。」
澄子のいちばん好きな一節だ。
(おわり)
大正電気女学生 〜ハイカラ・メカニック娘〜 柞刈湯葉 @yubais
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