第三話 メカニック娘の大いなる発明
四年生の
エスとは Sister の頭文字であり、女学生同士の擬似的な――いささか排他的な――姉妹関係のことである。A子さんはB子さんのエスでいらっしゃるから、私たちが話しかけてはいけないわ、といった会話が、全国の女学校で尋常に交わされているのであった。
思春期特有の親密な友情ということで容認されていたのだが、明治の末には新潟で女学生の心中事件まで発展した例もあり、過度な関係は禁止されることもあった。
湯島高等女学校でも数年前、女学生同士が教室で
ただ澄子と千代に関して言えば、密室で行われているふたりの関係は、部外者が想像するような親密なものではなく、千代が辞書代わりに澄子を使っているだけであった。
千代が読めと命じたのは、アインシュタインという欧州の博士による論文であった。時間や空間が星星の引力によって伸びたり曲がったりする、ということを述べているようである。
あまりの突飛な内容に、澄子は自分が何か致命的な誤読を――たとえば文学と物理では違う
「いずれ日本でも、ラジオの放送がはじまるはずですわ。
と千代は言った。彼女がいま造っているのは、その受信機とのことだった。
「でも、放送が始まる前に受信機を造って、どうするのですか」
「知れたことですわ。放送が始まった後の電波を、今から受信するのよ」
「――はあ」
澄子は気の抜けた返事をした。この電気の君の言うことに驚いてもきりがないのだった。それを不満に思ったのか、千代は
「この〈玉手箱〉を使うのですわ」
と鉛筆書きの設計図を見せた。このところ独逸の論文を読みながら、何やら設計していたものだった。童話に出てくる玉手箱とはおよそ似つかわしくない、金属製の無骨な箱のようだった。
「この箱にエックス線を照射して、発生した電子で時空を歪ませて、箱の中に将来流れる電波を、こちらのラジオで受信するのですわ」
と千代はさも当然のように言う。
理屈はまったく理解の及ぶところではなかったが、電波なるものが空間を越えて塀の向こうの帝大生の声を聞くことができるのだから、時間を越えて未来の音が聞こえても、さほど不思議なことではないのかしら、と澄子は思った。
もともと無線機が故障したというのは千代の狂言にすぎない、と分かった後も、澄子はただ千代のあまりに自由な姿を見たくて、その後も機械室に通い詰めていた。
この方は自分と同じように旧弊な父を持ちながらも、その有り余る才で自分の道を切り開こうとしているのだ。自分も千代のようになれれば、どんなにいいだろうか、と。
そして数ヶ月が過ぎた――
「J・O・A・K…… こちら東京放送局です。九時のニュースをお伝えします」
「拾ったわ!」
千代がスピーカーに耳をあてて叫んだ。
「今、放送って言いましたわ! 聞こえました!? ねえ、澄子さん!」
「――いえ、私は何も」
「そこからじゃ聞こえませんわ! こちらへ!」
興奮する千代は澄子の手を引いて、
千代の熱気とは裏腹に、スピーカーから流れ出す音は、以前聞いた帝大生の声に比べても遥かに聞きづらい。言葉はぶつぶつと途切れ、ザッザッと砂地を歩くような音ばかりが混じっている。
だが、その向こうで話しているのは、活動写真の弁士を思わせる、話の専門家の声だった。将来の日本で、このラジオという道具が商業的に使われている証であった。
ラジオの弁士――後の世でアナウンサーと呼ばれるようになる――は、おそらく予め用意された原稿を、滔々と読み上げていた。
七年前の震災の死没者を慰霊する、震災記念堂が新設された。
浅間山が噴火し、帝都まで降灰があった。
「震災記念堂――?」
千代はささやき声で言った。
「七年前、と聞こえたわ。千代さん、これ、何年後の放送なのでしょうか?」
「知りませんわ。たまたま玉手箱が拾っていた電波ですから――でも、そんなに遠い未来までは拾えないはずですわ。箱もいつか壊れますし」
つまり、近い将来、そんな大規模な――七年も前の死者を慰霊するほどの――地震が起きる、ということなのだろうか?
しかし、いくら耳にスピーカーを押し付けても「今年」「去年」とばかりで、この放送が大正何年なのか、という肝心なところが伝わってこなかった。
「過去の人間が放送を聞くことを想定していないのかしら。ねえ澄子さん」
と言って千代がラジオの箱をこんと叩く。
すると、途切れ途切れだった放送が急につながって、流暢な文が流れ出した。これは後代の世で知られる高度な機械技術「叩けば直る」である。
「ニューヨーク株式市場崩壊の余波はわが国にも波及し、
澄子の心臓がどくん、と鳴った。
「同社は震災以来業績の不振が続いていましたが、このたびの世界恐慌で生糸の輸出量が激減していたとのことです。創業家には借金取りが押し寄せていますが、屋敷は既に
にわかに澄子の動悸が高まった。そばにいる千代に聞こえてしまいそうな程に。
三本製糸業。家族もろとも行方不明。
澄子が卒業後に、嫁にやられるはずの家だ。
「昭和五年九月二六日、金曜日のニュースをお伝えしました」
と最後に言い、ぷつっと放送は終了した。
初期のラジオ放送は一日中流れるわけではなく、一時間に数分ほど断続的に放送されるものだった。
機械室はふたたび沈黙に包まれた。
澄子の耳には、自分の心臓の音だけが響いていた。
千代が口を開いた。
「しょうわ――?」
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