第二話 メカニック娘、無線通信技術を披露する
「な、何でしょうか、この部屋は」
と澄子がおそるおそる尋ねると、
「機械室ですわ」
と
女学校の開学以前、ここは東京帝国大学の敷地であり、旧校舎には工学部の設備が一部放置されていたのだ。
「さて、アレはどこに置いたかしら。ずっと放置してましたから――」
と、千代は積まれた工具や部品を床に乱暴に放り投げはじめた。澄子がちらりと脇の棚を見ると、足に金属片を刺された
あまりに異様な光景に、自分はこれから魔女に鍋で煮て食べられてしまうのか、と澄子は思った。
「ありましたわ」
千代が書物の山から取り出したのは、薄い冊子であった。表紙には、
「ANNALEN DER PHYSIK 1916」
と書かれている。
DER は定冠詞で PHYSIK は物理――と、咄嗟に頭を働かせる澄子。
「物理学の年報――でしょうか」
「ご明答よ、澄子さん」
千代は嬉しそうに声をあげる。
「
「ど、どうして読めもしない書物を持ち出したりしたのですか!?」
「科学に国境はないと、かのパスツールも仰ってましたのに! とんだペテン師ですわ、あの細菌学者め」
と、遠いフランスの科学者(故人)に憤る千代であった。
「でも――私、代数も幾何も苦手ですし、物理の論文なんて読める気がしませんわ」
「あらまあ。貴女のせいでわたくしの無線機が壊れてしまいましたのに、ただ謝ってお逃げになるおつもりで」
と、千代は出口のほうを執拗に守りながら澄子にすり寄ってくる。
「い、いえ、でも――そもそも、そのムセンキとは一体何なのでしょうか?」
「ご存じなくて?」
「ええ」
「海軍の方々が使ってらっしゃる道具ですわ。お船の間に電話線を引くわけにもまいりませんから、軍艦には線の要らないお電話がありますの」
「まあ」
この時代、まだ固定電話も一般家庭に普及しておらず、澄子にはいまひとつピンと来ない。
「あとで動かしてみせますわ。そこに座ってお待ちなさい。ああ、それまでに真空管を交換しないといけないわ」
と、机に置かれた懐中時計を見て言う。余談であるが、卓上にあっても懐中時計である。
澄子が
作業をしながら聞いたところによると、なんと千代はこの機械室を、学長公認で自由に使っているという。あの風紀にうるさい学長がどうして、と不思議に思う澄子。
話は二年前に遡る。
授業中に停電が起きて、校舎の電灯がみな消えてしまい、天気も相まって学校は夜中のように真っ暗。男子禁制を徹底する湯島高等女学校であったが、婦人の電気技師など帝都にほとんどおらず、教師たちは右へ左へ大慌て。
そこに千代が現れて、「屋根裏で鼠が線を噛み切っておりましたわ」とあっさり断線箇所を発見して、修理をして学校に明かりが戻ると、学長もさすがに彼女の功績を認めざるを得なかった。
こうして千代は女学校の機械トラブルに対処する代わりに、父に内緒で機械室を使う権利を得たのであった。
なお、電線を切った「鼠」が千代自身という噂も同級生の間ではあるが、そんなことは澄子の知ることではなく――
「家ではお父様に叱られますの。女が機械技師の真似事などやめろと。お兄様よりもわたくしの方が、よほど才能がありますのに」
「お兄様――帝大生の方ですか」
「あら、兄をご存知でして」
「先ほど、ご自分で仰ったじゃないですか。お兄様に無理を言って、帝大の図書館から科学雑誌を持ち出してきてもらったと」
澄子が言うと、千代はきょとんとした顔をする。
「貴女、案外抜け目のない方なのね」
と言う。
「でも、帝大の方よりも才能がおありだなんて、いくら何でも――」
「あら、お兄様はいつもぶつぶつ言ってらしてよ。あゝ、ぼくはもう方程式を見るのも
ドライバーを机に置いて、袴の袖で汗をぬぐうと、千代はふーっとため息をついた。
「そういう父なのよ。ひとのことを生まれでしか考えられないの。だからこうやって、学校にわたくしの部屋を確保してやったのよ」
話を聞くにつれ、澄子はこの千代が妙に自分に近いものに思えてきた。
「さぁて、時間ですわ」
と千代は言って、木箱の上にスピーカーを備えた。それだけ見ると澄子の家にある蓄音機に似ている。ただレコード盤を置く場所がない。
「まずは周波数をあわせまして――」
と言って千代がつまみを回すと、
「千代さん?」
という声がスピーカーから響いた。若い男の声だった。
「千代さん、聞こえますか。
「音量が大きすぎましたわ」
と別のつまみを回すと、男の声はすーっと
小説ばかり読んで色事に疎い澄子もさすがに状況を察し、千代と見えない相手の話が終わるまで、部屋の反対側の隅に立ち、できるだけ呼吸をせずにじっとしていた。
ふたりの話が終わると、
「――というものですわ。分かりまして?」
と千代は言う。傍から見ただけでは、ほとんど千代が機械の前でぼそぼそと喋っていただけなのだが。
「千代さんの、あの――お相手は、帝大生の方なのですか?」
と澄子は尋ねた。湯島高等女学校と東京帝大は道路を挟んだ向こう側にあり、上級生の中には帝大生と交際している者も数多くあるという。
しかし千代は、それまでの快活な表情に似合わぬ寂しそうな顔をして、
「彼、お母様が朝鮮人なのよ」
とぽつりと言った。
「お兄様が朝鮮人の息子を家に連れてくるだけで、機嫌を悪くするような父なのよ」
ふたりはしばらく黙った。
帝大生の話はそれで終わりだった。
「とにかく」
と、自分に言い聞かせるように千代は叫んだ。
「わたくしほどの才媛が、既存の機械をつくるだけで満足するわけにはいきませんわ。これからずっと大きな仕事をするのですから――澄子さん、貴女に協力していただきますわよ」
と言って、先程見せた「物理学の年報」で澄子の頭をぽんと叩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます