第二話 メカニック娘、無線通信技術を披露する

 澄子すみこが無理やり連れてこられたのは、油の焦げるような異臭のたちこめる部屋であった。窓は暗幕で閉め切られ、あちらの壁には工具類、こちらの壁には電気機器が積まれている。

「な、何でしょうか、この部屋は」

 と澄子がおそるおそる尋ねると、

「機械室ですわ」

 と千代ちよは答えた。

 女学校の開学以前、ここは東京帝国大学の敷地であり、旧校舎には工学部の設備が一部放置されていたのだ。

「さて、アレはどこに置いたかしら。ずっと放置してましたから――」

 と、千代は積まれた工具や部品を床に乱暴に放り投げはじめた。澄子がちらりと脇の棚を見ると、足に金属片を刺された牛蛙うしがえるが、硝子の器の中でぴくぴくと異様な動きをしている。

 あまりに異様な光景に、自分はこれから魔女に鍋で煮て食べられてしまうのか、と澄子は思った。

「ありましたわ」

 千代が書物の山から取り出したのは、薄い冊子であった。表紙には、

「ANNALEN DER PHYSIK 1916」

 と書かれている。

 DER は定冠詞で PHYSIK は物理――と、咄嗟に頭を働かせる澄子。

「物理学の年報――でしょうか」

「ご明答よ、澄子さん」

 千代は嬉しそうに声をあげる。

独逸ドイツの科学雑誌ですわ。お兄様に無理を言って、帝大の図書館から持ち出してきてもらったの。でも、いざ手にしてみて重大な問題に気づいたのですわ――わたくし、独逸語が読めませんの!」

 呆気あっけにとられる澄子。

「ど、どうして読めもしない書物を持ち出したりしたのですか!?」

「科学に国境はないと、かのパスツールも仰ってましたのに! とんだペテン師ですわ、あの細菌学者め」

 と、遠いフランスの科学者(故人)に憤る千代であった。

「でも――私、代数も幾何も苦手ですし、物理の論文なんて読める気がしませんわ」

「あらまあ。貴女のせいでわたくしの無線機が壊れてしまいましたのに、ただ謝ってお逃げになるおつもりで」

 と、千代は出口のほうを執拗に守りながら澄子にすり寄ってくる。

「い、いえ、でも――そもそも、そのとは一体何なのでしょうか?」

「ご存じなくて?」

「ええ」

「海軍の方々が使ってらっしゃる道具ですわ。お船の間に電話線を引くわけにもまいりませんから、軍艦には線の要らないお電話がありますの」

「まあ」

 この時代、まだ固定電話も一般家庭に普及しておらず、澄子にはいまひとつピンと来ない。

「あとで動かしてみせますわ。そこに座ってお待ちなさい。ああ、それまでに真空管を交換しないといけないわ」

 と、机に置かれた懐中時計を見て言う。余談であるが、卓上にあっても懐中時計である。

 澄子がふるいソファに腰掛けている間に、千代は手袋をして木箱の破片を払い、新しい硝子をはめ込んだ。



 作業をしながら聞いたところによると、なんと千代はこの機械室を、学長公認で自由に使っているという。あの風紀にうるさい学長がどうして、と不思議に思う澄子。

 話は二年前に遡る。

 授業中に停電が起きて、校舎の電灯がみな消えてしまい、天気も相まって学校は夜中のように真っ暗。男子禁制を徹底する湯島高等女学校であったが、婦人の電気技師など帝都にほとんどおらず、教師たちは右へ左へ大慌て。

 そこに千代が現れて、「屋根裏で鼠が線を噛み切っておりましたわ」とあっさり断線箇所を発見して、修理をして学校に明かりが戻ると、学長もさすがに彼女の功績を認めざるを得なかった。

 こうして千代は女学校の機械トラブルに対処する代わりに、父に内緒で機械室を使う権利を得たのであった。

 なお、電線を切った「鼠」が千代自身という噂も同級生の間ではあるが、そんなことは澄子の知ることではなく――



「家ではお父様に叱られますの。女が機械技師の真似事などやめろと。お兄様よりもわたくしの方が、よほど才能がありますのに」

「お兄様――帝大生の方ですか」

「あら、兄をご存知でして」

「先ほど、ご自分で仰ったじゃないですか。、帝大の図書館から科学雑誌を持ち出してきてもらったと」

 澄子が言うと、千代はきょとんとした顔をする。

「貴女、案外抜け目のない方なのね」

 と言う。

「でも、帝大の方よりも才能がおありだなんて、いくら何でも――」

「あら、お兄様はいつもぶつぶつ言ってらしてよ。あゝ、ぼくはもう方程式を見るのもいやだ、転科して法律家になりたい、と。でも、お父様はお兄様にはこう言うの。東郷元帥のもとで戦った海軍技師の息子がなんと情けない、なんて」

 ドライバーを机に置いて、袴の袖で汗をぬぐうと、千代はふーっとため息をついた。

「そういう父なのよ。ひとのことを生まれでしか考えられないの。だからこうやって、学校にわたくしの部屋を確保してやったのよ」


 話を聞くにつれ、澄子はこの千代が妙に自分に近いものに思えてきた。固陋ころうな父に苦しみながらも、学校に無理やり自分の居場所を見つけて抗っている。それも自分よりもずっと力強く――


「さぁて、時間ですわ」

 と千代は言って、木箱の上にスピーカーを備えた。それだけ見ると澄子の家にある蓄音機に似ている。ただレコード盤を置く場所がない。

「まずは周波数をあわせまして――」

 と言って千代がつまみを回すと、

「千代さん?」

 という声がスピーカーから響いた。若い男の声だった。

「千代さん、聞こえますか。櫻井さくらいです。僕はいま、帝大の実験室にいます」

「音量が大きすぎましたわ」

 と別のつまみを回すと、男の声はすーっとしぼんだ。千代はスピーカーにじかに耳をあてて、手元の小さな円盤に向かって、ぼそぼそと何かを話している。ちょうど電話をするときのように。

 小説ばかり読んで色事に疎い澄子もさすがに状況を察し、千代と見えない相手の話が終わるまで、部屋の反対側の隅に立ち、できるだけ呼吸をせずにじっとしていた。


 ふたりの話が終わると、

「――というものですわ。分かりまして?」

 と千代は言う。傍から見ただけでは、ほとんど千代が機械の前でぼそぼそと喋っていただけなのだが。

「千代さんの、あの――お相手は、帝大生の方なのですか?」

 と澄子は尋ねた。湯島高等女学校と東京帝大は道路を挟んだ向こう側にあり、上級生の中には帝大生と交際している者も数多くあるという。

 しかし千代は、それまでの快活な表情に似合わぬ寂しそうな顔をして、

「彼、お母様が朝鮮人なのよ」

 とぽつりと言った。

「お兄様が朝鮮人の息子を家に連れてくるだけで、機嫌を悪くするような父なのよ」

 ふたりはしばらく黙った。

 帝大生の話はそれで終わりだった。

「とにかく」

 と、自分に言い聞かせるように千代は叫んだ。

「わたくしほどの才媛が、既存の機械をつくるだけで満足するわけにはいきませんわ。これからずっと大きな仕事をするのですから――澄子さん、貴女に協力していただきますわよ」

 と言って、先程見せた「物理学の年報」で澄子の頭をぽんと叩いた。

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