大正電気女学生 〜ハイカラ・メカニック娘〜

柞刈湯葉

第一話 文学少女、メカニック娘と出会う

澄子すみこさん」

 名前を呼ばれて振り返ると、女学校の板張りの床を、海老茶袴の同級生が駆けてくるのが見える。彼女の細い腕に抱えられていたのは、独逸ドイツから届いたヘルマン・ヘッセの新作『デミアン』であった。

「まあ!」

 と、澄子はおもわず両の手で口を塞ぐ。

「今朝、横浜港から届いたばかりなのよ」

 と、まるで魚か何かのように言い、分厚い上装丁の本を澄子に見せた。

「伯父様に無理を言って取り寄せてもらったの。貴女あなたが一番に読みたいでしょうと思って」

「ああ、とても嬉しいわ、芳子よしこさん!」

 と言って、本もろとも芳子に抱きつく澄子。

 そばを通りかかった教頭が、眼鏡をくいと上げて叱りつける。

「貴女たち! 学校でそのようなはしたない行為はおやめなさい」



 湯島ゆしま高等女学校は、東京府に数多ある女学校のなかでもひときわ際立った特徴があった。

「徹底した男子禁制」である。

 開学以来、殿方はたとえ父兄といえども立入禁止。教師はもちろん、校医や用務員さえも女という徹底ぶりである。明治期に小火ぼやのあったときも、婦人消防隊が鎮火にあたったという程である。

「まるで徳川時代の大奥だ。さぞかし古臭い教育が行われているのだろう」

 などと世間では噂されていた。

 ところがその実態はまるで逆。視察と称して現れては教育方針に口出しする代議士や文部省の役人を「男子禁制」の名のもとに締め出すことで、良妻賢母を育てよというお上の干渉を避け、かえって進歩的な女子教育が実現していた。

 時は大正十年(1921)、そんな学校に通う女生徒たちのお話――



 澄子は女学校にある独逸ドイツ文学の同好会に所属していた。辞書を片手にゲーテやリルケといった文学作品を読む会である。こうしたものが新時代の婦人のたしなみであると、進歩的教育を受けた彼女たちは考えていた。

 だが、そんな澄子に、父親は決して良い顔をしない。

「どうもうちの娘は、生花や琴の稽古もろくにせず、独逸の文学ばかり読んでおりましてね。お恥ずかしい」

 という父親の声を思い出す。

 目の前に座っているのは、生糸工場を経営する三本みつもと家の当主と、その御曹司であった。その豪奢ななりを見れば、さほど目の効かぬ者であっても、彼らが先の大戦で財をなした成金であることが見てとれる。

「ハハ、かの独逸帝国も今や敗戦国。聞けば多額の賠償金に苦しんでいるというではありませんか。今後百年は歴史の表舞台に出てこないでしょう。それよりも日本の課題は、五大国の一員としての英国との関係修復ですよ」

 と御曹司が高慢な声で言うと、

「おお、かくも世界的な視野をお持ちの跡継ぎがいらっしゃれば、三本家も安泰ですな」

 と父はヘコヘコ笑っている。こんな男たちの会話をぼんやり聞きながら、澄子は庭の梅林を眺めていたのであった。

 いずれ女学校を卒業すると、この金満御曹司のもとに嫁に行くこととなっていた。

 遡れば華族にもつらなる澄子の家であったが、時流に乗れず没落し、借金を重ね、やがてはこの屋敷も人手に渡ろうとしていた。そんな中に差し伸べられたのが、この成金家との結婚の話であった。

 財をなした者が高貴なる血を欲しがるのは、羽化した虫が洋燈ランプに群がるがごとき自然の摂理である。似たような縁談は帝都のあちこちで聞かれていた。

 だが相手は二八歳で、澄子よりも干支ひとまわり上。そのうえ再婚である。前の嫁がいつまでも子を産まぬので一方的に離縁したと、財界では噂されていた。

「澄子が可哀想ですわ。あの子も本当は嫁になんて行きたくないでしょう」

 と母は言うが、父はこう言うのだった。

「屋敷を手放して家名に傷をつけるくらいなら、やむを得まい。あれは賢いから分かってくれるだろう」



 袴の擦れる音を立てながら、澄子は女学校の旧校舎へ向かっていた。手にしたばかりの『デミアン』を、同好会室の書棚にある『車輪の下』の隣に並べるためだ。

『車輪の下』はヘッセが1907年に発表した長編小説で、将来を託望され周囲の期待に応えようとする少年ハンスの苦悩を描いた物語だ。少年時代のヘッセ自身をモデルにしたと言われる。

 没落する家の再興という責務を背負わされた澄子は、この遠い異国の少年と自分を重ねてしまい、この著者の小説をもっと読みたいと、旧校舎にある独逸文学の同好会に属しているのであった。

 どうせ自分の人生は卒業まで、それまでは好きな文学をやらせてもらおう、と考えていた。



 ぎしぎしと床板がきしむ暗い旧校舎で、澄子の足元にひゅっと動くものがあった。

 鼠である。

 名高き殺鼠剤「猫イラズ」が発売されて十年余りが過ぎていたが、いまだ帝都の衛生は平成の世に比べて劣悪であり、建物の隅には虫や鼠がうろつき、流行病の媒介者となっていたのである。

「きゃあっ!」

 と悲鳴をあげ、廊下の角から現れた人影にどん、とぶつかった。

 授業で使われないはずの旧校舎に、運悪くほかの女学生が居合わせたようだった。彼女が手にしていた木箱がどさりと床に落ち、ガシャンと硝子ガラスの割れる音がした。

「ご、御免なさい。急に鼠が出てきたものですから――お怪我はありませんか?」

 澄子が深く頭を下げると、相手の女学生は落ち着き払った様子で、しゃがみこんだ澄子を見下ろして、

「わたくしは大丈夫ですわ。貴女は四年生の方かしら」

 と答えた。その言葉から察するに、どうやら五年生(高等女学校における最上級生)のようであった。

「ええ。澄子と申します」

 と言って頭を上げると、そこにいた女学生は、着物の袖口を薙刀の稽古着のように絞り、髪を巻いて両耳の後ろに小さくまとめていた。美しさよりも動きやすさを重視したような出で立ちは、武道の女師範のようにも見える。

 奇妙なことに彼女の袴は、習字を学び始めた尋常小学校の児童のように黒く汚れており、とても高女の最上級生には見えない。

 彼女は床に落ちた木箱を拾って、蓋を開けて中身を一瞥すると、

「真空管がひとつ割れてますわ。機械室に代わりがあるから構いませんけど――」

 とつぶやいた。

 澄子は床に落ちた本に手を伸ばす。表紙には『デミアン』の文字が、ブラックレターと呼ばれる独逸ドイツ語特有の文字でレタリングされている。女学生がそれを見ると、

「あら、貴女、もしかして独逸語をお読みになりますの?」

 と迫ってくる。

「えっ? は、はい、少しでしたら――」

 すると彼女は目の色を変えて、さきほど確認したはずの木箱をもう一度開いて、芝居がかった声で叫んだ。

「まあ、大変ですわ! 貴女のせいでわたくしの大切な無線機が壊れてしまいましたわ。どうしてくださいますの!?」

 と、木箱の中身を澄子の前に押し付けてきた。中には澄子が見たことのない部品が並んでおり、硝子の破片らしきものが中に散らばっている。

「も、申し訳ありません、なんとお詫びしてよいやら――」

「でしたら、お詫びに一寸ちょっとわたくしに協力していただけないかしら!?」


 はてさて、これが文学少女の澄子と、メカニック娘・千代ちよとの出会いであった――



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