第35話 痛み
スウェット上下にライディングジャケットを羽織った小熊は、布製のバッシュをつっかけてアパートを出た。
カブのエンジンをキック始動させ、ヘルメットとグローブを着ける。いつもより短めの少々手抜きな暖機運転の後、カブで走り出した。
特に遠くへ行くわけでは無い。夕飯の材料が切れたので、自宅最寄りのスーパーまでレトルトか惣菜でも買いに行くだけ。
着ているスウェットは、入院中に同室者の中村から貰った寝巻き兼用の部屋着。
ライディングジャケットのポケットに突っ込んだのはキーと財布とスマホ。徒歩や自転車で外出する時とさほど変わらない。
自転車より楽に走れる原付で買い物に行き、背負って歩くより多くの荷物を積んで帰る。小熊が原付を欲しいと思った時にやりたかった事。
それから色々な事があった。カブで日本で最も高い山に登った。人の生命や会社の存続がかかった荷物を運んだこともある。
でも、小熊がバイクに乗れる、バイクで走ることが出来るという事実を思い知らされるのは、こんな当たり前の日常。
小熊が一度失い、そして取り戻した、カブに乗るという生活。
何もかもが元通りになったわけでは無い。これからも数回の通院が必要になる。一年後には足に打ち込まれた鉄の棒を抜く手術を受けるために五~六日の入院をしなくてはいけない。
小熊が知り合ったバイク乗りの中で、過去に骨折の経験がある人たちは言っていた。
「傷は残るよ。雨の日は痛む」
小熊自身まだ自覚は無いが、そうなのかもしれない、そうでなくてはいけないと思った。きっと人間の体は、ほんの少しの当たりどころの違いで命を失っていたかもしれない負傷を、何もかも忘れて無かったことにするようには出来ていない。
スーパーからの帰路で幹線道路に入った小熊は、目の前を走る軽自動車の遅さが気になった。
高齢ドライバーか初心者か、こんな遅い軽自動車に合わせていては、買った惣菜が冷めてしまう。どこか道の広いところで追い抜いてしまおうかと思った小熊は、カブを前の軽自動車に近づけたが、何か言葉で言い表せない、体がささくれ立つような感覚を覚え、スロットルを戻し速度を落として車間を空けた。
次の瞬間。前の軽自動車は運転未熟者にしては不自然なほど車体を道端に寄せた後、電柱に衝突した。
小熊は瞬時に後方の車を確認した後、カブを道端に寄せた。そのままカブから飛び降り、軽自動車に駆け寄る。
ドアを引き開けると若い営業社員らしき男性が胸を押さえている。小熊は車内に手を突っ込み、車体炎上防止のため即座にキーを回しエンジンを切った。
エアバッグが作動していないのを見て、事故の衝撃で胸部を打ったのではないと気づいた小熊は、急停止した後続車に手を振る。
「心臓麻痺です! 近くにAEDはありませんか? 救急車は今呼びます、発炎筒と三角表示板を出してください!」
後続車のドライバーが遠くに見える農協へと駆け出し、助手席に乗っていた婦人が車載の発炎筒を出す中、小熊はスマホで通報した。
ごく普通の生活、当たり前の日常、それは些細な事であっさりと失われる。
小熊は周囲の人たちのおかげで、失った物を取り戻す事が出来た。だから目前の事故を看過できないし、出来る限りの助力をする。
痛みと喪失は再び訪れるかもしれない。今度は助からないかもしれない。誰かをそうさせてしまうかもしれない。
バイクに乗る限り、決して忘れてはいけない事。
それでも小熊は、スーパーカブに乗る。
(終)
スーパーカブ5 トネ コーケン @akaza
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