第34話 見守る
二月中旬の深夜三時。
恵庭椎はBEURREの裏口から出てきた。
オフホワイト地に水色のグラフィックが描かれた上下ツナギのスキーウェアを身に着けた椎は、ガレージ奥に駐められたリトルカブを押し出してきた。
セルボタンを押してエンジンを始動させた椎は、リトルカブに跨る前に歩いて店前の道に出て、しゃがみこんだ。
手袋を取った椎は、アスファルト舗装を掌で撫でて、路面が凍結していないか確かめている。
立ち上がった椎は一つ深呼吸する。山梨北杜が一年で最も寒くなる時期の、一日で一番冷え込む時間。冷気を吸い込んだ椎は、南アルプスから吹く零下の空気に胸を震わせ、少し不安そうに自分の家を振り返った。
家のガレージでは、椎のリトルカブがエンジン音を響かせていた。小熊や礼子のカブには無い電子制御の燃料噴射装置は、この山梨より遥かに気温の低い日本の、あるいは世界のあらゆる場所に適応している。
リトルカブに勇気づけられたような顔をした椎は、首から口元まで覆うウールのネックガードを着け、ヘルメットを被った。
全ての用意が終わり、今これから出るという時、椎は胸ポケットから紙片を取り出し、それを読み上げながら最後の確認を行った。
リトルカブの前後タイヤとブレーキ、ガソリン、灯火類、財布、スマホ、小銭入れ、そして受験票。それら全てを紛失した時のために、受験票、保険証、免許証のコピーとカブの予備キー、必要最低限のお金が入った神社のお守りくらいの大きさの袋は、首から紐で胸元に下げている。
ひとつ頷き、もう一度家を振り返って何か呟いた椎は、リトルカブに跨って走り出した。
これから零下の深夜に、百五十km先の東京まで行く椎を、当たり前のように毎朝この時間に新聞を配っている配達員の乗ったプレスカブが追い抜いて行った。
「今、出た」
スーパーカブに跨った小熊は、ヘルメット内に取り付けたマイクに向かって話した。
スピーカーからは「オッケー」という脳天気な声が聞こえてくる。
既にカブのエンジンを始動させていた小熊は、ウインドシールドの裏に取り付けたホルダーに固定されたタブレットに指先で触れる。
画面に近辺の道路地図が表示された。水色の輝点が県道を移動し、小熊たちの通う高校近くを通過した。
小熊はもう一度マイクに話した。
「GO」
今度は返事が返ってこなかった。
地図には緑と赤の輝点が表示され、椎と同一の方向へと動き出した。
椎がリトルカブで受験に行くと言い張った事で、心配した椎の両親から相談された小熊は、ある提案をした。
山梨北杜から東京の紀尾井町まで走るリトルカブの前後を、小熊と礼子が気づかれぬよう走るという計画。
椎に気づかれず、かつ何かあった時にすぐ駆けつけられるにはどれくらい離れればいいか小熊は考えたが、礼子はすぐに答えを出した。
「一〇〇〇m」
この距離を守っていれば、何かが起きた時に六十秒以内で椎の元に駆けつけられる。椎自身が連絡出来ない状況になっていたとしても、すぐに気づくことが出来る。
よほど視力のいい人間で無い限りバレることは無く、信号等で距離が離れたり近づいたりしても、速度の調整で問題なく補正できる。
そういう特殊な走りを何度も経験した小熊と礼子なら、朝飯前の仕事だった。
繰り返し礼を述べ、必要な事があったら何でも協力すると約束した椎の両親に夕食とデザートの感謝を伝え、ついでにドングリのコーヒーについて歯に衣着せぬ意見を言った小熊と礼子は、BEURREを出た。
始動させた自分のカブを、日野春駅前のアパート方面に向けた小熊に、反対方向の自宅へと帰る礼子が話しかけてきた。
「やる前に聞いておきたかった。何でそんな事をするの?」
小熊はキャブ式で厳寒期には少し気難しくなるカブのエンジンが暖まるのを待ちながら、礼子に返答する。
「冬の黒姫山を登った時も、礼子は同じことを聞いた」
それから小熊は、たった今キック始動という力仕事を問題なく果たしてくれた自分の左足を叩きながら言った」
「目的の無い走りでは、この足は元に戻らないと思った」
礼子は小熊の足を見ている。つい一ヶ月少々前には、膝にピンを打ち込まれ錘で引っ張られ、骨折の経験が無い礼子には、もう一度バイクに乗れるようになるなんて信じられなかった足が、今では歩き方を見ても、どちらの骨を折ったのかわからないくらい回復している。
それだけでは不十分だという事を、小熊と同じくバイクに乗る礼子は理解していた。ただ日常的な走りを経験するだけでは、傷は癒えない。一度忘れた限界領域での走りをもう一度刻まないと、次に何かが起きた時に生き延びる事は出来ないし、小熊は自分がそうなる事を許さない。
きっと椎もまた、同じような理由でリトルカブに乗って受験に行くことを選んだんだろう。
小熊は首を傾げ、礼子に尋ねた。
「礼子は?」
礼子はさほど考える事無く返答した。
「自分がどういう人間なのか確かめたい、そうしなきゃ次には進めないと思ったのよ」
小熊が孤立集落を救うべく、真冬の黒姫山を登った時に問われた理由を、礼子はそのまま繰り返した。
小熊は他人の言葉を勝手に泥棒した礼子のハンターカブを爪先で蹴った。礼子も小熊のカブを蹴る。
軽く手を振り、小熊と礼子は反対方向の帰路に向け、自分のカブで走り出した。
当日の椎を見守るツーリングは、概ね問題なく進行した。
椎の速度に合わせるのは少し面倒だと思ったが、椎はトラックの動脈となっている深夜から早朝の国道で、意外ときびきびとリトルカブを走らせ、都内に入ってからも、交通の流れに合わせて着実に目的地に向かっていた。
一度四方八方の道が皇居に集約する都心部の道路構造に混乱したのか、道を間違えた事があったが、走りながら信号停止の時にはこまめにスマホのナビを見ているらしき椎はすぐにリトルカブをUターンさせ、最小のタイムロスで正しい道路に復帰した。
充分な余裕を以って家を出たせいか、入試の開始時よりだいぶ早く試験会場に着いた椎は、試験場に近く、おそらくここに入学したなら頻繁に世話になるであろうカフェに入って、じっくりと予習をする余裕さえあった。
小熊に止められたのに、近隣で行われているの道路工事の作業員に変装して店の中に入った礼子の話では、学生や職員の溜まり場にもなっているカフェで過去問題集を広げる身長一四〇cmにも満たぬ女の子が人目を引いたらしく、周りの在校生や教授から話しかけられ、彼らの助言やお喋りで大学の雰囲気を知ることで、緊張も解けたらしい。
試験は無事に終わり、椎は帰路についた。流れの速い早朝の道とは異なる昼下がりの混雑した道路でも、椎の走りはスムーズで、おかげで前後を挟んだ小熊と礼子も走るのが楽だった。気になった事があるとすれば、行く先々で見覚えがあるような無いような黒いフュージョンやマルーンのレクサス等の怪しい車やバイクが目についた事ぐらい。そして小熊や礼子が経路の中でもここは事故リスクが高いと思っていた幾つかの場所で、先回りしているかのように姿を現す。オレンジ色の髪の女の乗った黄色いモトラ。
無事BEURREに着いた椎から、小熊に電話がかかってきた。
リトルカブで受験に行くと言う椎を、行ってくればいいと突き放した小熊は、帰ったら電話してほしいとだけ伝えていた。
「小熊さん、さっき試験が終わって、お家に着きました」
小熊は「そう」とだけ答えて、既にこっちは知っている道中の経路や出来事を、素知らぬ顔で椎に聞こうとした。椎は小熊に声に被せるように言う。
「だから、もうみんな解散していいですよ。本当にありがとうございました」
椎は全部知っていたらしい。確かに、椎は走り出し、幹線道路に出て間もなく、何かに気づいたような動きをしていた。
すっかりしてやられた気分になった小熊は、椎が「あの、これって、小熊さんが私のことを、私のことだけをすごく大事に思っていてくれて、これからは一緒に暮らしたいってことですよね」と言ってる途中で電話を切った。
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