六.屑箱亭

「終電までには帰りましょう」


 そう言って、魅谷が向かったのは浅草だった。

 魅谷とチエ子は彷徨うように歩いた。雨に濡れた道は人でごった返し、小さなチエ子は少しでも油断すれば流されてしまいそうだった。

 それを見かねたのか、魅谷はチエ子に手を伸ばした。

 躊躇いつつもチエ子はその手を掴む。

 華奢な魅谷の手は見た目通りに冷やかだった。


「この時間はね、活動写真から帰る客で混み合うのですよ」


 チエ子の手を引きつつ、魅谷は話した。


「十二階がなくなったのに、こんなに混むんですか」

「えぇ。ここにしかないものがたくさんありますからね」


 二人は再建されたばかりの仲見世を歩き、雨に煙る浅草寺を見た。

 そうして、どんどん狭い路地へと入っていった。そのうちに周囲から徐々に活気もなくなり、道行く人や建物もどこか怪しげな空気をまとうようになっていた。


「どこにいくんですか?」


 不安になったチエ子が問う。


「十二階があったあたりに行きます」


 魅谷が答える。

 それでいっそうチエ子が不安になったのがわかったのか、魅谷は「そこに、ぼくの気に入っている飯屋があるのです」と言った。


「飯屋?」

「ええ。あまり上品な場所ではありませんが、怖いことはありませんよ」


 魅谷のいうその店は、路地に埋もれるようにしてあった。

 壊れかけの建物のように見えた。壁面一体が亀裂だらけで、扉のところに『屑箱亭』という銅製の看板がどうにか引っかかるようにして掛かっていた。

 魅谷は躊躇いもなく扉を開ける。

 すると暖気とともに、店の活気が一気に二人の元に押し寄せてきた。

 魅谷に手を引かれて歩きつつ、チエ子は怯えつつ中の様子をうかがう。

 本当に飯屋のようだった。

 煌々と点された電灯の下にはテーブルがいくつも並んでいる。

 けれどもそこに着く客は、いずれもどこか怪しげな面影を宿していた。


「酒! 酒が足りない!」「この野郎! この野郎!」「五銭でどうだいねえさんよ」――煙草の煙やら料理の湯気やらで煙る室内から、次々に声が飛んでくる。

「魅谷さんか。今日も来たのかい」


 テーブルで酒を呑んでいた男が魅谷を見て、唇を吊り上げた。

 男の顔は右半分は美しく整っているのに、無惨にも左半分は焼けただれていた。


「あんたもすきだね、こんな場所がさ」

「――あんらァ、魅谷サンじゃない!」


 甲高い女の声がどこからか響く。

 見れば奥のテーブルで、派手な身なりをした女が手を振っていた。


「久々だね、ユキさん。調子はどうかな」

「全然よォ! ね、今度またあたしに字を教えてよねェ!」

「ああ。また今度、必ず」


 魅谷は答えつつ、店の奥に向かった。

 厨房へと続くと思わしき扉と、上へと続く階段がある。上は小さな宿になっているのだと、テーブルに着きながら魅谷は教えてくれた。


「まぁ、宿ともいえないような代物ですがね」


 チエ子に席を勧めつつ、魅谷は肩をすくめる。

 恐る恐るチエ子は椅子に座る。

 がたんと傾いた。どうやらこの椅子も壊れかけのようだ。

 窓際の席には、古びた陸軍服に身を包んだ男が座っていた。

 右足がなく、ズボンの裾だけが揺れている。

 軍刀を杖のようについて、軍装の男はじいっとカーテンで隠された窓を見ていた。


「……次、次、次。次、ぐらんときたら、いこう。ぐらんときたら……」


 軍服の男はぶつぶつよ呟いている。窓を見ているようだが、何故かチエ子には男の目は何も映していないように見えた。


「彼は加藤さんと呼ばれています」


 魅谷がそっと囁く。


「呼ばれている?」

「本当の名前は誰も知らないのです。いつもああして窓際に座って、なにか呟いている」

「――昔、あの人は旅順に行ったんだってさ」


 かすれた声とともに男が一人、二人のテーブルの傍に立った。


「加藤さんはね、旅順に行ったって話だよ。陸軍だったんだ。二〇三高地にいたとか、いないとか……ともかく、あれは明治の亡霊みたいな男でね」


 魅谷よりもいくらか年上に見えた。

 よれよれの紳士服の上から薄汚れた前掛けをかけている。猫背といい、大きな黒目がちの目といい、どこか猫を連想させる胡散臭い男だった。


「やあ、店主。景気はどうです」

「どうも、魅谷さん。おかげさまで繁盛してるよ」


 店主はくつくつと笑って、そして物珍しそうな顔でチエ子を見た。


「おや、こりゃ小さなお客さんだ。魅谷さん、いったいどこで拾ったんです?」

「拾ったんじゃありませんよ、うちの新しい弟子です」

「はぁ、千手先生のとこの。へぇ……」


 店主はしげしげとチエ子を見て、そうしてニタリと笑った。それは先日、千手に借りた本に描かれていたチェシャ猫のような笑い方だった。


「お嬢さん、とんでもないところに来ちまったね」

「えっ……」


 店主はひっそりと笑いながらいったん奥に引っ込んだ。

 そうして戻ってきた時、その手には器と飲み物とを載せた盆を持っていた。


「ここはね、いわば帝国のごみ箱だ。東京にあぶれた連中が寄り集まってどうにかこうにか呼吸しているねぐらだよ。だから屑箱亭っていうんです」


 言いながら、店主は雑な手つきでテーブルに器を置く。


「これがうちの名物のごった煮です。これで五銭。缶詰だの、近くの店の残りだのを適当に鍋に放り込んで作ってるんで安いんです」


 チエ子は器を見た。

 粗末なブリキの器に、店主の言うごった煮が湯気を立てている。肉の切れ端と、こんにゃくと、馬鈴薯と、適当な菜っ葉とを雑に煮込んだような料理だった。


「精が付くように醤油で塩っ辛くしてありますから、そのまま食うと喉が渇くかもしれない。麦飯と一緒にかっ込むか、茶で流すようにして食うのがよろしい」


 チエ子の前に、牛乳瓶が置かれた。

 中には牛乳ではなく、茶が入っている。どうやらコップ代わりらしい。風変わりな器を思わずまじまじと見るチエ子をよそに、魅谷が箸を取った。


「……おや、今日は豚肉ですか」

「そうですよ。屑肉が安く手に入りましたからね」


 店主は肩をすくめた。


「ここはね、お嬢さん。どこにもいけない連中が来るんです。要領の悪い出稼ぎだの、遊女崩れだの、頭のおかしいやつだの。そういうどうしようもない奴らの吹き溜まりです」

「吹き溜まり……」

「ひどぉい」


 甘ったるい声とともに、チエ子達のテーブルに一人の女が座った。

 さっき魅谷に声を掛けた女だ。名前はユキと言ったか。

 少しやつれているが、美しい顔立ちをしている。色褪せた着物を派手に着崩しているせいで、豊かな胸元が見えそうになっていた。チエ子は慌てて目をそらした。


「あたしはどうしようもなくなんてないわよぉ、店主さん。あたしはね、今はちょっと休んでるだけよ。休憩中なの。わかる? 鳥だって、大きく飛ぶときは休むでしょう? それとおんんなじよ。あたしはね、大きく飛ぶために休んでるの」


「それじゃ休んでどうするんだね、ユキ」


 店主がたずねると、ユキはけらけらと甲高い声で笑った。


「スタアになるのよ! こんなどぶみたいなところから飛んでってさ」

「ばからしい。どぶで寝なけりゃ稼げない商売女が何言ってんだか」


 店主は鼻で笑って、テーブルから離れた。

 どうやら厨房に向かうらしいその背中に、ユキはきっと睨み付ける。


「なんとでもいいな! いつか帝劇に立つんだから! あたし、歌には自信があるのよ!」


 緩くウェーブの掛かった前髪を掻き上げて、ユキはすっと息を吸う。

 そうして紅の剥げかけた唇から零れだしたのは、透き通った歌声だった。チエ子も聞いた事のある童歌を、ユキはその金糸雀のような声で歌い上げた。

 チエ子は思わず場所も忘れ、聞き惚れた。

 魅谷も目を閉じ、ユキの涼やかな歌声をたっぷりと味わっているように見えた。

 やがてユキが歌い終えると、店中から拍手が上がった。


「いいぞぉ、ユキ」「その声でおれの名前を呼んでくれ」「ねぇ、もっと歌ってよ」「床でもそんな声で歌うのかい」――純粋な喝采から下卑た欲望の声まで、ユキは心底満足げな顔で手を振って応えていた。


「ねぇ、あたしって歌えるのよ」


 そうして喝采がやんだ頃に手を降ろし、ユキはにいと笑った。


「十二階の下で働いてた時もさァ、声だけなら他の女にも負けなかったの。あたしが歌ったら、みィんな足を止めたものよ」

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蜃気楼の鵺 伏見七尾 @Diana_220

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