秋の夜長の1小節
@yoll
秋の夜長の1小節
ギターを買った。
今私の隣にあるそれは所謂エレキギターと言う物で、楽器であるギターと、音の出る装置であるアンプを、シールドと言う線で繋いで音を出す。たったそれだけの道具なのに、それがここにあるだけでいつもの部屋がまるで違う部屋に見えてくる。ちなみにアンプは残念ながらまだ買ってはいない。
切欠はふと、車のラジオから流れたイントロのギターリフが耳に残ったことだった。
覚えているのは単音だけで構成された、少し歪んだギターの音。
楽器などには一切手を付けた事もない私は、何故だか無性にこの短いイントロのリフを弾いてみたくなった。
気がつけば、会社からの帰り道の途中で見かけていた楽器店の駐車場に車を停めて、その店の中に足を踏み入れていた。
店に入った私には興味が無さそうにちらりとだけ視線を向けた若い店員は、愛想の欠片もなく「いらっしゃいませ」とだけ言うと、隣の常連の様に見える客との音楽談義に花を咲かせていた。
その冷めた対応に内心感謝をしつつ、狭い店内の壁と言う壁に掛けられたギターをゆっくりと眺めた。ギターの弦に挟まれたA4サイズの紙には今まで見たこともない暗号のような文字が幾つも並んでいた。その中で唯一理解が出来るのはそのギターの値段だけだった。
様々な形や色のギターの内、一本のギターが目に留まった。茶色い本体の周囲を黒い色が包みこむように配色され、そのギターの淵をやや黄ばみ掛かった白いラインが囲っていた。他の部分は何やら知らない部品が付いていた。
一目惚れをした。
疲れ目でしょぼしょぼする目を凝らし、弦に挟まれた黄色い紙を見てみると読み取れた単語は「USED」「FUJIGEN」「テレキャスター」「NCTL-20R」「113,000」。
先ず思ったことは楽器は高い。
値段を見れば、本来は私の安月給で手を出す物ではないのだろう。
時々見かけるギターを背負って自転車を漕ぐ少年たちは、如何様にしてこの高級なギターを買うことが出来たのだろうかと考えていたが、その疑問は直ぐに氷解することになる。私の銀行口座の残金と言う犠牲を払って。
「これを下さい」
少し離れたままの若い店員に向かってそう声を掛けてみたが、客との音楽談義に夢中のその店員に私の言葉は届かなかったようだ。もう一度声を掛けても反応が無い様なら縁が無かったと諦め、店を出るつもりであったがどこかで耳ざとく私の声を聞きつけていたのだろう少し年配の店員が二階から降りてきた。
「お待たせいたしました。こちらのテレキャスターですね」
そう言いながら、壁に掛けられた「テレキャスター」と言うギターを手馴れた様子で外していく。
「試奏していかれますか?」
「いえ、結構です」
「では、こちらで軽く点検だけさせて頂きますね」
そう言うと年配の店員はその「テレキャスター」を持って大きなアンプに囲まれたスペースへと向かっていった。その場に一人取り残され、手持ち無沙汰な私は何をするでもなく立ち尽くしていた。
間もなく、年配の店員が居るだろうスペースからギターの音が聞こえてきた。どこかで聞いたことのあるフレーズがクリーンな音色で聞こえたかと思うと、次は酷く歪んだ荒々しい音色が狭い店の中に響く。
その曲名を思い出す前にギターは鳴り止み、「テレキャスター」を抱えた年配の店員が私の前に戻ってきた。
「ネックやボディの状態も良いですし、フレットの減りもまだまだ大丈夫です。セレクターやボリュームも大丈夫だと思います。中古品になりますので保障期間は2週間です。気になる場所があれば早めに言って下さい」
「わかりました」
正直、年配の店員が言っていることが何一つ分からなかった私はただ頷くだけだった。
促されるままレジの前に向かう途中、年配の店員が降りてきた二階へと続く階段の方にはコンビニに並んでいる雑誌の様に、ぎゅうぎゅうと詰められたギターが目に入った。値段を見るとこの「テレキャスター」の四分の一以下の数字が書かれていた。
一瞬あっけに取られてしまったが、今更違うギターを選ぶのも気まずかった私は成す術もなく、黒いギターケースに詰められた「私のギター」を受け取った。おまけで付けてくれた三角形のピックがほんの少しだけ私の心と財布を慰めてくれた。
少し離れた駐車場に車を停めてから、黒いギターケースを肩に掛けた私が安アパートに戻るまでの心境といったら、もう既に有名なミュージシャンになったといったように、それはそれは調子が良いものだった。
すれ違う人たちが、私のことをいつもと違った目で見ているように感じられた。中身はまるで変わってはいないのだけれども。
そうしてギターを手に入れた私はパソコンの前に座ると必死になってその時車の中で聞いた曲を検索したが、何も成果を出すことは出来なかった。先生と言われるウェブブラウザも、流石に私の頭の中のごく短いギターのリフをそれと断定することは出来ないようだった。
結局のところはラジオ局に曲の問い合わせをすることで題名が分かった。対応してくれたラジオ局の職員は、私の下手糞な鼻歌や表現に根気良く付き合ってくれた。今考えると申し訳なさと恥ずかしさで消えてしまいそうになった。
だが、そうして手に入れた曲名を先生に打ち込むと、先生はその答えをいとも容易く教えてくれた。それを歌っているミュージシャンのことや、そのPVと呼ばれる動画も。
私がそのPVを再生すると、耳に残ったままのギターの音がスピーカーから流れてきた。次に、もう一度先生に「楽譜」と追加をして検索をする。
再び表示されたサイトには、学生のころには見たこともない不思議な楽譜が現れた。五線譜なら音楽の授業で見たこともあるが、これは六本の線の上に音符と数字が書かれている。
やや暫く眉間に皺を寄せながら考えていると、楽譜とギターの構造との関係性に気がついた。恐らくこの楽譜はギターの弦と弾くべき場所が書かれているものだろうと。
恐る恐るギターを抱えてみると、楽譜に指示された場所を上から一つずつ数えながら見よう見まねで左手の人差し指で押さえてみた。
思っていたより金属性の弦は指先に痛みを与えたが、我慢をして右手に持った三角形のピックでそれに対応する弦を弾いてみた。細いほうの弦から3番目、上から5番目。
するとパソコンのスピーカーから流れるギターと同じ音が、私が抱えたギターから聞こえてきた。
思わず声を上げながら、次に指示されたとおりに人差し指を置いてみた。同じ弦の7番目を押さえたまま、右手のピックで弾く。
たった二つの音は間違いなく、耳で聞いたままの旋律を奏でていた。
嬉しくなった私は次の指示に目を移すと「ばってん」が書かれていた。
そこで私は再び先ほどよりも深く、眉間に皺を寄せると思わず唸った。
何だろう、これは。暗号だろうか?
暫く考え込んでいた私はそれを無視することで対応することにした。何時の日にか、その謎が解けることもあるだろうと。
次はその下の8番目。人差し指で押さえると右手のピックで弾くと予想通りの音が聞こえてくる。勿論「ばってん」は無視をしている。その次は一番細い弦の上から6番目。何とか手を動かして人差し指で押さえてみると思いの他、痛い。その次はその左隣の弦で同じ高さ。右手のピックでその弦を弾いたころには、思わず痛みで左手をギターから離してしまった。
思わず見つめた左手の人差し指には赤く一本の線が残っていた。
じんじんと痺れるように痛む指は、何だかほんの少しだけ誇らしいような気持ちを私に伝えていた。
私が耳にしたギターのリフを思うように弾けるようになるまで、この「テレキャスター」と付き合っていこう。秋の夜は長いのだから。
秋の夜長の1小節 @yoll
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