第3話:希望

 白いシーツの上に横たわる希里は、少しだけ疲れた表情を見せたものの、いつもとそれほど変わりないようにも見えた。しかし、彼女の細い腕から延びる複数の点滴管が病状の深刻さを物語っていた。


「ごめんね。もう学校には行けないと思う」


「なに言ってんのさ。きっと大丈夫だ」


 希里の母親の話では、白血病に加え、膵臓にもがあるらしい。かなり進行しており、積極的な治療は困難とのことだった。


「なんかね。足に力が入らなくて。だから歩けないの」


「大丈夫だっての。俺がおんぶしてやっから」


 彼女に残された余命は三か月だそうだ。


「わたし、子供じゃないし、そんなの嫌だよ」


「ああ、そうだな。じゃ、あれだ。車椅子とかあるし。とにかく心配するなっての」


 ――たった三か月。 そこに刻まれた極度の時間性。

 人はいつだって誰かと出会いつつ、その人と少しずつ別れを経験しているのだけれど……。


「うん。友くんね、ありがとう」


「なあ、お前、空が見たいって、そう言ってたよな」


「うん。でもね、わたし、きっと大人になれないから……」


 未成年が地表へ出ることは法律で禁止されている。しかし、彼女は大人にさえなれない。


「んなことはねぇし。あ、そんでな、俺の親父、環境省ってとこで仕事してんだよ。なんだか似合わねえよな。でも偉いらしいからさ、頼んでみるよ。特例とか、きっといろいろあるだろ? 絶対、お前に空を見せてやるから心配するな」


「友くん……。ありがとう」


 空は何色だろう。

 青という言葉で表現される何かが必ずしも空色を意味しているわけではないのに、それは青色だよと答えるより他ない。それに似たもどかしさを友樹はずっと感じていた。言葉はある意味で不自由だ。目の前の風景や思い描いた世界を表現するのに不十分さが付きまとっている。だけれど、友樹は思う。


 ――希里が望む空色を探したいと。


 病院を出た友樹は、その足で官公庁施設が立ち並ぶゲゼルシャフト中央通りへ向かった。昼下がり、人通りも少ない歩道を駆け抜ける。どこまでも続くアスファルトは、街全体を灰色で包んでいる。


「ちくしょう、オゾン層だか何だか知らねえけど、世界をこんなんにしちまったのは一体、どこの誰なんだ。こんな運命だなんて……」


 環境省中央ビルのエントランスを走りぬけた友樹は、そのままエレベーターホールに入った。ちょうど開いた正面の扉からエレベータに乗り込むと、ドア横の案内表示に目を凝らし、国土監視局がある二十五階のボタンを押す。外気温は二十度に保たれているはずだったが、走ってきたせいか全身から汗が噴き出していた。


 程なくしてエレベーターは減速し、やがて停止する。扉が開くと、そこには偶然にも彼の父親が立っていた。


「友樹、なんでお前がここにいる。学校はどうした?」


「親父、すまない。どうしても頼みたいことがある」


 戸惑う友樹を尻目に、表情一つ変えない彼の父親は、そのままエレベーターに乗り込み、三十階のボタンを押した。


「仕事中だ。後にしてくれ」


「友達を地上に連れて行ってやりたい。どうしても、空を見せてやりたいんだ」


 電光掲示パネルの点滅が、二十七階を過ぎたことを知らせている。


「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」


 二十八階、二十九階――。


「ああ、もちろん分かっている、分かってるから親父に頼んでんじゃないかよ」


「法律で禁止されている」


「もう残された時間が少ないんだよ。あいつは、希里は死んじまうんだ……あと、三か月で」


「どんな理由があるにせよ認められない。例外など存在しない」


 友樹の父親がエレベーターを降りると、無情にも扉はサッと閉まっていく。電光掲示パネルの点滅は三十階からしばらく動かなかった。


「クソおやじ……」


 無力さが実感を伴うことで、現実はよりリアルに迫ってくる。エレベーターの中で、友樹の声にならない叫びが、周囲の空気を震わせていた。


 州立大学理工学部棟の薄暗い廊下で、あやじゅんを待っていた。天井の蛍光灯が切れかかっているせいか、微かな音を立てながら点灯と消灯を繰り返している。


 程なくして、研究室の扉が静かに開き、淳が廊下に出てきた。軽く頭を下げた彼は扉を閉めると、廊下で待つ綾に手を振る。駆け寄ってきた綾に「兄貴を説得できたよ、急ごう」というと、少し速足で薄暗い廊下を歩き出した。


「良かった。これできっとうまくいくね」


「綾は、友樹のことになると、なんていうか……。かなわないな」


「え?」


 淳は立ちどまると「僕も頑張っているんだけどね」と言って後ろを振り返る。


「どうしたの淳、なんか変よ?」


「綾、僕は君のこと、好きなんだよ。かなり前から」


「えっと……そんな、いきなり」


 困惑した表情で綾は少しだけ後ずさる。


「別に綾の返事が欲しいとか、そういうんじゃないんだ。ただ、伝えなきゃとずっと思ってた。こんなタイミングでごめん。さあ、友樹を探しに行こう」


 誰かの気持ちを分かっているようで分かっていない。誰かの感情にとらわれた瞬間、他の誰かの感情への関心が希薄化していく。

 愛情と対を成す感情は憎しみではない。それはある種の無関心。


 友樹は第三居住区の中央にある公園のベンチに一人座っていた。ここは友樹と希里がまだ小さかった頃、二人でよく遊んだ場所でもある。街並みは少しずつ変わっていくけれど、すべてが変化するわけじゃない。昔と変わらず赤い郵便ポストは路肩に立っているし、春になれば小さなピンク色の花びらが舞う桜並木も、当時と何も変わらない。


 「おーい、友樹っ」


 淳と綾はずっと友樹を探していたのだろう。二人とも息を切らして公園に入ってくる。


「希里のやつ、空が見たいって。だから親父に掛け合ったんだけど、相手にされなくて……」


「地上から空を見るのに一番安全かつ、もっとも短時間で行ける場所は、国土監視局の中央エレベータ最上層、地上気象台だ。ここで地表に降り注ぐ紫外線の計測を行っている」


「そんなところ……。どうやって行くってんだよ」


 肩を落とした友樹は、うつむいた顔を上げようとはしない。


「気象台職員じゃなくても、行ける方法があるの。淳が調べてくれたのよ」


 綾はそう言って友樹の隣に腰かけた。


「調べたって、なんでお前ら……」


「私たちも希里のところに行ったのよ。いろいろお話してきたわ。友樹が空を見せてくれるっていったけど、無理なのも分かってるって、彼女そう言うの。だから私たちも、なんとか見せてあげたいって思ってさ、青い空」


「そういうこと。で、この気象台、実は環境省から許可を得ている研究施設の職員も行くことができるんだ。これ許可証ね。磁気式カードになっていて、地表までの高速エレベーターはこれがないと作動しない」


 淳は小さな灰色のカードをポケットから取り出すと友樹に差し出した。環境省のロゴマークが入った正式な許可証だ。


「淳? お前、これをどこで……」


「僕の兄さん、州立大の地表環境研究室にいるんだよ。まあ、細かいことは気にするな。んでもって、高速エレベーターの発着施設は国土監視員が警備しているんだけどね、この裏手から進めば大丈夫だから」


 淳は携帯端末に表示された国土管理局の経路案内図を見せながら、高速エレベーターまでの道のりを説明する。


「私、希里を病院から連れてくるね。外出許可はもらっているから心配しないで。今のところ体調も落ち着いているって」


 ★

 淳の言った通り、環境省の一般通用口の裏手から入ると、誰にも出くわすことなく国土管理局の高速エレベーター発着エリアにたどり着くことができた。


「もうすぐだからな。寒くないか?」


「うん、大丈夫。友くん、なんだかわくわくするねっ!」


「あのな、これ一応、法律違反な……。それにお前、病人なんだから、体調やばかったらすぐ言うんだぞ」


「わかってるよ、もう……」


 車椅子に乗っている希里は、友樹の横で子供のようにはしゃいでいる。やがて、高速エレベーターの到着を知らせるアラーム音が鳴り響くと、目の前の扉がゆっくり開いた。


「親父……」


 誰も乗っていないはずのエレベーターから降りてきたのは友樹の父親だった。無表情で友樹を見据える父親の視線に、友樹は唾を飲みこむ。


「気象台には観測技官が一人がいる。臨時の調査だそうだ。一階層だけ下で降りろ。今の時間なら誰もいないし、あそこからは空が良く見える」


 父親そう言うと、そのまま立ち去って行った。


「すまない、親父」


「友くん、仲直りできたんだね」


 車椅子から友樹を見上げた希里の笑顔に、涙の影は無かった。

 希里はいつだって、死という恐怖に向き合いながら、笑顔を作ってきた。「えへへ」と笑う彼女の瞳に宿る悲しみの影を、孤独な感情を友樹は知っている。


 エレベーターに乗り込むと、足元の重力が消える感覚に思わずつまずきそうになる。程なくてしてエレベーターは徐々に速度を上げ、地表までの二百メートルを駆け抜けていった。


 やがて、停車したエレベーターの扉がゆっくり開くと、太陽の光が特殊ガラスを透過して、エレベーター内にまで差し込んでくる。その光の強さに二人は思わず目を細めた。


「すごい光……」


「いくよ、希里」


 希里が乗る車椅子をゆっくり押しながら、友樹は光が差し込んでくる窓際へ向かう。紫外線を吸収する特殊なガラス壁の外側に広がっていたのは、広大な大地を上から包み込んでいる青い空だった。


「これが空……」


 じっと空を見つめる友樹の左手を希里は強く握る。彼はその手をそっと握り返す。


「青……。ずっと見ていたいな。友くんとずっと」


「希里……」


「うん?」


「俺さ、お前が好きだ」


「うん」


 空が青い、そんな単純な言葉でさえ、そこには沢山の想いがこめられている。永遠が叶わないのだとしても、今この瞬間、奇跡の只中にいるのだと、そう感じることができるのであれば、それはとても幸せなことかもしれない。

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天を臨む繭の子ら 星崎ゆうき @syuichiao

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