第2話:交錯
「ねえ、友くん。空ってほんと綺麗だったなぁ。あんな青色はこの街にはないねぇ」
ゲゼルシャフトの人工灯は、太陽光を忠実に再現したものと言われているが、白色を基調としており、その光に明るさはあっても鮮やかさはない。施設内部の光源として青色のものは、交差点に設置された信号灯くらいだ。
「青色なんて、俺が色鉛筆で書いてやるさ」
「友くんの青色もいいんだけどね、見てみたいんだぁ。本物の空」
偽物の空すらこの場所には存在しない。頭上にあるのはどこまでも続く灰色の天井。人はいつしか有限の水槽の中で、無限を空を想像しながら生きる存在になってしまった。
「外に出たらあぶねぇって話、今日、聞いたばかりだろ?」
「でも私たち、本当は空の下で生活していたいのかなって。私も空の下で深呼吸とかしてみたいなって思ったんだよ。だって、あんなに高くて広いんだよ、空って」
「馬鹿か、お前は。そんなことしたらな、アチチチってなって、やけどすんぞ。紫外線なめるなっての」
「でも、あのずっと上に、空があるんだよね。一度だけ、一度だけでいいから見てみたい」
希里には見えているのだろうか。どこまでも続く青色の世界が。
悲しげな表情を浮かべた彼女は、やがて両手をゆっくり降ろすと、そのまま静かにうつむいた。
「それよか、その病弱を何とかしろって」
「はああ……そうだよねぇ。えへへ」
希里の大きな瞳から、涙がこぼれ落ちそうになっていることに、
二人の住む第三居住区は、真っ白な二階建ての戸建住宅が立ち並ぶ、広大な住宅街だ。灰色の路地が入り組み、同じような景観が永遠と続くその光景は、どことなく無機質で生活感に乏しい。利便性と合理性に配慮した結果、そこから失われたのは景色の多様性、暮らしの中の余剰。
「じゃな。ちゃんと飯食えよな」
希里の家の前で、友樹はそれだけいうと彼女に背を向けた。
「ありがとう。友くんも気を付けてね」
「おーよ」
「お父さんと仲直りするんだよっ」
友樹は振り返らず手だけを振る。ここ最近、希里は学校を休みがちだった。もともと小柄の彼女だったけど、さらに細くなったのは気のせいではない。友樹は自宅に向かう途中の路地で立ち止まると、彼女の体を支えていた自分の左腕を眺めた。
「腕、ほっそいだろ……あいつ」
街灯が友樹の後ろから薄暗い路地を照らしている。何かをつかみ損ねたように、アスファルトには友樹の両腕の影が伸びていた。
この国では、子供の死亡率が成人のそれよりも高い。百五十年前、地表で生活していた人々は、突如降り注いだ強力な紫外線によって、体の奥深くの細胞までダメージを受けたという。その後、普通に生活しているかのように見えた人たちであっても、紫外線により傷ついた遺伝子は、産まれてきた子供達にも引き継がれてしまった。つまり、潜在的にがんの発症リスクが高い子供が、小児人口の多くを占めているのだ。国土監視局の上級管理官である父親が、いつだったかそんな話をしていたのを友樹はふと思い出した。
「あんな親父……。別に仲直りなんて、したかねぇし」
学校の成績に口うるさい父親とは、しばらく会話をしていなかった。なんとなく気まずい自宅ではあったが、友樹は玄関を開け、そろりと家の中に入る。「ただいま」と小声で言いながら廊下からリビングを覗くと、父親はソファに腰かけて新聞を読んでいた。台所の流しには、朝と同じく無造作に食器が置かれたままだった。つけっぱなしのテレビからは夜のニュース番組が流れている。
『厚生省は本日付で国民健康調査の概要をホームページ上に公表しました。昨年に引き続き、死因別死亡割合のトップは悪性新生物であり、前年比で3%の増加となっています。成人では皮膚がん、小児では白血病がそれぞれ5%と6%増加し、過去最高となっています。また白内障も……』
部屋のカーテンが少し乱れていた。
父親が居座るリビングに入る気にもなれず、友樹はそのまま自分の部屋に向かった。鞄を無造作に机の上に置き、体中の力を抜くようにベッドに横になる。空が見たいと天を仰ぎながら、冷たいゲゼルシャフトの天井を眺めていた希里。せめて良い夢が見られるようにと願う。
翌日、希里は学校を欠席した。それは決して珍しいことではなかったが、体調が悪そうだった彼女を間近で見ていた友樹には気がかりだった。翌日、そしてその翌日も彼女は学校を休み続けた。希里が学校を休んで四日目の朝、クラス担任は教室に入るなり、「みなさんに大事な話があります」と言って、教卓の上に軽く手をついた。窓の外から、人工対流システムが生み出した微かな風が、静まり返った教室に吹き込んでいた。
「
教室がざわつきはじめる。淳も綾も、友樹でさえ、入院するほどな状態だったとは考えていなかった。これまで、一週間近く学校を休んでいたこともあったし、また来週になれば誰しもが希里に会えると、そう思っていたに違いない。
「二学期が始まるまでには退院できるという話でしたので、そんなに心配はいらないと思います。ただ、お見舞いは控えてほしいということでした」
友樹の視線の先にある空白になってしまった希里の机。得も知れぬ不安が、腹の底からわきあがってくる感覚に、その日は授業に集中できなかった。
いつもの帰り道も、一人欠けているだけで大きな違和感がある。灰色のアスファルトが、いつにも増して色を失っていた。
「希里のお母さんから連絡があったの」
先を歩く友樹と淳の後ろから綾が声をかける。
「希里、大丈夫なの?」
振り返った淳は冷静を装っていたけれど、やっぱり心配だったのだろう。
「白血病だって。これまでも治療はしていたみたいだったけど。病院で精密検査を受けたら……」
「白血病? 俺、聞いてねぇぞ。検査を受けたらって、いったい何なんだよっ」
子供ががんを発症することは珍しいことではない。特に白血病はありふれている。適切な治療で、健常者と変わらない生活をおくることができる人もいるが、長く生きることができない人も多い。すべては蓋然性の問題。この世界で生きていくとはそういう事。
人はそれを――、運命と呼ぶ。
「……」
「おい、どうなんだよ、綾」
友樹は綾の肩を掴んでを揺さぶった。綾の瞳にたまった大粒の涙が、彼女の頬を伝っていく。
「やめろ友樹。綾を離せ」
「がんはもうすでに全身に転移してるって。だから……」
震える声でそう言った彼女は、泣き腫らした目を両手で隠しながら、友樹の手を振り払うと、そのまま走り去ってしまった。
「おい友樹。お前、ほんと馬鹿だな。もう少し綾の気持ちも考えろよ」
「ああ、俺はどうせ馬鹿だし、人の気持ちなんて分かんねぇよ」
「だから馬鹿だって言ってんだよ。少し頭を冷やせ」
複雑に交錯する想い、その気持ちを理解することはとても難しい。感情はむしろ知覚に近い。それは心の中にあるというより、人と人との関係性の中で具現化する。状況が苦しくあればあるほど人は感情的になり、そして大切なことを見失うのだろう。
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