アパルトマンで見る夢は 15 メガネ


 らせん階段の壁画の前で、かけるは自分の入れた、Kakeru T.というサインを見ていた。


 透き通った、コバルトブルーの絵の前で、一人無言で立ち尽くす。


 メガネの奥で、目を閉じた。


 麦色のカンカン帽をかぶった頭を、帽子ごと壁に押し当てる。


 斜めになった体から、重力でネクタイだけが垂直に下がった。色鮮やかな、ネクタイの裏地が揺れている。


「カケルクン」


 と、すぐ後ろから声が聞こえた。かけるは、壁に手をついて頭を離し、振り返った。


「カケル・タダ……ペンネームを入れたのなら、この絵は完成したのですね」


 と、スーツの男が、ボストンバッグを肩にかけ直しつつ、フランス語で言ってきた。


「出発は、お父様には言われたのですか?」


「いや。子供じゃないんだから、お別れの挨拶なんてしないのさ」


 かけるは男に笑って見せた。男は黙ってかけるを見ていた。


 かけるが沈黙に耐えかねて、首を傾げて伺うと、男は控えめに微笑みながら、かけるに話した。


「いえ、これは前から気になっていたことなのですが……、あなたはなぜ、偽物のメガネをしておられるのですか?」


「ああ……伊達メガネのこと?」


 かけるは指先で、黒縁メガネを擦り上げた。


「なんて言ったらいいかな……まあ、トレードマークみたいなものかな。もう分かってるとは思うけど、僕は、形から入る人間なんでね」


「なるほど。帽子のコレクションも豊富なようですし……オシャレな人だ」


 かけるはカンカン帽を頭から取り、胸の前に当てると、礼をして見せた。「ありがとう」と、男に小さな声で言い、またかぶる。


「私は、よきライバルに巡り会えたことを、幸運に思いますよ。あなたは、アイデアの泉となるのです。では、参りましょうか」


「ああ……もう少しだけ……」


 かけるは男に明るく言った。


「先に行っててくれ。必ず追いつくから」


「……いいでしょう。それではまた、後ほど」


 男は靴音を響かせて、階段を下りて行った。表情からは読み取れなかったが、心が弾んでいるような、軽やかなステップだった。


 かけるは壁の絵を、手の平でそっと撫でてみた。ざらざらとした冷たい感触が、皮膚の表面を軽く擦る。


 それから足もとに置いていた、茶色いトランクを手に持った。


 歩き出そうとしたその瞬間、太くて大きな声が、どこからか響いてきた。


「おーい!」


 声は短く反響したので、その出所が分からなかった。かけるは手すりに掴まって、階段から身を乗り出し、下を見た。誰もいない。反対に、今度は上を見てみると、段のずっと上のほうで、父親が顔を覗かせているのが見えた。


「ようっ、要二!」


 呼ばれて、かけるは下から、同じく大きな声で応えた。


「なにー?」


「頑張れよっ!」


 父親は一言、息子にそう言い放つと、少し恥ずかしそうに、階段から奥の通路へと引っ込んで行った。


 笑いながら、かけるは再び歩き出した。階段を下って、アパルトマンの外に出た。


 丘の上から、見慣れた街並みに目を馳せる。かけるはメガネを外すと、一度だけ立ち止まり、その景色を目に焼き付けた。


 その時だった。流れの速い風が、坂道を通り過ぎて行った。風はいつかと同じように、かけるの帽子を吹き飛ばすと、ふわりふわりと、坂の下へと運んでいった。


 メガネを手に持ったまま、かけるは帽子を目指して、駆け出した。


 坂に流れる柔らかな風が、彼の髪を優しく揺らした。




◆ E N D

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アパルトマンで見る夢は リエミ @riemi

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