アパルトマンで見る夢は 14 プレゼント


 舞花は広い部屋に、そっと足を踏み入れた。


 裸足で中央まで進み、立ち止まる。青いスカートの端を両手で摘み、お辞儀をする。


「少し痩せたか」


 と、監督は言った。舞花は頷く。


「自炊をしていたので、体も絞れたみたいです。いい役作りになりました」


「では確かめよう」


 監督は座っていたパイプ椅子の背に、深くもたれかかった。椅子は、短く唸るような音を上げた。年季の入ったその椅子の音は、舞花の胸に、懐かしさを思わせた。


「今回の舞台は、数人の共演者はいるが、ほぼ、お前の一人芝居のようなものだ。こちらの準備はもう整っている。練習期間はこれから、数日ほどしかやれんぞ」


「大丈夫です。セリフも動きも、すべて頭に入っています」


「客は、形のないものに金を払うんだ。せめて土産に、心に刻める感動を与えてやれ」


「はい」


 そして、舞花は目を閉じた。その場で呼吸を整える。吸って、吐いて、目を開ける。監督を客だと思い、セリフを口にし始める。


 監督は、白髪頭を上下に一度、動かせた。舞花の演技を見つめながら、口の中で「キミカ……」と、かすかに呟いた。


 舞花は青いスカートを翻しながら、部屋全体を大きく使い、立ち回った。


 私は、鳥。人々の心に、愛を振りまく、一羽の鳥。


 誰の元にも留まらず、自分自身の幸せを探して、自由に生きる。愛されるという喜びを、糧として。


 キミカという、一つの役を演じながら、新しい境地を知るの。


 人は、何にだってなれる。変えようと思えば、変えられる。演じているうちに、やがてそれが、本物へと近づいていくように……。


 そう……自分を救えるのは、いつだって、自分の気持ち次第なの。




 下げた頭の向こうから、歓声と拍手が押し寄せてきた。


 舞花は、深くお辞儀をした体勢のまま、それを耳に入れていた。


 顔から汗が滴り落ちた。見つめ続ける舞台の床に、涙のように落ちていく。


 遥か上から、赤い幕が下りてきた。そこからわずかな風を感じた。


 下まで幕が閉じ切った、広い舞台の内側で、舞花はようやく顔を上げた。


 演出で薄暗くされていた照明が、じんわりと元の明るさを取り戻してゆく。


 舞花は裸足のままで、舞台袖へと歩いて行った。


 けれども、途切れることのない拍手に応えるため、閉じた幕の向こう側へと、再び歩を進めて行った。


 舞花はもう一度、客席に向かって頭を下げた。


 カーテンコールは何度か続いた。


 他の共演者たちも袖から姿を現すと、舞花も彼らに拍手した。


 この劇場という、大きな一つの空間に、笑顔の波が広がっていた。


 客の心に、感動を届けることができた、と思うと同時に、舞花の心にも、強い充実感が満ちていた。


 舞台の上から、舞花は客席をゆっくりと見回した。一階席を、右から左へ。そして今度は二階席を、左から右へ。


 客の中には立ち上がって、「ブラボー!」と叫んでくれた人もいた。


 後ろ髪を引かれる思いで、舞花は共演者たちと連れ添って、舞台袖へとはけて行く。


「お疲れ様でした!」


「お疲れ様でしたー!」


 大勢のスタッフの声が、同じ言葉を繰り返している。


「歌が、耳から離れないの」


 舞花は、そばに駆け寄ってきたマネージャーに言った。


「あの歌は、入れてくれて正解だった。鳥は、歌いながら飛んで行くの。物語のラストを締めるのに、これほど相応しいものはないわ」


「完璧でしたよ、舞花さん」


 マネージャーはただそれだけ言うと、舞花の手を優しく取った。そのまま手を引きながら、彼女は舞台裏から通路を歩き、舞花を楽屋へと連れてきてくれた。


 一歩中に入ると、スタッフの声も騒音も、何の音も聞こえなくなった。突然すべての音が、消えてしまったような気さえした。


 舞花は、丸いライトの並ぶ、大きな鏡の前の椅子に、そっと腰を下ろした。すぐにメイクさんがやってきて、舞花の顔から汗を拭き、手直しをし始める。舞花はされるままに身を任せた。


 マネージャーが、舞花の隣の椅子に座り、忙しげに早口で喋りかけた。


「このあと、少しの休憩を挟んで、打ち上げパーティのため、別の会場へ移動します。あと、それと……」


 マネージャーは立ち上がり、奥の机に置いてあった、長方形の平たい箱を、舞花の前に持ってきた。


「これが、舞花さん宛に届いていまして、あ、中身はチェック済みです」


「何かしら……」


 舞花は、いったんメイクさんの手を止めさせて、その箱を受け取った。膝の上にのせて、蓋を両手で持ち上げた。


 中には、白い額に縁どられた、一枚の絵が入っていた。


「キレイな絵ですよね。まるで写真みたい」


 マネージャーはそう言って微笑んだ。


「残念ながら、差出人の名はなくて……たぶん、ファンの方からの、プレゼントだと思いますが」


 舞花は言葉を失ったまま、その絵をじっと見つめていた。


 細部まで丁寧な線で描かれた、青いワンピースの自分。滑らかに入った陰影が、リアルな立体感を表している。


 舞花は鏡を見ているかのような、不思議な錯覚に陥った。けれど、それが絵だと、はっきり分かるものがある。絵の自分の後ろには、雲に似せた、たくさんの筋で、あるものが足されていたからだ。


 羽だった。薄い青色に染まった、柔らかな羽が、舞花の背中から広がっている。


 下のほうに書かれていた、小さな細い文字を見つけ、声に出して読んでみた。


「Kakeru T.」


 サインは絵に溶け込むように、背景の空と似た色合いで記されていた。


「知っている方のお名前でしたか?」


 マネージャーの問いかけに、舞花は「ええ」と、頷いた。


 自分の腕を撫でながら、静かな声でこう言った。


「彼の、もう一つの名前なの。それに……とてもステキな、役者さんだったわ」


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