アパルトマンで見る夢は 13 窓
舞花はオフホワイトの、クローゼットの扉を手で閉めた。
中に吊っていた青いワンピースは、すべて、ダンボールの一つに収めることができた。
鏡台の上から、並べていた化粧品の数々を、黄色いスーツケースの中にしまった。ほとんどが、中身を使い切ったあとの、空の瓶になっていたので、来た時とは違い、スーツケースは軽かった。
舞花は、ボタニカル柄の長いスカートを翻しながら、寝室を出た。
キッチンの棚を、一つずつ開けて確認をする。残っているものは何もない。
冷蔵庫の扉を開ける。食材はキレイに食べつくした。空っぽなのを見届けてから、また閉める。後ろのコンセントに手を回し、プラグを引き抜く。
洗面所へ行き、洗濯機の中を覗く。何もない。
お風呂場にも向かい、その場で全体を見回してみた。シャンプーやリンスも、昨夜、使用したあとに片付けた。上を向いたシャワーヘッドからも、水は落ちていなかった。
スーツケース一つと、ダンボール二つと、ゴミ袋一つを、部屋から出して、廊下に置いた。
廊下には、若い女性マネージャーが立っていた。
「本当に、お手伝いしなくてもよかったんでしょうか?」
彼女は、スーツの丸い襟の上で、ちょこんと首を傾げて見せた。短い黒髪が、片側に流れた。舞花は一度、大きく息をついてから、彼女に言った。
「ええ。さっき、布団を運んでもらったでしょう? それだけで十分。あとは全部、自分の手で、片付けておきたかったのよ。だけど……ここからは、ちょっと手を貸してもらえるかな。車までは遠いから」
「了解です」と言って、彼女はダンボール二つを、重ねて持った。「頑張れー」と舞花が短い声援を送ると、「はいっ」と返答し、急ぎ足で歩いてゆく。
舞花は玄関から、部屋の中を眺めてみた。狭いアパルトマンだった。でも、生活するには十分だった。むしろ、狭いからこそ、掃除をするのも楽だった。
いろいろな思い出が、心に湧き上がってきそうになった。それでも、舞花はあえて、買い物にでも行くかのような、そんなさり気なさで、扉を閉めた。
感傷に浸っている場合じゃないわ。前を向いて行くんでしょ、舞花。
持っていた鍵を、鍵穴に差し込みながら、舞花は自分を勇気づけた。
来た時と同じように、つばの広い麻の帽子と、サングラスを身につける。
残った荷物を両手に持つと、マネージャーのあとを、サンダルの靴で追いかけた。
アパルトマンの入り口付近に、光沢のある黒いワゴン車が停められていた。
マネージャーは、車のドアをスライドして開け、二つのダンボールを中へ入れた。
「ロケ用の車を回してきたんですけど、意外と少なかったんですね」
明るく笑って言いながら、舞花の手から荷物を受け取る。
「ねえ、ちょっと待ってて。多田さんに、挨拶してこなくちゃ……」
言いながら、舞花がアパルトマンを振り返ると、ちょうど表に出てきた、オーナーの姿が見えた。舞花はふと、その隣のほうに目をやった。いつもかけるが座っていた場所。そこには今、かけるはいない。それに、リンゴの絵がついていた木箱も、イーゼルに立てられていた看板も、初めから、何もなかったかのように、すっかり片付けられていた。
舞花は少し、胸の痛みを感じながら、オーナーの前に歩いて行った。オーナーに、部屋の鍵をそっと手渡す。オーナーは、低い声で舞花に聞いた。
「お忘れ物はないですか?」
「たぶん……。もし見つけたら、処分してくださって大丈夫です。必要なものは、全部、持ちましたから」
「探していたものも?」
その一言に、舞花はドキッとした。それでも、静かにサングラスを外すと、オーナーの目をしっかりと見据えて、舞花は強く頷いて見せた。オーナーは満足げな笑顔を見せた。
「私の息子も、旅立ちの準備をしていますよ。三年ぶりに帰ってきたと思ったら、またフランスへ行くんだとか。まったく、慌ただしいやつです。とはいえ……出発の日時は、まだ決めてない、とも言っていましたがね」
「多田さんにも、息子さんにも、とても感謝しています。孤独な私の、話し相手になってくださって。彼にも、どうかよろしくお伝えください。本当は今日、直接、お別れを言えたらよかったのですが……」
「いえいえ、お気になさらずに。あいつは朝から、図書館に行くと言って、出て行ったきり。待っていても、帰ってはこなかったでしょう。そこへ行くと決めた日には、長時間、気の済むまでいるんですよ。美術の写真集だったり、図鑑だったり、好きな本が豊富に揃っていますから、読むのについ、没頭してしまうんでしょうな」
オーナーは坂の上から、遠くに少しだけ見えていた図書館の屋根に、細めた目を向けていた。舞花もそちらを眺めながら、オーナーの静かな語りを、隣で聞いた。
「それで、思い出したんですが……あいつはよく一人で、借りてきた絵本なんかを、何度も繰り返し見ているような、そんな子供だったんですね。友達もいませんでしたし、今思えば、その経験があったからこそ、絵の道を目指したんじゃないか、と……。一人でいる人間は、他と違って、独自の個性が芽生えやすい。芸能界でも、同じことが言えるのではないでしょうかね。私なんかが、偉そうに言うのもなんですが……。個性的な人というのは、つまり、孤高の人なんですよ。他人に惑わされず、自分を磨ける人、といいますか……。ですから、一人の時間は、クリエイティブな人間にとって、必要不可欠だということです」
オーナーは舞花の横顔に目を移した。舞花はその視線を感じながら、前を向いたまま頷いた。オーナーもまた前を見つめた。
「私も息子と離れ、このアパルトマンの中で一人、アイデンティティを模索することにいたしましょう。いやぁ、いくつになっても、答えの出ない謎解きみたいなものですがね……ハハハ」
さわやかに笑ったオーナーに、舞花も明るい笑みを返した。
舞花は、とても有意義な話を聞けたような気がした。もしかけるがここにいたら、オーナーはこんな話をしてはくれなかっただろう。かけるが図書館に行ってくれていて、よかった、と、舞花は思った。
それに、さよならを言いたくはない……。見送ってくれなかったわけを、舞花はかけるの立場になって考えてみた。この場にいないという意味を、想いを、そう汲み取ってくれ、と、彼が伝えてくれているような、そんな気がした。
「舞花さん、行きますよー」
運転席に座ったマネージャーが、開いた窓から呼びかけた。
「お元気で」と、オーナーが言った。「はい。多田さんも」と言って、舞花は小さくお辞儀した。
オーナーが手を振る中、舞花は後部座席に乗り込んだ。
車がゆっくり動き出す。
窓にかけられていた、車内のカーテンの隙間から、舞花は遠ざかってゆく景色を見つめた。
佇むオーナーの姿が、だんだんと小さくなっていく。
アパルトマンの白い建物も、坂を下って行く車の窓から、徐々に見えなくなってしまった。
街並みが、速いスピードで流れては、遠くのほうへ消えていく。
よく通っていたスーパー。白線の途切れた十字路。瓦屋根の、ケーキ屋さん。郵便局と、かけるのいた、あのバス停も……。
何を思いながら歩いたか、私以外に、それは誰も知ることはない。窓はただ、景色だけを流してゆく。その場所は、月日とともに、いずれ変わってしまうだろう。それでも、記憶の中では、決して変わらないし、変えられない。巻き戻せない、過去の時間と同じように……。
「一ヶ月って、早いわね。忙しかった時は、私、分刻みで生活していたから、一日が経つのも、とても長く感じていたのに……」
舞花の呟きを聞いて、マネージャーは運転席から、振り返ることなく声をかけた。
「舞花さん、働き過ぎなんですよ。雇われている私が、言っちゃいけないことかもですが。お休みをもらえて、ちょうどよかったって思ってるんです。そりゃ、一人で行かせるには心配でしたが……。今後も無理してまで、お仕事は続けないでくださいね。いつか倒れちゃいますから」
「大丈夫。ちゃんと分かってる」
舞花は、窓のカーテンをしっかりと閉めた。
「それで、明日からのスケジュールなんだけど」
「え、もう復帰モードですか?」
マネージャーは小さく笑った。気にせず、舞花は後ろから話し続けた。
「とりあえず、まずは衣装さんに、借りていたワンピースをお渡ししてね。いくつかホツレができたから、直せるようだったらお願いしたいの」
「分かりました。ダンボールごと送っておきます」
舞花は帽子を脱いで、自分の長い髪に指を滑らせた。
「あと、ヘアサロンの予約と、ボイストレーナーさんに連絡して。指導を依頼したいの。台本に急きょ、歌が入ったそうだからね」
「パーマ取れちゃってますもんね、舞花さん。でも私は、どんな舞花さんでも好きですけどね。たとえ音痴だとしても」
舞花は、バックミラーに映るマネージャーと、目を合わせながら、声には出さずに笑ってやった。
「あっ、そうだ。舞花さんがいない間、マスコミの記者が取材に来ましたけど、なんとか誤魔化しておきましたから」
顔色も変えずに、マネージャーは淡々と言った。
「お休みをいただいているのは、別に体調不良とかじゃないんです、心配しないでください、って。彼女は今、リゾート地へバカンスに行ってるんです。羽を伸ばしているんですよ、と……。すみません、他にいい感じの、思いつかなくって」
「分かった、バカンスね……。いいたとえじゃない。だってそれって……」
舞花は笑顔で言い切った。
「合ってる」
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