アパルトマンで見る夢は 12 鏡
鳥の声で目が覚めた。
舞花はベッドから起き上がると、窓のカーテンを開け、空を仰いだ。
三日間降り続いていた雨は上がり、雲一つない晴天が広がっている。二羽の鳥が、大空を自由に遊んでいた。
舞花はクローゼットの扉を開けた。何着もの、同じ青いワンピースが、ハンガーにかけられ、整列している。
舞花はその一つに身を包んだ。
鏡の前で、手ぐしで髪をときながら、映った自分に、心の中で呼びかける。
今までどこにいたの。なかなか探してあげられなくて、ごめんね。きっと私は、見えない先のことばかりを気にしすぎていて、勝手に塞ぎ込んでいたのね……。
そして、声に出して、力強く言ってみた。
「やってみなければ、何も分からないし、変わらない」
そんな当たり前のことが、ようやく分かるようになったなんて、なんて無知だったんだろう、私……。
鏡に向かって、笑顔を作る。両手で、両頬にそっと触れる。
自分の顔は、直接、自分の目で見ることはできない。それでも笑う。自分のためだけじゃない。見てくれるすべての人たちへ、心の中へ、想いを届けられるように。
それ以上の望みはないわ、と、舞花は思った。それが、私の生きる道。
アパルトマンの前には、黄色いニット帽をかぶったかけるが、木箱に座って絵を描いていた。それぞれ大きさの違うボタンが、着ている服に、縦にいくつも連なっていた。
舞花の靴音を耳にして、かけるはピタッと手を止めた。舞花を見て、それからすぐに、空を見た。かけるは、
「今朝、キレイな虹が出ていたんだよ。とても大きな架け橋だった……。それで僕は、何かいいことが起きるんじゃないかって、思うことにしたんだ」
と、舞花に静かなトーンで話した。
舞花は、かけるの前に置かれている木箱に、そっと腰掛けた。
「今月が終わってしまう……。きみの似顔絵は、間に合わなかった。でも僕は、きみが目の前にいなくても、きみの姿を描くことができるよ」
かけるは、スケッチブックを閉じて、その上に鉛筆も置いた。
「胸の中に、きみはいるんだ。たとえ、もし僕が、きみの顔を忘れてしまったとしても、きみは女優さんだからね。見ようと思えば、いつでも見ることができるだろう。それはつまり、星なんだ。僕が道に迷った時も、きみを目印にして、歩き続けて行けると思う」
言い終わると、かけるは小さな笑い声を上げた。
「よし。上手く言えたぞ。これできみも忘れないだろ? こんなキザなセリフを言うやつが、いたんだっていうことを」
「あなたは、どんな時でも……深いことを、平気な顔で言う人だった。あなたの言葉に、私はきっと救われたの。だから、忘れるわけないじゃない……」
俯いた舞花に、かけるは帽子の上から頭をかいて、おどけたように呟いた。
「そうかい? なんか、説教くさいことを言っていたような、そんな気はするけどね……」
俯いたままで、舞花は笑った。
かけるは舞花を見つめながら、何かを話そうとして、何度か口を開きかけた。けれど思い直したのか、その時は何も、喋らなかった。
向かい合ったままの二人の間に、柔らかな風だけが流れていった。
舞花は顔を上げ、かけるを見た。かけるも舞花の顔を見ていた。舞花が笑うと、同じようにかけるも笑った。
「私たちは、似ていたわ。まるで鏡を見ているように。同じように悩んでいたの。あなたに会えたから、私は、彼女も見つけることができたのよ」
「……あのワインを見た時……」
かけるは、ゆっくりと口を開いて、抑えた声で、舞花に伝えた。
「そうじゃないかって思った。二人分あったから。探してた人に、会えたんだろうな、って……。だけどそんなこと、僕にはどうだってよかったんだ。ただここにいてほしい。できることなら、ずっと、きみと笑い合って過ごしていたい……。でも、そういうわけにはいかないだろう? きみが出ていくのなら、僕だって、もう、ここに留まり続ける理由はないと感じたよ。だから決めたんだ。もう一度、パリへ行くよ」
舞花は大きな目を見開いて、かけるの声を聞いていた。
「応援してくれる人がいたんだ。人は、自分のためだけじゃなく、必要としてくれる誰かのためにも、生きてゆける。そこに深い意味なんて、探さなくたっていいさ。きみなら分かるよね。ファンが待ってる、ただそれだけで、頑張ろうって思えるばずだ」
舞花は目に熱いものを感じた。早い瞬きを繰り返しながら、かけるに何度も頷いて見せた。
「ええ、そうね……。私も、あなたが成功するように、祈っているわ。短い間だったけど、話せてよかった。本当にありがとう……。……もう、行かなくちゃ。朝までに、荷造りをしておかないと……」
舞花は立ち上がった。その瞬間、かけるに腕を掴まれた。はっとして、舞花はかけるの顔を見た。かけるは、慌てて手を放した。
「ごめん、これで最後なんだと思うと……」
かけるは、スケッチブックと鉛筆を木箱に置き、舞花の前に立って、右手をそっと開くと、言った。
「僕と、握手してください」
舞花は、優しく笑って、「はい」と答えた。そして、右手ではなく、左手を出した。かけるはそれを見て、自分も左手を差し出した。
舞花はかけるの左手を、両手で包んだ。ペンダコのついた、かけるの利き手を、手で撫でる。
かけるは目を閉じた。感触を、記憶に留めておくかのように……。
舞花は心の奥で願った。
どうか神様。この手が、素晴らしい芸術を作り出せますように。そして、いつか誰かの、心の中に……美しい思い出として、ずっと長く、あり続けますように……。
白いお皿にパスタを盛った。
寝室の、丸い机の上まで運ぶ。赤いワインと、チーズものせた。
いつもと変わらない、音のない、静かな食卓だった。
ここでの、最後の晩餐ね……。
舞花は一人、微笑んだ。
パスタをフォークに絡ませながら、ふと顔を上げると、白い縁飾りの鏡が見えた。
舞花は、鏡の向こうの、反転した部屋の中にいる、自分を眺めた。
大丈夫。自分が、自分を信じてあげられないようじゃ、誰も信じてくれないでしょう。不安がないと言ったら、ウソになる。それでも私は、プラス思考を貫きたいの。
今すぐ、答えが出なくてもいい。歩いているうちに、後ろに道はできてゆくから。何も無駄にはならないわ。今はただ、前を向いていれば、それでいい。
不意に舞花は、かけるに腕を掴まれた感覚が蘇った。
フォークを皿に置き、もう片方の手で、腕をさする。
私は、彼の星になるの。
かけるに言われたことを、心に思い返していた。
彼が迷った時も、私が導いてあげられるように。強く、輝けるように。
私に光を見れたなら、きっと彼も輝ける。似通った二人なら、この鏡のように……。
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