アパルトマンで見る夢は 11 傘


 曇り空。丘の上に、湿気た空気が充満していた。


 かけるは木箱に座ったまま、街並みの絵を描いていた。


 冷たい風が、坂の下から吹いてくる。上の部分がへこんだ、茶色い中折れハットを、かけるは飛ばされないよう、手で押さえた。


 チェック柄のワイシャツが、風を受けて膨らんだ。晴れた日には、そのシャツの鮮やかさが、際立ったことだろう。しかし今は、空と同じように色褪せて見える。


 白いシャツを着た男性が、黒い傘をさして、かけるの前に現れた。


 かけるは、空を見た。雨が降るにはまだ早い。それから男に目を向けた。男は、かけるの数歩前から動かない。傘の下から、風に揺れる金髪と、彫りの深い顔が見えた。


「ボンジュール」と、男が言った。


「ボンジュール……」と、かけるが返す。


 フランス語が通じると分かり、冷たそうな男の顔には、わずかに笑顔が広がった。


「あなたを知っていますよ」


 男はフランス語で続けた。


「でも確信が欲しかったのです。私はスーパーへ行きました。そしてお店の人に、あなたのことを聞きました」


「……僕のことを?」


 かけるは手を止め、男に言った。男はこくり、と頷いた。


「日本語できるの?」


「いいえ」


 男は、傘を持つ、反対の手に持っていた、薄い携帯電話をかけるに向けた。電話から、日本語で「わたしは、ふらんすじんです」と、機械の音声が流された。


「そして、画家の一人です。あなたと同じですね」


 かけるは鉛筆を指で回しながら、男を見上げ、話の展開を考えた。それから、提案してみた。


「描きましょうか。どうぞ、座ってください」


「いいえ、私は、あなたのことについて、聞きたいのです」


 かけるは鉛筆を回す手を止め、胸の前で両腕を組んだ。男は、身長が高く、背筋もピンとしていて、どことなく威圧感を漂わせていた。


「僕のことを、後ろの窓から見ていたのは、あなたですか?」


 かけるの問いに、男は答えた。


「はい。私は、カーテンの向こうから、ずっとあなたを見ていました。正しくは、あなたの絵について、調べていました。同業者として、力量を。そして、どこかで見たことのある描き方だなと、思ったのです」


 かけるは、膝の上からスケッチブックを持ち上げて、今描いていた絵を、男に向けた。男の顔は、微笑を保ったまま変わらなかった。


「それは、モンマルトルですか?」


「違うよ。ここからの眺めを描いているんだ」


「モンマルトルに見えますね。私が住んでいた街です。そこで、一人の男に会いましたよ。それは確か、かけるくんという名前の、若い絵描きでした。彼は、とても変わっていました。明るい色の服を着て、そして、よく喋る方でした。私は似顔絵の客として、一度だけお話をしたのですが」


「覚えてないな……。人違いかもしれないよ。世界には、似た顔の人が、何人かいるっていうからね」


「そうでしょうか。でも絵のタッチまでは、似させることはできません。そう、私は、忘れることができなかったのです。彼は、私に足りないものを持っていましたから。だから私は、旅に出ました。ここに住み着いたのは、もう約二年も前のことです。ここの景色が、モンマルトルの丘に似ていると、話に聞いてきたからです。いったい、誰に聞いたと思いますか? こんな田舎の風景が、あの華やかな街に、似ていると」


「さあ。誰だろうか」


 かけるは、男の顔から目をそらした。けれど男は、かけるの視界に入るように、さらに一歩近寄ってきた。


「あなたですよ、かけるくん。似顔絵のさなか、教えてくれたではありませんか」


 かけるは軽いため息をついた。芸術家には変わり者が多いと、かけるには分かっていたが、ここまで回りくどい人は初めてだった。


 男はさらに話を続けた。かけるは、自分がフランス語ができるということを、こんなにも残念に思ったことはなかった。


「あなたには才能がある。それなのに、なぜこんなところにいるのですか。私は、何度も自暴自棄になりました。あなたという存在を、知ってしまったからですよ」


「嫉妬する要素なんて、一つもないだろう……。僕の何を知ってるって言うんだ」


「知らなかったから、それを調べるのに、一ヶ月もかかったんですよ。あなたには二面性がある。絵を描いている時は、かけるくんというキャラクターを演じているかのように、生き生きとして明るい。しかし描いていない時のあなたは、まるで抜け殻のようだ。どちらが本物なのでしょうね? どちらとも、あなたであるということに、変わりはないのでしょうが」


 かけるは、暗い空に顔を向けた。この人は、僕という人間の性質を、知っているのだ、と感づいた。この人には、ウソは、簡単に見透かされてしまうだろう。


「表と裏。一つだけど、別なんだと僕は思うよ。決めることができるなら、僕は絵描きとしての自分を、認めさせたいと思ってる。僕は、かけるくんという媒体を介して、芸術作品を世に飛ばせたいんだ。それをしている時以外の僕なんて、言ってみれば、ただのおまけでしかないんだよ。本当の意味で、生きているとは言えない」


 かけるの言葉の意味を、男は考えるためか、しばらく口を閉じていた。


 雨が降り始めたので、かけるはスケッチブックを閉じて、立ち上がった。それに気づき、男は早口で喋った。


「……仕事をしたい。絵を描いて……」


 えっ……と、かけるは男を見上げた。言葉の前後が、早すぎて聞き取れなかった。


 男はもう一度、今度はゆっくりと、単語を区切るように発した。


「あなたと、一緒に、仕事をしたい。絵を描いて、展示会を、開きましょう」


「……どこで開くのですか?」


 男は、射るような強い眼差しを、かけるに向けながら、言い放った。


「芸術の街、モンマルトル。大丈夫。どこにいようが、吹く風は、同じです。この世界には、吹かない国など、ないのですから。私たちは、鳥のように、この風に乗って、どこからでも、そして、どこへでも、飛び立つことができるのですよ」


 かけるの手から、鉛筆が滑り落ちた。軽い木の音を響かせて、地面にバウンドし、坂道へと転がって行く。


 黒い傘の下で、白いシャツのモノクロな男は、雨に濡れてゆくかけるの姿を、まっすぐな瞳で見つめていた。


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