ある港にて

@yoll

フィクションかノンフィクションかはご想像にお任せします

 ある日の夕暮れのことである。1人の釣り人がテトラポットの上で穴釣りを楽しんでいた。辺りには他の人影は見えない。

 それ程大きくは無い港の防波堤の向こうにはテトラポットと呼ばれる波消しブロックが複雑に積み上げられている。その積み上げられたテトラポットの間から釣り糸を垂らし魚を釣り上げる。それが穴釣りと呼ばれる釣りの楽しみ方の1つであった。

 釣り人はその日の朝方から穴釣りを楽しんでいた。朝マヅメと呼ばれる魚が釣れ易い時間帯には、この釣り人の他にも幾らかの釣り人がテトラポットから糸を垂らしていたが、昼頃になり一度さっと雨が降ると蜘蛛の子を散らすように港を去っていった。恐らくは帰るのだろう。

 残ったこの釣り人は、日々の残業を乗り越えやっとのことで有給申請を勝ち取った後にこの港へやってきていた。冷たい雨ごときで帰ろうなどというつもりは毛頭持ち合わせていなかった。何れ晴れ間があるだろうと楽観的に思い、一人糸をたらし続けた。

 釣果はまずまずの物であった。根魚と呼ばれるそれなりに引きを楽しめる魚を何匹か釣り上げた頃には、何時しか曇天の空にはうっすらと茜色の日が差し込んでいた。

 ぶるり、と釣り人は体を震わせた。雨に打たれた体は防寒用のジャンバーを持ってしても冷たく冷え込んでいた。ふと、腕時計を見ると短い針はもう直ぐ4の文字を指し示そうとしていた。

 ――頃合か。

 釣り人は港から自宅まで車で帰る時間を考えるとそう判断した。明日からはまた仕事があるのだ。楽しい時間は過ぎ去るのが早いとは言う物だが、同感であると釣り人は1人テトラポットの上で頷いていた。

 握っていた竿を海に落ちないようゆっくりと傾斜がかったテトラポットの上に置くと釣り人は海鳥の糞が落ちていない面を探し、そこに自分も腰を下ろした。テトラポットという物は存外大きく、傾斜になっていることも多い。そもそもの所、その上で人が何か活動をするように考えられて積まれている訳ではないのだから。

 そのテトラポットを朝からジャングルジムのようにくぐり、のぼり、魚が釣れるだろうポイントを朝から歩き回っていたのだ。腰を下ろしたとたんに疲れがどっと噴出してきた。

 思えば暫くの間、食事も口にしていない。釣り人はコンビニエンスストアでおにぎりや魚肉ソーセージなどと言った、汚れた手でも食べやすい食料を買い込み、腰に下げているポシェットに入れていたのだが、この日は他に釣り人の姿が無くなったため、何時もは先客が居ることの多いポイントを攻める事に夢中となりそれを取り出すことを忘れていた。

 疲れの他に空腹を感じ始めた釣り人は思案した。家に着くまでは2時間ほどは掛かるだろう。それまで胃に何も入れないでいるのは少し辛い。今のうちに何か口にするべきだろうかと。だが、空腹よりも先に釣り人を急かすものがあった。

 渇きである。

 口の渇きを一度感じると、釣り人の体はまるで全力疾走をした後のように水分を求め始めた。我慢が出来ない。そう感じた。

 仕方無しに釣り人はポシェットを開けると中からペットボトルのコーヒーを取り出した。まだ外灯が灯ることには暖かかったそれはすっかりと冷え切っていた。

 ぐるりとペットボトルのキャップを回すと茶色い液体を一気に呷った。普段はブラック党の釣り人だが、この日は売り切れていたため已む無く微糖を選ぶことになってしまった。微糖とは謳ってはいるものの、甘ったるいコーヒーが喉から胃に流れ込んできた。

 ――冷たい。

 何時もと違うコーヒーの味に色々言いたいこともあったが釣り人がまず始めに感じたのは冷たさであった。冷えた体が尚のこと温度を求め小刻みに震えた。

 ならばと釣り人が次に選んだことは食事であった。胃の内容物を感じられないこの状態では体が熱量を生み出すことも困難だ。それならば補給を行うまで。

 再びポシェットを弄ると潰れかけた筋子のおにぎりが手に収まった。素早くフィルムをはがすとやや汚れている手の事は意識の外に追いやり、えい、と齧り付く。

 よほど腹をすかせていたのだろう、釣り人は碌に噛みもせずにものの数口でおにぎりを平らげると再び冷たいコーヒーを胃に流し込んだ。

 満足感とともに小さく息を吐き出すと釣り人は茜色に染まり始めた夕暮れの空を眺めた。遠くではカモメや名前の知らない海鳥が大きな翼を広げ悠々と力強く羽ばたいている。

 自然を感じた。大いなる自然を。

 釣りは詰まるところ自然との対話の時間を贅沢に使っている行為だ。そう釣り人は柄にも無く信じていた。釣りをすれば心が晴れる。だからこそ、失っていた明日への活力が体の何処かに芽吹くのを感じていた。

 やや暫くの間、釣り人は茜色の空を眺めていたが不意に異変を感じた。

 ちくり、ちくりと脇腹の辺りが針にでも刺されたかのように痛み始めた。その痛みが治まるのを釣り人は手でさすって待っていたが、一向に治まる様子は見えなかった。それどころか下腹部の辺りには鈍痛とも言える熱い痛みが襲い掛かってきていた。

――不味いな。

 慣れない微糖のコーヒーと筋子のおにぎりの取り合わせは思いのほか釣り人の腸に深刻なダメージを与えたらしい。徐々に激しくなる痛みを釣り人は堪えていたが、恐るべきことに時々肛門の辺りには熱が襲ってきていた。

――持たないか。

 釣り人はうっすらと額に汗を掻きはじめていた。元々胃腸の弱さには定評がある。会社でも度々同僚には「うんこですか?」と冷やかされることも1度や2度ではない。

 しかし、だからこそ釣り人は慌てることはなく、冷静に居ることが出来た。これくらいの窮地など、何度も乗り越えてきたのだ。此処は下手には動かず波が引くのを待つべきだ。そうして冷静に頬を伝う脂汗を拭う。

――便意との戦いなど慣れたものさ。

 そう釣り人は徐々に引いていく波を感じながら唇の端を持ち上げる。何といっても経験キャリアが違う。対策も取れないようでは胃腸が弱い人間が大自然に挑むなどみすみす負けに行くようなものさ。釣り人は心の中でそう嘯いた。

 少しの間をおいた後、急激に引いていく波を感じ釣り人はすっくと立ち上がった。

――やるか。

 その顔には確固たる決意がみなぎっていた。釣り人は知っていた。一度引いた波は次にやってくる頃には全てを流し去ってしまうほどの奔流となって来る事を。だが、それは既に対策済みだった。釣り人ほどの経験キャリアを持つ者であれば尚更である。

 ポシェットを外し竿の隣に置くと釣り人はするりと猿のように素早く、だが慎重にテトラポットを降りていくと、具合のよさそうなポイントを見定める。両手両足がしっかりと地を踏みしめられる程のスペースがあるその場所を。

――あそこだな。

 テトラポットが積み重なる内部は既に日の光は届かず薄暗い。その奥には海面があり落ちてしまえば無事に港へ戻ることは出来ないであろう。ぶるりと体を震わせながら釣り人は慎重にポイントへと移動をした。

 2本の足はしっかりとテトラポットという地を踏みしめている。直ぐ近くに見える海面は、ばちゃん、ぱちゃんと水面を揺らしている。その奥は闇そのものが広がっていた。

 突然、大きな波が釣り人を襲った。この場合の波とは、海が起こした物ではなく自身の体から、いや下腹部から肛門にかけての鋭く刺すような痛みと便意と事だ。だが、釣り人は慌てなかった。此処で果てていった幾人かのことも知っている。焦りは失敗ミスを呼ぶ。失敗ミスは悲劇を生む。

 おもむろにベルトを外すと今では見ることも、いや、見てしまうことは稀なため、行う人間が少なくなった和式便座での排泄の構えを取った。

 やがて大きな波は釣り人の体を駆け抜けた。

 ばちゃん、ぱちゃん、ぽとん。

 詳しく述べることは止めておこう。1つ言える事は釣り人は負けなかったと言う事だ。只、釣り人は一つのミスを犯していた。経験キャリアを持ってしても失敗ミスが生まれることは往々にしてあるものだ。

 やや暫く時間を空け、釣り人はテトラポットの上に戻ってきた。苦笑を浮かべながら。

 手早くポシェットを腰に着け、竿を手に持つと確かな足取りで自らの車が待つ港へと去っていく。既に茜色の空は藍色の空へとその景色を変えていた。

 何処かで物悲しさを覚える海鳥の泣き声が聞こえた。だが、それを耳にする釣り人はもうどこにも居ない。

 テトラポットの間には、茶色い色が付いた靴下が1つ寂しそうに置かれただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある港にて @yoll

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ