壱章 出逢イハ嵐ノ如ク⑥

 しかし、零の言葉の意味は数日後に解明された。それは藤ノ宮家の門扉を叩き、白木の後について千鶴子の元に行こうとしていた矢先のこと。背後から白木を呼び止める声が聞こえた。

「お帰りなさいませ、零様。お早いお帰りですね」

 背後からやってきた零に白木が頭を下げた。今日も隙なく軍服を纏い、凍えるような瞳をしている。

「おい、娘」

 その視線が自分に向けられていなければ、桜子は今すぐにでも回れ右がしたかった。しかし、実際にはそんなことができるわけもなく。

「……何でしょうか」

「ついてこい」

 嫌です、と反射的に答えそうになり、慌てて口をつぐむ。白木を見れば、「奥様にはお伝えしておきます」と、ある意味いらない優しさが返ってくる。桜子は連行される罪人の心境で零の後についていく。

 何か呼び出されるようなことをしただろうか、と歩きながら考え、桜子は顔を覆う。心当たりは、ありすぎる。自分の行動を思い出して青くなる間にも零は庭へと出る。そして、屋敷からさほど離れていない場所で立ち止まった。

 怯える桜子を振り返り、零はおもむろに懐から小さな包みを取り出した。薄紅色の包みは女性が好みそうなもので、零にはひどく不釣り合いだった。何事かと首を傾げれば、その包みが無造作に差し出された。

「借りだ」

 首を傾げる桜子にそっけない声が落ちる。

「この前は世話になった。だが、それだけだ。借りは返すからそれ以上のものを望むな」

 言われている意味がわからなかった。だが包みを押しつけられるように渡された瞬間、理解する。つまり、だ。謝礼欲しさに華族を助けた。──そう、思われた。

 至極完結にまとめて去ろうとする背を見つめ、桜子はきつく唇を噛み締めた。渡された包みを投げつけようとし──寸前で踏み留まる。

「……要りません」

 怪訝な顔で振り向く零を静かな怒りを湛える瞳でまっすぐ見つめ、包みを突き返す。

「お礼が欲しかったわけではありません。人として当たり前のことをしただけです。だから、いただく理由はありません」

 そう言い切る桜子に零はわけがわからないという顔をした。

「……要らないと?」

「はい」

「ならば何がいいんだ」

 嘲りでも皮肉でもない、純粋な疑問であった。心底わからないといった表情に桜子は思わず叫ぶ。

「お金ですべてが解決するなんて、そんなの大間違いです!」

 薄紅の包みを零へ押し返し、桜子は脱兎の如くその場から逃げ出した。


 去りゆく背中を見遣り、零は突き返された薄紅色の包みを無言で見下ろした。なぜ平民のあの娘がこれを突き返したのか、零にはさっぱりわからなかった。いつの間にか屋敷に出入りしている平民の娘。この前、己の不注意で負った傷の痛みに耐えきれず倒れた時は、本気で間の悪さを呪った。

 仕事柄、怪我など珍しいことではないが、此度の一件は自分の不注意が招いたことだ。脱獄した政治犯が人質を取り、何を思ってか決死の立て籠もり。その捕縛に駆り出されたのはいいものの、捨て鉢になって刃物を振り回す犯人から部下を庇ってこの様だ。傷は深くはなかったが、動かすたびに鈍く痛む。

 思わず嘆息する。母の気まぐれは今に始まったことではないが、さすがに平民の娘を巻き込むのは如何なものか。突き返された包みをどうするべきかと考えていると、使用人が呼びに来る。

「零様、お客様です」

「客? そのような予定はないが……誰だ」

「わたくしですわ、零様」

 女の声が聞こえた。零はかすかに顔をしかめる。

「お迎えに上がりましたのよ」

 夜会服を纏った美しい娘が、零を見て微笑んだ。

 千条院詞季子。父親は帝国陸軍少将。権力とツテで華族との繋がりを作った成り上がりの娘だ。少将の一人娘とあっては邪険に扱うことができず、それを何と勘違いしたのか事あるごとに擦り寄ってくる。

「何か用でも? 詞季子殿」

 冷ややかな声に詞季子は心外だとでもいうような顔をした。

「やはり忘れていらっしゃいますのね。今夜の夜会には出席すると以前お約束しましたでしょう?」

 それを聞き、零は記憶を探る。そういえば、そんな約束をしたような気もする。おそらくは詞季子をやり過ごすための適当な言い訳だったのだろう。夜会は嫌いだ。

「私でなくとも、貴女ならいくらでも相手がいるでしょうに」

「あら。わたくし、貴方以上の殿方など見たことありませんわ」

 何を思っているのかわからない瞳をして詞季子が笑う。零はげっそりとした気分になった。本心を見せないやり取りは嫌いだった。一皮めくれば欲と欺瞞に満ち溢れたそれには辟易する。

 零はどうにか溜め息を堪えた。これ以上、この娘と問答するのも面倒だった。

「……わかりました。行きましょう」

 押し切られた形で零が頷けば、その返答に微笑んだ詞季子が、ふとその手にある包みに気付いた。零には不釣り合いな薄紅色の包みに首を傾げた次の瞬間、瞳を輝かせる。

「それは? もしかして、わたくしに? まぁ嬉しい!」

 頬を染める詞季子に零は沈黙した。説明するのも面倒になり、包みを渡す。

 詞季子の手の中にある薄紅色にしばし目を細め、零はふっと視線を逸らした。


 良く言えば平穏、悪く言えば代わり映えしない日常を送る中、その日、父の絵を届けるため桜子は出版社へと向かっていた。通常であれば担当者が原稿を取りにやって来るのだが、その時に完成していた例しがない。締め切りが過ぎてしまった場合、桜子が届けに行くのが恒例となりつつある。

 大判の封筒に入った原稿を抱え、大通りにある出版社へと向かう。暇だからという理由で佳世も同行し、到着するまでの道すがら藤ノ宮家に出入りしていることを話した。何となく話す機会を逃していたのだ。話が終わり、佳世はきょとんと目を見開く。

「……ねえ桜子。あたし今、貴女が藤ノ宮家に出入りしているって聞いた?」

「……ええ」

 こくりと頷く。佳世は珍しく真顔で足を止めた。そして桜子の肩を掴み、

「ぜったい騙されてるわ!!」

 往来のど真ん中でそう叫んだ。道行く人の視線を集めながら桜子の肩を揺さぶり続ける。

「だって! どうして! 何でよりにもよって藤ノ宮なのよ! おかしいじゃない! 轢かれたこと覚えてないの? 騙されてる、絶対騙されてるわ!」

「か、佳世……」

 ガクガクと前後に揺すられつつ、桜子は慌ててその口を塞いだ。注目する人々の目から逃れるように道の端へと移動し、肩で息をする佳世の背中を撫でながら、首を振る。

「忘れたわけではないわ。でも、悪い方たちではないのよ」

 轢かれかけたことは事実だが、だからといって千鶴子たちのことを悪く思いたくはなかった。自分とは身分から価値観においてすべてが違う。けれど、普通に生きていたならば決して重なりはしない道が今、少しだけ重なっている。それはある意味、奇跡に近いこと。

 そう思えば、ふと脳裏に一人の男が浮かんだ。なぜその顔が思い浮かんだのかはわからないが、桜子は慌ててその顔を打ち消す。

「奥様たちに責任はないし、私も気にしていないわ。だから平気よ、安心して」

 そう言って微笑む。佳世は不安げな顔をし、何か言おうとした。だが、桜子の背後を見て訝しげな顔をする。

「……ねぇ、桜子。何か、軍服着た男がこっち見ているんだけど……って、こっちに来た!」

 佳世が叫び桜子に抱きつく。何事かと慌てて振り返った桜子は、しかしこちらへと向かってくる人物に目を瞬かせた。咄嗟に記憶を探り、その名を呟く。

「……東雲さん?」

「御無沙汰しております。先日は失礼しました」

 無表情で頭を下げ、東雲明は感情の見えない瞳で桜子を見つめた。

「お、お久しぶりです。……あの、何か?」

 戸惑う桜子に東雲は首を傾げる。

「どちらへ?」

「そこの通りにある秋霖出版に届け物です。……その、父の使いで」

 当たり前のように答えた後、はっとして付け足せば東雲が頷いた。

「貴女の父上は確か、絵描きでしたね」

「はい、そうですが……」

 頷きかけ、はてと首を傾げる。自分はいつ、父の職業を教えただろうか? 東雲とは初対面以来会っていないし、親しいわけでもない。違和感に眉根を寄せると、不意に袖を引かれた。

「桜子。誰、これ」

 佳世が不審そうな顔をして東雲を見ていた。桜子は慌てて東雲を示す。

「ええと、こちらは東雲さんとおっしゃって、前に一度、藤ノ宮家でお会いしたことがあるの」

 そう紹介するも、桜子の言葉を聞いているのかいないのか、佳世は東雲の顔をじっと見つめ……いや、睨んでいた。まるで親の仇でも見つけたかのような視線の鋭さだ。東雲は無表情を貫き、うんともすんとも言わない。……ここだけ妙に気温が低い気がする。

 しかし、ピリピリとした睨み合いは東雲が桜子に視線を向けたことによって強制的に終了した。

「そういえば、本日は藤ノ宮大尉がご一緒です」

「はっ!? は、……そ、そうなんですか……」

 身体を震わせ、不自然過ぎたと身を竦める。贈り物を突き返した日以来、零の姿は見ていない。ほっとするような居心地の悪いような、自分でも理解できない感情を見透かされたようで思わず動揺してしまう。そんな自分を落ち着けていると、今度は東雲の背後から声が聞こえた。

「──東雲。何、油を売っている。戻るぞ」

「……あ」

 現れた男に声を上げたのは桜子ではなく、その隣に立つ佳世だった。

「あーっ!!」

 桜子の姿に目を丸くした零が何か言う前に、佳世の叫びがそれを遮った。

「あんた! この前桜子を轢いた男でしょう!? どの面下げてここにいるわけ!?」

「は?」

 零が目を見開いた。こんな顔もするのかと半ば現実逃避のようなことを思うが、今はそれどころではない。案の定、道行く人の視線をしっかりと集め、更には東雲の呆れたような言葉まで聞こえた。

「怖いもの知らずというのか馬鹿というのか、思いきったご友人ですね」

 嫌みだろうかそれは。

「佳世落ち着いて! もういいから!!」

「放しなさい桜子! 貴女はよくてもあたしの気が済まないわ!」

 今にも零に殴りかかりそうな佳世を必死に取り押さえ、桜子は泣きたくなった。

「……東雲、どういうことだ」

 状況が呑み込めていない零は桜子たちの背後に立つ東雲を見る。視線を受けた東雲は淡々と言った。

「その方の話を聞く限り、大尉がこちらの方を轢いたとか轢かないとか」

「轢いた? いつの話だ」

「忘れたの!? 信じらんない!」

「佳世!」

 女学生と軍人。その妙な組み合わせが注目を集めたのは言うまでもない。しかし佳世は周囲の視線など気にもせず、堂々と零に指を突きつけた。

「あんたが軍人だろうが藤ノ宮だろうが悪いものは悪いわ! 人を危険に晒して涼しい顔しているなんて、そうは問屋が卸すもんですか!」

 佳世の血の気の多さと喧嘩っ早さは理解しているつもりだ。けれど、今回は状況が悪い。相手は名門華族の軍人、藤ノ宮零。自分も人のことは言えないが、さすがにやり過ぎだ。

 蒼白になった桜子が佳世の口を塞ごうと手を伸ばした瞬間、その身体が視界から消えた。「へっ?」という佳世の声に被さるように平淡な声が響く。

「行き先は秋霖出版でよろしかったでしょうか」

 そう言うのは東雲だった。無表情のまま佳世の肩を掴み、桜子の持つ封筒を取り上げる。

「こちらのお嬢さんと原稿は出版社に届けておきますので、ご心配なく大尉。お訊きになりたいことはさっさとお訊きになった方がよろしいかと。では、失礼します」

 口を挟む隙もなく、東雲が喚く佳世の背中を押して去っていく。

 その姿を呆気に取られて見送っていた桜子は、はっと状況を思い出し青くなった。振り返り、腑に落ちないという顔をする零に深く頭を下げる。

「申し訳ありません! ごめんなさい! 悪気はないんです! ……本当にすみませんでした……」

 一体、自分はこの人に何度謝っているのだろう。むしろ、謝るだけのことをしておいて未だに無事であることがある意味恐ろしい。そんなことをぐるぐる考えていれば、頭上で溜め息が聞こえた。

「……顔を上げろ。目立つだろう」

 恐る恐る視線を上げる。不機嫌そうな、あるいはそうでもないような判別のつかない表情に眉尻が下がるのがわかる。それを見た零がかすかに眉を上げた。

「またお前か。よく会うものだな」

「……申し訳ありません」

 思わず視線を逸らした。先日の件もあり、非常に気まずい。不安げな顔をする桜子に零が訝しげな顔をした。

「……あの娘が言っていた、お前を轢いた云々というのはどういう意味だ?」

 真顔の問いだった。桜子は沈黙する。貴方の乗っていた自動車に轢かれかけたんですと言うのは、結構それなりに勇気がいる。今更蒸し返してもどうにもならない話だ。零自身が覚えていないのなら尚のこと。視線を道路の方に投げて現実から逃げようとし、そこで桜子ははっとした。

 歩道と車道に分かれた大通り。人も自動車も、更には街鉄も行き交う通りは常に賑わっており、生活に必要なものはほとんどここで手に入る。その通りの車道を、一匹の仔猫がこちらに向かって歩いているのが見えた。よたよたとしたおぼつかない足取りで、今にも転びそうだ。

「……おい」

 明らかに他のことに気を取られている様子に零が不機嫌そうな声を上げる。しかし、桜子には仔猫の方が心配だった。車道から連れ出してやらねばいつか轢かれてしまうだろう。仔猫を助けようと、桜子は断りを入れるため零を仰ぐ。しかし次の瞬間、ひどく聞き覚えのある音を聞いた気がした。振り返った桜子の目に、黒塗りの自動車がまっすぐに走ってくるのが映る。──猫が。

 だが、桜子は気が付かなかった。その自動車は猫ではなく、まっすぐ彼女を目指していた。

「──っ!!」

 零が何か叫んだ気がする。しかし桜子は飛び出した。路上で立ち止まる仔猫を抱き締め──こちらに突っ込んでくる、黒い車体を見た。

 周囲の音が途切れる。何が起こったのか理解できず、代わりに思い出すのはいつかの光景。あれは確か、零と初めて出逢った時の──。

 ──『小娘。邪魔だ、どけ』

 不意に思い出した零の言葉に無意識に後退り──次の瞬間、すさまじい力で身体を引っ張られた。

「───っ!!」

 鼻先を自動車が通り過ぎた。そのまま恐ろしい速度を保って通りの向こうへ消えるそれを呆然と見つめる。途端、怒声が降ってきた。

「馬鹿か貴様は!!」

 びくりと肩が跳ねた。首を捻るようにして零を見上げれば、焦燥を浮かべた顔が見えた。

「なぜ猫などの心配をする!? 身の安全の方が重要だろうが!」

 地面に座り込む桜子を抱えて零が怒鳴る。しかし、ろくに回らない頭ではなぜ零が怒っているのかわからない。ふと腕の中に視線を落とせば、細い声で鳴く仔猫がいる。

 その姿にほっとしたのも束の間。そこで緊張の糸が切れ、ふっと目の前が暗くなる。

 零の言葉をどこか遠くで聞きながら、桜子は意識を手放した。


 夢を見た。幼い頃の、他愛もない夢だった。

 ──『桜子。これから言うことを守ってくれるかい?』

 ──『なぁに?』

 首を傾げれば、父は困ったような顔をしていた。

 ──『お前がいつか誰かを愛する時が来たら、父さんは恋愛結婚でも構わないと思っているよ。このご時世、自由恋愛なんてとんでもないという人もいるけれど、お前が幸せならば誰と結ばれてもいい。


……けれど桜子、これだけは約束しておくれ』

 父の声に頷く。よくわからなかったけれど、とても大切なことなのだと思った。

 ──『いいかい、桜子。誰を好きになっても構わない。けれど、どうか。どうか、身分違いの恋だけは、してはいけないよ──』








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