壱章 出逢イハ嵐ノ如ク⑤

 零が倒れたところに居合わせてから数日が経過した。その間、桜子は一応、零のことを心配していた。目の前で気を失い、その後真っ青な顔で運ばれていったのだ。気にするなという方が無理な話だ。原因は知らないが、ここ数日部屋から出ていないと聞く。千鶴子や白木からは心配するなと言われたが、胸に棘が突き刺さったような感覚がどうしても取れない。

 そんな日々を送っていたある日、桜子は藤ノ宮邸の門前で呼び止められた。

「──藤ノ宮大尉はご在宅ですか」

 起伏のない平淡な声に振り向けば、軍服姿の青年が立っていた。軍帽から覗く色素の薄い髪と瞳。その顔は人形のように整っているが、感情がまったく窺えない。

 藤ノ宮大尉という言葉に桜子は首を傾げた。困惑して青年を見つめれば、彼は無表情で桜子を見つめていた。無機質な物を見るような眼差しに息を呑み、何とも言えない空気が横たわる。しばらくそうしていたが、やがて青年が「あぁ」と小さく呟いた。

「ご存じではありませんか。藤ノ宮大尉──藤ノ宮零殿のことを申し上げているのですが」

「あ……」

 そこでようやく合点がいった。よく知るその名に桜子は慌てて首を振る。

「申し訳ありません。私はお屋敷の人間ではないので、詳しいことはわかりません」

「貴女は女学生ですか」

 何の感情も伴わない声で青年が呟く。こちらに注がれる眼差しに桜子は居心地の悪さを感じた。平民が侯爵夫人と関わるなど普通のことではないが、青年は興味なさげに頷いた。

「なるほど。……あぁ、申し遅れました。自分は帝国陸軍少尉、東雲明と申します。藤ノ宮大尉の下で動いております」

 眉根を寄せた桜子に青年が名乗る。困惑したものの、桜子もひとまず自分の名を口にした。

「日崎桜子と申します。……あの、誰かお呼びしましょうか? ご用なんですよね……?」

「いえ。結構です。目的は果たしましたので」

 にこりともせず意味のわからないことを返され、桜子はただ頷くことしかできなかった。礼儀正しく頭を下げて去る東雲の姿を見送り、しばらく呆然とする。少なくとも、ここで引き返すのならばたいした用事ではなかったのだろうが、なぜ自分に声をかけたのだろう。屋敷の人間でないことは一目瞭然のはずだ。首を傾げながら桜子は門の中へと足を踏み入れる。……しかし、その姿をたった今立ち去ったはずの青年が見つめていた。感情の欠落した瞳が門の内側に消える桜子を見つめる。

 一瞬だけ細められた目は再び色を失い、俯くようにして伏せられた。


「桜子さん!」

 いつものように屋敷に入ると、千鶴子が嬉しげな顔で駆け寄ってくるところだった。

「見てくださいな! ようやく完成したのよ!」

 その手に抱えられた浴衣に目をやり、桜子は微笑んだ。ここ数日、取り組んでいたものだ。

「おめでとうございます。お役に立てましたか?」

「もちろんよ! おかげでとても素敵なものを作れたわ」

 自力で完成させたことが嬉しいのか千鶴子は上機嫌だ。だが、次の言葉に桜子の心臓が跳ねる。

「自分で一から作ることは楽しいわね。そうだわ、零に見せびらかしてこようかしら? 部屋に籠もりっぱなしでは気も滅入るでしょうけど、怪我が治っていないのだから仕方ないわねぇ」

「……え?」

 千鶴子の何気ない言葉に桜子は耳を疑った。零が部屋に籠もっているのは知っている。だが、怪我?

「あ、あの怪我って……ご子息様のお加減は、その、悪いのですか……?」

 なるべく冷静に尋ねれば、千鶴子は不思議そうな顔で桜子を見た後、納得したように頷いた。

「そういえば、桜子さんには伝えていなかったわね」

 いつものふわりとした空気を消し、千鶴子は自分の左肩を指差す。

「本人は隠していたみたいだけれど、肩に刺し傷があったの。今回倒れたのはそれが原因なのよ」

「……そんなに、ひどい怪我なのですか?」

「いいえ、命に別状はないの。……ただ、心配なのよ」

 千鶴子の表情は翳り、その瞳は桜子を見ているようでまったく別の場所を見つめていた。

「あの子は笑わなくなったわ。軍人の道に進んでからこの方、わたくしはあの子の笑った顔を見ていないの。それがとても心配で……あぁ、そんな顔をしないで。貴女のせいではないでしょう?」

 返す言葉をなくした桜子に微笑み、千鶴子は「見せびらかしてくるわね!」と浴衣を抱えて去っていった。一人残された桜子はしばらく呆然としたまま、聞いた言葉を反芻する。

 零が、怪我をした。そのざらりとした嫌な感触に胸が冷えた。そんな自分を訝しみ、立ち竦む。

「──桜子様」

 どれほどそうしていたのか、背後から聞こえた白木の声に桜子ははっと我に返った。慌てて振り返り、廊下の向こうからやってくる白木の表情に焦りの色があることに気が付く。

「申し訳ありません。ローレンシアンを見ませんでしたか?」

「ローレンシアン、ですか? 見ていませんけれど……」

「そうでございますか……」

「もしかして……いなくなってしまったのですか……?」

 心なしか肩を落とす白木の様子に嫌な予感がした。桜子の問いに白木は恥じ入るように俯く。

「お恥ずかしながら、少し目を離した隙に姿が見えなくなって……」

 白木の顔には焦りの色が濃い。一度逃がした猫を再び逃がしたとなれば、家令としては面目丸潰れだろう。幸い千鶴子は温厚で、使用人たちにも無理難題を言わない。だから前回の時も誰の首も飛ばすに済んだのだが、今回見つからなければ厄介なことになるのは目に見えている。

「私も捜します!」

「ですが、桜子様はお客様で……」

「いいえ。捜させてください。奥様の大切な猫ですから、必ず見つけなければ」

 千鶴子には感謝している。身分の隔たりを感じさせず接してくれた。それが何よりも嬉しくて、いつの間にか本当の母親のように大切に思っていた。だから悲しませたくないのだ。

「……それでは、申し訳ありませんがお願いいたします。手の空いている使用人に声をかけておりますが、如何せん人数が足らず……」

 この屋敷は庭を含め広大だ。人手はいくらあっても足りないくらいだろう。

 白木の言葉に頷き、桜子は屋敷の外へと向かった。

「ローレンシアン! ローレンシアン……!」

 言い慣れない名前を叫びながら美しく整えられた庭を歩き回る。本来であればじっくりと見て回りたいところだが、今はそれどころではない。

「ローレ……っ、痛ぅ……」

 おまけに慣れない名前に何度舌を噛んでいるのか。植え込みの密集する区域を捜すも、どこにも黒猫の姿はない。不安に駆られ、桜子はつい家にいる時の調子で叫んだ。

「鈴鳴っ! さっさと帰ってきなさい!!」

 その瞬間、涼やかな音を聞いた。はっとすれば近くの繁みが不自然に揺れた。

「鈴鳴!」

 そこから出てきた黒猫を抱き上げ、桜子は歓喜の声を上げた。

「よかった……っ! 皆あなたのことを捜していたのよ。どこにいたの?」

 思わず頬を擦り寄せれば、鈴鳴は嫌がる素振りも見せず桜子の髪に爪を掛ける。ほっとしながら繁みに視線を移し──不機嫌そうな瞳と目が合った。

 鈴鳴を抱いたまま固まる。桜子を一瞥し、繁みの向こうに座っていた私服姿の零が溜め息を吐いた。

「……またお前か」

 心底うんざりしたような声に桜子は唖然とした。

「ど、どうしてこんなところにいるんですか……」

「自分の家にいて何が悪い」

「そうではなくて! ……こんなところにいて平気なんですか? お身体は……」

「お前に心配される筋合いはない」

 そっけない態度に口を閉ざす。居心地の悪い空気に耐えきれず、立ち去ろうと踵を返しかけた──が。

「鈴鳴とは、何の捻りもない名前だな」

 零がぽつりと呟いた。それにひどく驚き、桜子は恐る恐る零を見つめた。

 あまりにまじまじと見つめていたせいか、読みかけらしい本を手にした零が怪訝そうな顔をした。

「その猫を捜していたんだろう。見つけたのならさっさと行け」

 取りつく島もない態度は相変わらずだ。言われるがまま踵を返そうとして、桜子はふと思い出す。

「あの……先ほど、軍の方がお見えになっていました」

「軍? 誰だ」

「東雲さんという方です。門の前でお帰りになってしまいましたが……」

「東雲が?」

 零はしばらく考え込んでいたが、やがて立ち上がった。その瞳が冷たさを帯びる。

「なるほど。……おい」

 鈴鳴を抱えて棒立ちになる桜子に、零はそっけなく言った。

「借りは返す」

「え?」

 どういうことかと訊き返す前に零は立ち去った。その背を呆然と見送り、桜子は腕の中の鈴鳴を見る。すがるような目をするも、案の定、応えはなかった。

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