壱章 出逢イハ嵐ノ如ク③
絢爛豪華な屋敷を前にし、桜子は今すぐ回れ右をしたくなった。しかし、それが無理なことは桜子が一番よく知っている。お仕着せ姿の使用人たちが立ち並ぶ中、背後の白木に助けを求める。
「こちらでございます」
無言の訴えに気付いているのかいないのか、白木は穏やかな笑みで桜子を屋敷の中へと誘う。扉を開けた瞬間、目の前に広がるのは広い玄関。吹き抜けとなっている二階を見上げ、愕然とした。敷かれた絨毯に目を落とし、これは土足で踏んでいいものなのかと半ば本気で悩む。
なぜ、このようなことになったのだろう。目の前の光景に圧倒され、現実逃避の如くこうなった経緯を思い出す。……事は、女学校の帰りに起きた。
「──桜子様」
その声に反応が遅れたのは仕方のないことだろう。様付けで呼ばれるような育ちではないし、呼ばれたこともない。無意識にその声を聞き落としていれば、再度名を呼ばれる。
「桜子様。日崎桜子様」
「……え?」
自分の名を呼ばれていることにようやく気付き、振り返った桜子は目を見開いた。
「ご無沙汰しております。先日はありがとうございました」
そう言って優雅に微笑むのは、先日尋ねてきた白木だった。傍には自動車が止まっており、道行く人が何事かと視線を向ける。桜子は驚きながらも居住まいを正し、頭を下げた。
「いえ、こちらこそお世話になりました……あの、何か……?」
恐る恐る尋ねる桜子の言葉に微笑み、白木はさらりと、とんでもないことを告げた。
「本日はお迎えに参りました」
「迎え……ですか?」
「奥様が先日のお礼をなさりたいと貴女様をご招待されました。突然のことで大変申し訳ありませんが、今からお時間、よろしいでしょうか?」
懇願の形を取った命令に桜子が抗う術はなかった。あれよあれよという間に自動車に乗せられ、藤ノ宮家の屋敷に向かうと言われた。予想外の出来事に理解が追いつかず、生まれて初めて乗る自動車に身を固くしていると、その間に鈴鳴のことが説明される。
つまるところ、鈴鳴は藤ノ宮侯爵夫人の猫だった。しかし突然姿が見えなくなってしまい、屋敷は騒ぎとなった。結局外へと逃げてしまったものの、桜子のおかげで無事だったことに侯爵夫人は大層喜んだそうで、今回特別に招待されることになったのだとか。そう白木の口から説明されたものの混乱は収まらない。そうこうしているうちに屋敷に到着し、桜子は本当の意味で逃げ場を失ったのだった。
通されたのは落ち着いた色の部屋だった。大きな窓からは広大な庭園が見え、その傍の椅子には飾り気のない洋服を着た美しい女性が座っていた。その膝では見覚えのある黒猫がのんびりと欠伸をしている。
彼女は立ち尽くす桜子に微笑みかける。白木に促されて近付くと、ふわりと華やかな香りが香った。
「はじめまして、可愛らしいお嬢さん。藤ノ宮千鶴子と申します。急にお呼び立てしてしまってごめんなさいね。どうしても、お礼がしたくて」
優しげな声が思考を更に混乱させるも、桜子はぎこちない動きで頭を下げた。
「ひ、日崎桜子と申します……。本日はお招き、ありがとうございます……」
「まぁ、お名前も可愛らしいのね」
そう言って微笑む千鶴子を見つめ、桜子は無意識にその名を反芻した。……藤ノ宮?
「──っ!?」
その名に全身の血が逆流するような衝撃を受けた。
「どうかなさったの?」
「あ、あの……っ」
ようやく、理解した。つまり、自分は藤ノ宮侯爵夫人の大切な猫を助けたというわけだ。それは先ほど白木から聞かされたが、あまりに現実味がなく理解しきれなかった。華族制度の公侯伯子男の五つの爵位。その中の侯爵位を戴く藤ノ宮家は名門として名が知られている。
動揺する桜子を落ち着かせるように千鶴子は鈴鳴を抱き上げた。
「そう緊張なさらないで。ローレンシアンを助けていただいたお礼がしたいの。本当にありがとう」
嫌みのない上品さで言われ、桜子は辛うじて首を振った。
「い、いえ……あ、あの、別にお礼なんて……そんな大層なことをしたわけではありませんし……」
「あら、わたくしがしたいのよ。せっかくですし、よければお話し相手になってくださらない? 若い方とお喋りするのが好きなのよ」
そう言われては断ることなどできず、桜子は促されるまま椅子に腰掛けた。
侯爵夫人にもかかわらず、千鶴子は気取らない無邪気な女性だった。遠慮がちな桜子にお茶を勧め、子どものような天真爛漫さを発揮する。
「……では、この仔を『鈴鳴』と呼んでいたのね。綺麗な名前だこと」
「はい……名前がわかりませんでしたし、鈴の音を聞いて出会いましたから」
「いいわねぇ。わたくしもそういう名前をつけたかったわ」
「……奥様がつけた名ではないのですか?」
「この猫はね、夫からの贈り物なの」
嬉しげな千鶴子の表情に釣られ、桜子も思わず微笑み返す。聞き上手な千鶴子の雰囲気にやがて落ち着きを取り戻し、桜子もぽつぽつとだが会話を楽しんでいた。そして、時間が経つのはあっという間だった。気付けば空は茜色で、桜子が暇を告げると千鶴子は残念そうな顔をした。
「もうそんな時間なのね。もう少しお話ししたかったけれど……またお話ししましょうね」
よほど桜子のことが気に入ったのか、千鶴子は白木が止めるのも聞かず玄関まで見送ってくれた。恐縮する桜子に当然とばかりに言う。
「いいのよ。お友達を見送るのは当然のことでしょう?」
お友達。その言葉に目を点にすれば、傍に立つ白木が何とも言えぬ顔で口を開く。
「表に自動車を用意しております。ご自宅までお送りいたしましょう」
「あ、いいえ。一人で帰れますので、お気遣いなく……」
「しかし、もうじき夜で……」
不安げな顔をする白木に桜子は首を横に振る。その気遣いは嬉しいが、正直なところ自動車はあまり好きではない。酔ってしまうのもあるが、理由はもうひとつ。
複雑な表情を浮かべる桜子をよそに千鶴子が不思議そうに首を傾げる。
「歩いて帰られるの? 元気な方ねぇ」
「奥様……」
のんびりとした言葉に白木が肩を落とす。その光景に思わず和みかけた時、不意に玄関の扉が開いた。前触れのない出来事に驚く桜子とは違い、白木は素早く現れた人物に頭を下げる。
「おかえりなさいませ、零様」
「白木、明日からの予定を組み直せ。一旦千条院に会わねば……」
零と呼ばれた軍服の男は顔を歪めながらそう言い、それから玄関に立つ桜子たちに気が付いた。機嫌の悪そうな顔から一転、訝しげな表情になる。
「母上、このような場所で何を?」
「おかえりなさい、零。今、お友達を見送るところなの」
千鶴子の言葉に零はますます訝しげな顔をし、その隣に立つ桜子に視線を移す。
心臓が嫌な音を立てた。骨の髄まで凍るような鋭い眼差しに声が出なくなる。──それはどう見ても、先日桜子を轢きかけ、なおかつ謝罪の言葉もなく立ち去った男の顔だった。
藤ノ宮。記憶の底に刻まれたその名に怒りはなかった。根底にあったのは華族という身分への諦めだが、それを千鶴子たちに伝えたところで今更だし、今となっては気にしていないのだが──それとこれとは別問題だ。零との間に遮る物は何もなく、桜子は容赦なく検分の目に晒された。
「女学生……?」
なぜ平民がここにいるのかと、その目はそう言っている。だが、それだけだ。初めて会う人間を見るような眼差しに桜子は唖然とする。注がれる鋭い視線に堪えきれず、思わず目を逸らした。
そんな桜子の心情など知る由もなく、千鶴子は名案を思いついたとでもいうように手を打つ。
「そうだわ、零。桜子さんを送って差し上げて。軍人たる者、善良な市民を守るのが役目でしょう? もう夜も近いし……ね?」
それはもう、見事な笑顔だった。おそらく千鶴子に悪気はない。彼女はただ、息子に「お友達」を送ることを頼んだだけ。それも咄嗟に思いついただけのこと。……だから今、恐ろしく不機嫌な男の後ろを歩きながらも、桜子は千鶴子を恨む気持ちにはなれなかった。
なぜ自分が、と反論する零を無視し、是非また来て欲しいと送り出されたのはつい先ほどのこと。無言のまま前を行く零を早足で追いかけていると、不意に足音が止まった。止まった場所は表通りから一本奥にある通りで民家は少ない。夕闇の迫る時刻には歩きたくない道だが、近道なのだ。
「あ、あの……ここで、結構です」
桜子はどうにか声を絞り出した。これ以上、この男と共にいることが耐えられない。重苦しい沈黙を破り、一応礼を告げようとした彼女が何か言うより先に目の前の男が口を開く。
「……で、何が目的だ? 生憎、夫人に取り入っても何も得られんぞ。俺もあの家も馬鹿ではない。身の程知らずな真似はやめろ。目障りだ」
何を言われたのか理解できなかった。まともに受けてしまった衝撃をやり過ごし、どうにか答える。
「……誤解です。取り入ろうなんて、そんなこと考えていません。私は、奥様の猫を助けただけです」
「助けた? 謀ったのではなく? 侯爵夫人の猫だと知ってやったことではないのか」
「違います!」
屋敷に出入りしている者ならともかく、道端にいる猫が侯爵夫人の飼い猫だと、どうしてわかるだろう。確かに良い家の飼い猫だとは思ったが──。否定しても、零は疑いと蔑みを含んだ視線を向けてくる。
「口ではどうとでも言える。俺は己の益しか頭にない輩が嫌いだ。……今後一切、あの家には近付くな。お前が考えているほど甘くはない。諦めて他をあたれ」
「助けることがそんなにもいけないことですか!?」
──悔しい。取り入ろうと思われたことがではなく、そういう人間に見られたということが悔しくてならない。
「私は本当に何も知りません! 取り入るためでも何でもない、助けたかったから助けただけです。打算なんて少しも……っ」
品行方正に生きてきたというわけではない。それでも、こんなことを言われる筋合いはない。だが、こちらを貫く視線は冷たいまま。
「傲慢だな、お前は」
淡々と目の前の男はそう言った。濃い茜色の中、その瞳が恐ろしいまでの冷徹さを帯びる。
「助けたかったから助けた。ならば、助けたくなかったら助けなかったということか。傲慢な言葉だな」
冷え冷えとした瞳。吹雪のような眼差し。それでも、こちらを貫く視線から目を逸らせない。
「……そういうわけでは、ありません」
「ならばやはり打算か」
「違います!」
なぜ、ここまで言われなければならないのだろう。あまりに理不尽だ。それでも桜子は耐えた。相手は華族、こちらは平民。下手をすれば無事では済まない。そう自分に言い聞かせるも、次の零の言葉は桜子から冷静さを取り上げるには十分だった。
「所詮、金に群がる鼠が。……穢らわしい。他に擦り寄るしか能のない女に用はない」
「──っ」
次の瞬間、忌々しげに吐き捨てられた言葉に続き、乾いた破裂音が美しい夕日の中に響き渡った。
振りかぶった右手が熱く、痛かった。それでも言わずにはいられなかった。
「貴方にそんなことを言われる筋合いはないわ! ろくに人の顔も覚えていない人にとやかく言われたくない! なぜ貴方にそこまで言われなくてはならないの……!?」
人並みの矜持は持ち合わせている。理由もなく蔑まれるなんて、そんなのあまりに理不尽だ。零の言動に対する怒りを吐き出し、桜子の心は一瞬、ひどく軽くなった。しかし頭に上っていた血が引いたその瞬間、我に返る。
痺れる手を握り締め、呆然と目の前の男を見た。零は零で何をされたのかわからないという顔をし、その左頬は夕焼けの中でもわかるほど赤くなっていた。
沈黙が落ちた。凍るような沈黙だった。零の瞳が更に凍るのを目の当たりし、桜子の顔から血の気が引く。冷気とも殺気ともつかぬ空気に肌が粟立ち、気が遠くなりかけた。
「……帰れ。二度と、俺の前に現れるな」
怒りを押し殺した低い声に硬直する。零が踵を返し、来た道を戻っていく。夕闇に染まる後ろ姿を呆然と見遣り、桜子はよろけるように後退った。痺れたような痛みの残る掌を見つめ、目眩を覚える。
生まれて初めて人を打った。それも華族を──軍人を。今頃になって足元から震えが込み上げる。
「……どう、しよう……」
唇からこぼれ落ちた言葉は途方に暮れる彼女を嘲笑うかのように赤い夕闇の中に溶け、消えた。
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