壱章 出逢イハ嵐ノ如ク②

「……若君。よろしかったのですか?」

 恐る恐るといった体の運転手の声に、藤ノ宮零は手元の書類から目を離さずに応じる。

「何がだ」

「先ほどのお嬢さんのことです。怪我などしていなければいいのですが……」

 その言葉の意味が一瞬、零にはよくわからなかった。しばらく考え、脳裏に浮かぶのは愕然とした表情の女学生。轢きかけたのか轢いたのかはわからないが、死んでいないのだから問題はないだろう。そう考え、その存在を記憶から消す。書類をめくり、やがてその形の良い唇から言葉が吐き出される。

「お前、家族は?」

「は……?」

 今度は運転手が戸惑う番だった。仕える家の人間が使用人にそんなことを尋ねるなどありえない。それが冷淡と名高い藤ノ宮零の口から出たのならば、なおさらだ。

「妻と娘がおりますが、それが何か……?」

「一族郎党、路頭に迷いたくなくば余計な口は叩くな。役立たずは要らん」

 淡々と告げられた言葉に運転手の顔が一気に青ざめた。

「……申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」

 強張った声で運転手が答え、口を閉ざす。零は一度も視線を上げることなく、痛いほど静まり返った車内に紙をめくる音だけが響いていた。


 藤ノ宮家の自動車に轢かれかけた日から三週間ほどが経った。その時のことを思い出すたびに胸の冷えるような思いをしていたが、特に不調もなく、桜子は問題なく日々を過ごしていた。

 その日も普段通りの日常を終えて一人で帰路につく。佳世は今日、必ず提出しなければならない課題を忘れたらしく先生に呼び出されていた。教本の入った風呂敷を抱え、曇天の下を足早に抜けていく。

 もうじき雨が降りそうな天気だった。歩みを速めていると、不意にチリンという音を聞いた。

「……鈴?」

 足を止め、周囲を見回す。風鈴のようでもあるが時季が早い。妙にその音が気になれば、前方で黒い何かが揺れるのが見えた。何かと思って近寄ると、薄汚れた黒猫が一匹、ぐったりと横たわっているのを見つけた。その首には真紅の紐が結ばれ、銀の鈴がつけられている。

 黒猫は金色の目で驚く桜子を見つめ、小さく鳴いた。すがるようなそれに、桜子は思わず手を伸ばす。

「おいで。……大丈夫よ、怖くない」

 抱き上げても猫はされるがままだった。ぐったりとする黒猫を抱え、桜子は帰路を急ぐ。

 桜子の暮らす家は人家と人家の間に埋もれるようにしてある小さな一軒家だ。木造の平屋に小さな庭があり、父と二人、平穏な日々を送っていた。

 家に帰るや否や、桜子は猫を茶の間にある座蒲団に乗せた。台所に駆け込み、二つの皿に煮干しと水を入れる。猫を飼ったことも餌を食べさせたこともないため、これでよいのか甚だ謎だが仕方がない。それを持って黒猫の元に戻れば、座布団の上の猫を覗き込んでいた人物がこちらを向いた。

「おかえり、桜子。……何やら小さなお客さんがいるようだね」

 おっとりと言い、日崎蓮志郎は微笑んだ。幼い頃に母が亡くなり、それ以来、絵の仕事をしながら男手ひとつで桜子を育ててくれた自慢の父である。

「ただいま帰りました。父さん、ごめんなさい、ちょっとどいてもらえる?」

 帰宅の挨拶もそこそこ、桜子は手に持った皿を黒猫の前へと置いた。様子を見れば、薄く目を開いた猫が煮干しに首を伸ばし、少し匂いを嗅いでから……食べた。それが引き金となったのか皿に盛られた煮干しを凄まじい速さで平らげ、水を飲み始める。桜子はほっと胸を撫で下ろした。

「よかった……」

「拾ってきたのかい?」

「うん。……何だか、見捨てられなくて」

 横目で窺うも、父は笑みを崩さない。丸くなる猫に手を伸ばせば、身動ぎした拍子に鈴が鳴った。

「飼い猫かい?」

「そうみたい。……ねぇ、飼い主が見つかるまで面倒を見てもいい? ちゃんと世話をするから」

「そうだねぇ……世話をするのなら好きになさい。ただ、仕事部屋には入れないでおくれ」

 のんびりと答える父の言葉に、桜子は満面の笑みで頷いた。

 そして黒猫は日崎家に置かれることとなった。名前がないのも不便なので、その猫に『鈴鳴』という仮の名をつける。改めて見ると美しい猫だった。毛並みは艶やかで、どこぞの金持ちの飼い猫なのかもしれない。それを証明するかのように残飯には口をつけないし、水も代えたものしか飲まない。

 懐きはしないが桜子のことは餌をくれる人間だと認識しているらしい。お愛想程度に擦り寄ってきては離れていく。付かず離れずの関係は何とも心地好くて、鈴鳴はすんなりと日崎家の日常へ馴染んでしまった。……ただ、出会いが唐突だったゆえに、別れもまた、唐突ではあったけれど。

「……桜子」

 それはちょうど昼過ぎのこと。昼食の後片付けをしていれば、台所の勝手口から父が顔を覗かせた。

「お客さんなんだけど……」

 父は柔和な顔を少し曇らせ、門の方を指差す。

「お客さん? どなた?」

 首を傾げるも父は困ったように桜子を急かすだけだ。何が起きたのかと慌てて外に出た桜子は家々が建ち並ぶ細い通りに面する小ぢんまりとした門に向かい、絶句した。

 そこには、このような家屋群の建ち並ぶ場所にはあまりに場違いな男性がいた。真っ白な髪を整え、上品な笑みを浮かべた初老の男性だ。立ち尽くす桜子を静かに見つめ、口を開く。

「はじめまして。わたくしは藤ノ宮家の使用人、白木と申します。突然申し訳ございません」

「藤ノ宮……?」

 どこかで聞いたことがあるような名だったが、この事態に混乱するばかりでそれがどこだったのか思い出せない。桜子は慌てて頭を下げる。

「は、はじめまして。日崎と申します……あの、どのようなご用件でしょうか……?」

 そう言いながら、桜子は助けを求めるように父を見る。が、困ったような笑いを返されるだけだった。父の反応に肩を落とすと白木が柔らかい笑みで言う。

「失礼ながら、お伺いしたいことがございまして……実は猫を捜しているのです。銀の鈴をつけた黒猫なのですが、こちらにそれらしき猫がいると聞き、もしやわたくしどもが捜している猫かもしれないと思い、伺った次第です」

 銀の鈴に紅い紐の黒猫。しばらく考え、桜子ははっとした。

「飼い主の方ですか!?」

「お仕えする方の大事な猫なのですが、わたくしどもの不注意で逃げてしまいまして……」

 気まずそうに白木が視線を落とす。桜子は勢いよく頷いた。

「銀の鈴をつけた黒猫なら家におります。少々お待ちください……!」

 そう言って家へと戻ると、鈴鳴は縁側で眠っていた。その身体を抱いて戻ると、父と何かを話していた白木が驚愕の眼差しを向けてくる。

「ローレンシアンが大人しい……なぜ……」

 それほど仰天するようなことなのかと首を傾げつつ、桜子は妙に納得してしまった。やはり裕福な家の猫だったのか。『ローレンシアン』とは、普通、そんな名前は思いつかない。

「この仔でお間違いありませんか?」

「はい……! ありがとうございます。これで奥様も……」

 ほっとしたように言い、白木が鈴鳴を受け取ろうとする。しかし、それまで大人しく抱かれていた鈴鳴、もといローレンシアンが突然暴れ始めた。白木の手に渡った途端、腕や頬を引っ掻き、抵抗する。

「鈴鳴!」

「ローレンシアン!」

 思わずといった体で互いに違う名を叫べば、どちらの名に反応したのか黒猫は動きを止め、金の瞳を爛々と光らせる。ようやく大人しくなった黒猫を抱え、白木は頬に引っ掻き傷を残しながらも丁寧に礼を言って去っていった。

「行ってしまったね……」

 その姿を見送る父の呟きに、桜子は自分の手を見た。がらんとした両手が何となく物寂しくなる。

「家族が見つかったのだもの。よかったのよね……」

 言葉とは裏腹に肩を落とす娘に父は微笑んだ。

「猫なら飼ってもいいよ?」

「……。ううん。もう、いいわ」

 小さなぬくもりを失った手を握り締めて首を振る。寂しいのは確かだが、これでよかったのだ。そう思い、この件を忘れようとした。……しかし、その数日後。

 ──藤ノ宮家からの迎えが来たことが、すべての幕開けであった。


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