壱章 出逢イハ嵐ノ如ク①

「さーくらこー」

 よく晴れた日のことだった。妙な節のついた声に振り返れば、背中に誰かが飛びついてくる。

「美味しいあんみつ屋ができたんだって。これは行かなきゃ!」

 そう言って、市松模様の袴にブーツ、長い髪を高く結い上げた桜子の親友、芦辺佳世は声を弾ませた。

 至って普通の容姿の桜子とは違い、かぐや姫のような美貌を持つ彼女は見た目だけで言うのならば立派な大和撫子だ。だが、その性格は豪放磊落。見た目と中身が見事なほどに一致しない、の典型例。女学校において型破り街道を独走し、先生からは問題児と目をつけられている。

 そんな親友の暴走を止めるのは桜子の役目であり、今日も今日とて暴走気味の佳世に待ったをかける。

「いいけれど、貴女は課題を出されていなかった? ほら、浴衣の課題」

 桜子の指摘に佳世は一瞬、きょとんとした。しかし次の瞬間、その顔から血の気が失せる。

「わ、忘れてた……っ!! 遅刻の罰の恐怖の浴衣……っ! 桜子お願い手伝って! あたしはもう松田のばばあの説教なんて聞きたくないわ! 説教は長いわいつの間にか愚痴になるわ、あの人に捕まると散々なのよ……っ!」

「……ちなみに期限は?」

「明日」

 図ったような返答をしつつ、佳世は必死の形相で桜子に詰め寄る。

「お礼はあんみつでどう!?」

「どうって言われても……」

「お願い桜子! 貴女の裁縫の腕に頼るしかないのよぉ!!」

 両手を合わせる佳世に眉尻を下げる。麻の葉模様の袴と長い髪を揺らし、桜子は肩を竦めた。

「……それじゃあ、白玉もつけてくれる?」

「桜子ぉ!!」

 勢いよく飛びつかれ、桜子は苦笑した。

 遅刻常習犯の佳世が罰として課題の提出を求められるのは、別に今に始まったことではない。最早日常というか風物詩というか、今となっては驚く者もいなければ同情する者もいないといった具合だ。

 そして家事を大の苦手とする佳世がそのたびに桜子に泣きつくのも、最早恒例のことである。

「──そういえば、隣の組の子が一人、来月で辞めるんですって」

 浴衣の課題をこなすため桜子の自宅へと向かう帰り道、反物を抱えた佳世の言葉に桜子はどきりとした。視線を向ければ佳世が顔をしかめている。

「今年に入って何人目かしら? 次々と辞めていくじゃない」

「……縁談、かしら?」

「婚約ですって」

 桜子たちの通う花百合高等女学校は、いわば花嫁学校だ。家事や礼儀作法などが主な授業。普通の授業も週に何度かあるが、目的は良妻賢母を目指し、良い嫁ぎ先に恵まれること。そのため在学中に縁談がまとまり、大半の生徒が辞めてゆく。

 この時代、女性の自由は少ない。昔に比べれば女性の自由は広がったように思えるが、それはほんの一握りだけ。女学校とて自立を促すものではなく、あくまで花嫁修業の一環だ。どんなに嫌だと思っても、いずれは親の決めた相手と結婚しなければならない。桜子も今年で十六歳。年齢的には縁談のひとつやふたつ、あってもおかしくはない。結婚など自分には遠い出来事だと思っていたのに、結婚が決まって次々と辞めていく級友たちの姿に現実を突きつけられる。

「私たちも、そろそろ他人事ではないわね……」

 思わず立ち止まり、ぽつりと呟いた桜子に数歩先を行く佳世が何か言いかけた、その時だった。

 不意に悲鳴と怒号が聞こえた。何事かと振り返ろうとして、佳世の叫び声が聞こえた。

「桜子っ! 危な……っ!!」

 その言葉に反射的に後退り、視線を巡らせたその瞬間──黒い何かが目に飛び込んできた。

 愕然とした。つま先から数寸先に黒塗りの物体が止まる。一歩遅ければ、おそらく怪我どころの騒ぎでは済まなかっただろう。顔面蒼白になった佳世が駆け寄ってくる前に黒い物体──今ではもう珍しくもなくなった自動車の前の窓が開き、真っ青な顔をした運転手が顔を出す。

「だ、大丈夫ですか!? 申し訳ありません! お怪我は……っ」

 真っ青な運転手同様、同じように血の気が失せた顔で桜子が何か言おうとした、その時。

「──おい」

 自動車の後部座席の窓が細く開き、中に人影を見た。思わずそちらに視線を向け、桜子は言葉を失う。

 硝子越しでもわかる、軍服を着た男。こちらを見る瞳は鋭く、冷徹で温かみのひとつもない。触れたら切れる、という表現が何よりも似合う眼差しだった。それに加え恐ろしく顔立ちが整っており、まるで精巧な人形のようだ。男はこの事態に表情を変えることもなく、ぞっとするほどの冷たさを纏わせた視線で桜子を貫き、口を開く。

「小娘、邪魔だ。どけ」

 ……一瞬、聞き間違いかと思った。男の言葉を頭の中で反芻するが、生憎意味は変わらない。

 愕然とする桜子から視線を離し、男は運転手を見る。

「故障か」

「も、申し訳ございません。ハンドルを取られました」

「ならば早く出せ」

「で、ですが……」

 運転手が桜子に視線を向けるが、淡々とした冷たい声が鼓膜を震わせた。

「聞こえなかったか? 車を出せと言っている」

 そっけなく言い、男は立ち竦む桜子に再び視線を向ける。

「邪魔だと言っただろう、小娘。轢かれて死んでも責任は取らんぞ」

 言い返す気力も湧かなかった。ただ、どうにか身体を後退させる。

「ちょ、あんた! それが人を轢きかけておいて言う台詞!?」

 駆け寄ってきた佳世の言葉を無視し、窓が閉じられる。そして自動車は突っ込んできた時同様、瞬く間に通りの向こうに消え去った。

「平気!? 怪我は? 痛いところない!?」

「え……ええ。大丈夫よ。ちょっと、びっくりしただけ……」

 額に渗む冷や汗を拭えば、その様子を遠巻きに見ていた人々が近付いてくる。

「お嬢さん、大丈夫かい?」

「危なかったねぇ」

「怪我してないかい?」

 次々にかけられる言葉に大丈夫だと頷いてみせれば、その中の一人がぽつりと呟いた。

「ありゃ藤ノ宮家だな。自動車の紋がそれだ」

「藤ノ宮? ……って、華族の!?」

 その名に佳世がはっと顔色を変えた。桜子は呆然とする。瞼の裏には謝罪のひとつもなく去っていった男の姿がはっきりと焼きついている。拳を握ると、痛ましげな眼差しを送られた。

「やめな、お嬢さん。相手は華族だ。それも軍人。痛い目を見るのはあんただよ」

「でも死にかけたのよ!? それなのにあんな……っ!」

「佳世、落ち着いて。私は大丈夫」

 やりきれない思いを呑み込み、拳を解く。騒いだところでどうしようもない。相手が悪すぎる。

「お騒がせしました。ご心配ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げると、あっという間に人が散る。それを見て、桜子も身体の向きを変えた。

「桜子、いいの? 本当に大丈夫?」

「大丈夫よ。ぶつかっていないもの」

「そうだけど……それでも何なのあの男! いくら華族でもやって良いことと悪いことが……っ」

「佳世。もう、いいわ」

 そう答えながら桜子はそっと唇を噛む。怒りはあった。未遂とはいえ死にかけたのだ。凍るような恐怖と鈍い怒りが胸の奥に沈殿し、息を詰まらせる。

 けれど、それ以上に鮮烈に残っているのは、あの男の眼差しだった。冬を体現させるような凍てつく瞳。あんな目をした人間を初めて見た。脳裏に焼きついてしまった眼差しに身体が震える。それを振り切るように竦む足を奮い立たせ、桜子は歩き出した。


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