壱章 出逢イハ嵐ノ如ク④

 ──生きた心地がしないというのは、まさにこのことを言うのだろう。その日、先日も通された部屋に案内され、桜子は必死で逃げ出したい心境と闘っていた。

「こちらでございます。どうぞ」

 白木の笑顔からは何もわからず、気分は最早まな板の鯉だ。

 零を平手で打ち、数日が経っていた。その間、桜子は人を叩いてしまった罪悪感と報復の恐怖に頭を抱えていた。誰かに軽々しく相談できることでもなく、その時のことを思い出しては気を失いたくなるの繰り返し。時間が巻き戻ってはくれないかと、そんなことを夢想していた最中、白木が迎えに来た。

 呼び出された件はおそらく、先日零に平手打ちを食らわせたことについてだろう。むしろそれだけしか思い浮かばない。開かないでという願いも虚しく、やがて扉が開かれる。

「桜子さん!」

 響く千鶴子の声に肩を震わせ──大きく、目を見開いた。満面の笑みを浮かべた千鶴子は、まるで旧友と再会したかのような態度で桜子を迎えた。

「いらっしゃい! また会えて嬉しいわ」

 変わらぬ笑みに戸惑い、桜子はとりあえず頭を下げる。

「お久し振りでございます、奥様。……お招き、ありがとうございます」

「あら、そんなにかしこまらないでくださいな。わたくしと貴女の仲でしょう?」

 ……それは、一体どんな仲だろうか。首を傾げる桜子を座らせ、千鶴子は楽しそうに口を開く。

「もっと貴女とお話ししたかったの。でも、それだけではもったいないから浴衣の縫い方でも教えていただこうかと思って。あ、別に浴衣じゃなくてもいいのだけど。ただ、自分で何かを作ってみたいのよ。もちろんお礼はしますわ。何がよろしい?」

 とんとん拍子に進んでいく話に桜子は目を瞬かせた。口を挟む隙間さえない。

 千鶴子の態度は先日と何も変わらなかった。むしろ、親愛の度が増しているような気がする。桜子は戸惑いを隠しきれないまま千鶴子を見た。

「あの、奥様……先日は、ご子息様にお世話になりました……」

 自ら墓穴に足を突っ込むような真似をせずとも、このままうやむやにしてもよかったのかもしれない。だが、それでは何も解決しない。息を詰める桜子の言葉に千鶴子はしばらくきょとんとし、それから思い出したように頷いた。

「そういえば、そうだったわね。あの子はきちんと貴女を送ったかしら? 無愛想な子だけど許してね。もう二十五になるのに、いつの間にかあんな怖い顔をするようになってしまって……」

 溜め息を吐く千鶴子を見つめ、桜子は首を捻る。まさか、と思った。……おそらく零は、桜子の失態を放置しているのだ。そうでなければ千鶴子がこんなことを言うはずがない。

 唖然とする桜子の前に針の道具といくつかの反物を置き、千鶴子が瞳を輝かせる。

「さて、教えていただけるかしら? 桜子さん?」

 拒否という選択肢は最初から存在しない。だが、それ以上にこちらを見つめる千鶴子がひどく楽しげで、桜子は恐る恐る頷いた。針と布を手に取り、腹を据える。……もう、なるようになれ。

 そうして、桜子はたびたび藤ノ宮家へと招かれることとなった。千鶴子の話し相手になったり浴衣の縫い方を教えたり、代わりに刺繍やテーブルマナーを教わったりと、それなりに充実した時を過ごした。

 それは不思議と穏やかな時間だったが、桜子はいつもあの軍人、藤ノ宮零の姿を探してしまう。悪いのは自分であり、謝罪しなければならないのはわかりきっているのだが、あの眼差しに晒されることを考えると足が竦む。だから、零の不在を知っては、意気地無しと思いながらもほっとしてしまうのだ。

 その間にも桜子の存在はすっかり藤ノ宮邸に馴染んでしまい、そんな日常にも慣れた頃。……しかし世の中、そんなに上手くはできていないことを桜子はまざまざと悟ることとなる。

 顔馴染みとなった守衛に挨拶し、徒歩で帰路につく。夕暮れにはまだ少し早く、空には青が少しだけ残っている。それをぼんやりと見つめながら歩いていると、前方に止まっている自動車に気付いた。傍には一組の男女がおり、女の方は夜会にでも行くようなドレスを纏い、男の方は軍服を身につけこちらに横顔を向けていた。

 はっとして足を止めた時、女の甲高い声が風に乗って流れてくる。

「ひどいですわ零様! 今夜の夜会には必ず出席するとおっしゃっていたではありませんか! それを今更反古にするだなんて……っ!」

 その名にびくりと身体が震えた。立ち去らねばならないと思うのに足が動かない。立ち竦む桜子に気付かず言葉をまくし立てる女から目を離し、男──零が一瞬、こちらを向いた。すぐさま逸らされたため気のせいと思いたかったが、しっかりと目が合ってしまった。

「……用事ができたと言ったはずですが」

「ええ、聞きましたわ。お仕事ですってね。……毎回同じ理由で断られましたら、嫌でも疑いますわ」

 女は疑わしげに零を見つめる。零の横顔が苛立ったように歪むのが見えた。

「だから申し訳ないと言っている。埋め合わせは後日にでも」

「本当ですの?」

 疑わしげに首を傾げつつもその声音に逆らうことができなかったのか、令嬢はあっさりと頷いた。

「わかりましたわ。その言葉、忘れないでくださいませ。では、ごきげんよう」

 優雅に身を翻し、令嬢が自動車に乗り込む。走り去る自動車が見えなくなったところで、冷ややかな声が飛んできた。

「お前の趣味は立ち聞きか? いい趣味だな」

「……違います」

 視線を戻せば冷徹な瞳と目が合う。一瞬、その顔色が悪いようにも思えたが夕日のせいだろう。こちらを射る視線は相変わらず鋭い。逸らそうにも逸らせず、意図せずに睨みつける格好となる。

 黙り込む桜子を見つめ、零はかすかに目を歪めた。

「まだ出入りしているのか。懲りない女だな。二度と現れるなと言っただろうに」

 呆れたようなその口調が、自分を殴っておいてよく顔を出せるものだと言っているように聞こえた。

「……どうして、何もなさってこないのですか」

 硬い声に、零は不機嫌そうに眉根を寄せた。

「女に殴られたなど沽券に関わる。それに、そんなことに時間を割いている暇はない」

 その返答に桜子は眉をひそめる。何となく納得できなかった。なお言い募ろうと口を開くも、その横を零が擦り抜ける。すれ違いざまに吐き捨てるかのような声が聞こえた。

「どうせ母上の気まぐれだろうが、平穏を望むなら近付くな。ろくなことにならないぞ」

「待ってください……!」

 はっとし、その背中に声をかける。だが視線が絡まった途端、続く言葉に詰まってしまう。

「……貴方の言いたいことはわかります。でも、私は何も望んでいません。強いて言えば、奥様に喜んでいただきたいだけです。……それと」

 嫌な動悸に拳を握り、桜子は深く頭を下げた。

「この前は、申し訳ありませんでした……!」

「知らん」

 決死の思いで告げた謝罪は、そんな言葉に一刀両断された。

「は……?」

 聞き間違いかと顔を上げたが、零は既に歩き出していた。……確かに、桜子とて轢かれかけた。その謝罪はないどころか、零は自分のことを覚えてすらいない。半ば諦め、それでも自分の落とし前は自分でつけようと思っていたのに、それすら許さないとはどういうわけだ。

 もう、わけがわからない。唇を噛み、桜子は勢いよく踵を返した。

 そのまま立ち去ろうと足を踏み出した瞬間、不意に背後の足音が不自然に乱れた。同時に呻き声が聞こえた気がして、何事かと振り向いた桜子は一瞬、言葉を失う。

「……え?」

 ──地面に膝をついた零の背が、大きく揺れた。呆然とし、はっと我に返る。

「ふ、藤ノ宮様……!?」

 咄嗟に駆け寄って手を伸ばすも、乱暴に振り払われた。零が顔を歪めている。

「何でもない。……放っておけ」

「放っておけって……」

 苦しげに歪められる顔と玉を結ぶ額の汗が「放っておくな」と桜子に訴える。

「と、とにかく人を呼んできます! 待っていてください!」

 幸い屋敷はすぐそこだ。助けを呼ぼうと走り出すが、すぐにつんのめった。零が桜子の腕を掴む。

「余計なことをするな。……何でもないと言っている」

 どう見ても何でもないという顔ではない。そう言いたかったが、零は何事もなかったかのように立ち上がろうとする。しかし、再び声もなく膝からくずおれる。

「藤ノ宮様!? やっぱり人を……」

「やめろ」

「でも!」

 反論の言葉は鋭い視線に封じられる。口をつぐみ、けれどそれを睨み返した。

 ──見捨てられない。正直この人のことは好きではないが、自分は冷酷になりきれない。お人好し。それは自覚している。

「……わかりました。人は呼びません」

 その言葉に零が訝しげな顔をする。桜子は構わずその腕を掴み零の顔を見返した。

「呼びませんが、私が貴方を運びます」

 その言葉に、零がこれでもかというくらい目を見開く。

「嫌であれば人を呼びます。何ならここから叫んでもいいですけど」

「お前……馬鹿か?」

 桜子は唇を噛む。とんでもないことを言っている自覚はある。……それでも。

「馬鹿だろうが何だろうが構いません。今、貴方を見捨てたら私は絶対に後悔します。……それに、具合の悪い人を放ってなんておけません」

 零の腕を掴んで立ち上がらせようとする。だが、掌を返され手首を掴まれた。

「夫人の次は子息に取り入る気か?」

 冷たい声だった。思わず身を引きかけ、首を横に振る。

「取り入る気なんてありません。これは……ただのお節介です」

「いらん節介だな」

 ばっさりと桜子の言葉を切って捨てた零だが、その表情が苦痛に染まり、身体が傾ぐ。

「藤ノ宮様!」

 倒れる身体をどうにか支えるが結局支えきれず、その身体がくずおれた。零の意識がないことに動転し、桜子はもんどりを打つようにして屋敷へと走った。

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