狂恋のおもて

外宮あくと

狂恋のおもて

 あの方の骸と共に、わたくしも焼いて欲しかった。

 この身の全てを焼き尽くし、灰となってあの方と混じり合い、一つとなって消えたかったのです。

 分かち難く結ばれたわたくしたちであったというのに、此の世と彼の世に引き裂かれ、二度と会えぬ悲しみに懊悩する日々を、一体いつまで続ければよいのでしょう。

 わたくしの望みは誰にも届かず、孤独のままあの方への想いを募らせるばかり。ただただ、いつか灼熱の地獄に堕ちる日の来ることをこいねがっているのです。


 わたくしは、あの方があってこそ輝くことができました。いえ、わたくしがあの方を輝かせたとも言えましょうか。共にあることでわたくしたちは高め合いましたし、また深奥なる美を生み出すことができたのです。

 松の舞台。そこは静謐の宇宙であり、内包する情念の吹き溜まりであり、わたくしたちの交合の場でありました。

 夢幻を舞うその一時、わたくしとあの方は正に一心同体であったのです。

 足の運びも腕の動きも指の先までも、一部の隙も無く完璧な型を流れるように演じる美しさ。うたいも足拍子も一体となり、あの方とわたくしは妙なる美の顕現であったのです。

 ぴたりと寄り添い、一つとなるあの歓喜。わたくしの内面はあの方で満たされ、熱い吐息が与える目くるめく快感に、狂うほどの愛さえ感じたのです。

 ああ、わたくしとあの方は、互いの魂を喰らい合い、悦楽を与え合っていたのです。それは例えようも無いほど素晴らしく、恍惚とした時間でした。


 それなのに、それなのにあの方は、もう何処にもいらっしゃらない。無情にもわたくしを置いて逝ってしまわれた。わたくしへ想いを残しながらも、人の理には抗えず、あの方は逝ってしまわれた。


 その後わたくしは、幾多の演者のもとを巡りましたが、あの方以上の者に出会えることはありませんでした。わたくしに、ほんの一欠片の歓びさえ、与えてくれる者はいなかったのです。

 ええ、分かっておりました。そのような者がいるはずもないことも、あの方とわたくしの絆を超えるものが存在しないことも。

 しかしそうと分かっていても、我慢ならなかったのです。愚かで未熟な者どもに触れられるなんて、耐えることができませんでした。あの方に愛されたこのわたくしを穢すことなど、どなたにも許すことはできないのです。


 あの方でなければ嫌なのです。

 あの方とでなければ、至高の美は完成しないのです。あの壮麗な美は滅んだのです。

 それでも、わたくしの恋情は未だにふつふつと燃えているのです。想いを交わし合うことは二度と出来ぬのに。なんと悲しいこと、虚しいこと。

 わたくしには、もう絶望しかないのです。

 だから、あの方の居ない此の世に絶望し、憎み呪ったのです。わたくしに触れるなと。近づくなと。


 どうか哀れと思し召せ。

 この胸を焼く炎を、現し世のものに変えて下さいませ。わたくしを焼き尽くす炎へと。そして、あの方のもとへどうぞ送ってくださいまし。







 木箱から取り出された女面を目にして、住職はひやりと背筋に冷たいものを感じた。明け方の夢に出てきたのは、確かにこのおもてをつけた女だった。

 思わず呻きそうになるのを堪え、目の前で背筋を伸ばして正座する青年の話の続きを待つことにした。


「これは我が家に伝わる小面こおもてでございまして、亡き祖父の形見なのですが……」


 青年は畳の上に置いた面を見つめながら、とつとつと語りはじめた。

 彼の祖父は能楽師として名を馳せた男で、この古い面をとても大切していたという。面は、名も無き面打師の作であるらしいのだが、名品と呼ばれるものと引けを取らぬ良作だった。

 祖父の死後、青年の父が面を譲り受けた。だが僅か1年程で恐ろしい程に痩せ衰え、舞台に立つこともままならなくなった。叔父が跡を継ぎ面を引き取ると、父の健康状態は良くなったものの、今度は叔父が衰弱していったのだいう。

 その後も怪異は続き、面を掛けた者は皆、命を吸い取られるようだと声を揃えたのだった。


「それでこの面には触れてはならぬと、もう20年以上蔵に保管していたのですが、昨年父が亡くなり、遺言でこの面を供養して欲しいと言い残したのです」

「なるほど……」

「そんな呪いのようなことなどあるはずないと、数日前、試しにこの面を掛けたのですが……それが」


 青年は真っ青な顔で口ごもった。

 住職は彼が再び口を開くのを静かに待つ。


「……面を通して地獄が見えました。男女が抱き合い歓喜の声を上げて、燃え盛る炎に焼かれていくのが。まるで自らの情念で、己を焼き尽くそうとしているようで……恐ろしいものでした」

「ほお。……実は私も夢を見ましてな。面の女が自分を燃やしてくれと……」


 住職の言葉に青年は目を見開く。そして、小さく頷くのだった。


「この小面は、祖父のもとへ行きたがっているのでしょうか」

「どうなのでしょうなあ……。こうして持ち込まれたからには、精一杯ご供養させていただきますが……」


 じっと面を見つめ、そして囁きかける。


「……のう、美しいお方。貴女は本当に灰になりたいのですかな」


 嗚呼、と女の微かな嗚咽。そして。


 カーン……。


 静寂を割る大鼓おおかわの響きは夢幻の調べか。

 面は真っ二つに割れていた。





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