禍つ夜の美味なるもの

外宮あくと

禍つ夜の美味なるもの

「のう、兄者ぁ……それは本当に美味いのかぁ?」

「なんぞぉ、美味いに決まっとろうが」


 弟に尋ねられた兄はニヒヒと笑った。

 指にねっとりと絡みついた花蜜のごとき透明な滴りを、でろりと舐め上げる。にちゃにちゃと指を動かすと、細い糸が伸びて指の間を繋いだ。

 それを弟に見せつけるようにしてから、兄は薄ら笑いを浮かべてわざとらしく舌をチロチロと出し、指を一本ずつ丹念にしゃぶっていくのだ。

 弟はムッと眉をしかめた。


 今この漆黒の闇の中に在るのは、兄弟と食事の器だけ。しかし、光など無くともお互いの姿は当たり前のように見えていた。

 お前もそろそろ年ごろだから、この世で一番美味いものを教えてやろう、と兄に誘われて弟は初めてここへやってきたのだった。日が沈み夜の帳が下りて人が眠りにつく頃、常世とこよからほんの少し位相をずらしたこの闇の中へ。


 食事に夢中になる兄を、弟は初め好奇心で見つめていたが、だんだんと嫌悪感が湧いてきたところだった。話に聞いていたのとまるで違うではないかと、居心地の悪さも感じていた。

 だが兄は弟に気を配る様子もない。赤い牡丹の小袖を着流しにして、兄は立膝ついて笑っている。ばっと着物の胸を大きくはだけさせ、これが男伊達よと、怯む弟を嘲笑うのだ。


「美味そうに見えん。と言うか、兄者の喰い方が汚らしい」

「生意気な事を言いよる。そんなに言うなら、お前も少し喰うてみんか」

「……今日はまだいい」

「なんじゃ、この喰わず嫌いめが」


 兄はカカカと笑って、食事の器にまた手を突っ込んだ。ぐちゅぐちゅとかき回し、その感触を確かめ舌なめずりをする。

 ゆっくりと指を動かしながらかき混ぜるうちに、次第に目がトロリとして潤み始めた。兄は小鼻を広げ頬を上気させ、はぁはぁと熱い息さえ漏らし始めるのだ。

 もう我慢できぬと、手首を曲げごっそりとすくい取る。どろりと零れ落ちてゆく粘体をもう片方の手で受けながら、口を近づけじゅるじゅると大きな音を立てて飲み込んでゆく。顔をべたべたにしながら、夢中で指を舐め、また器に手を差し入れる。何度も中身をすくい上げては勢いよくすすった。


「ああ、極上じゃぁ……甘露じゃぁ……今夜は一段と美味い……お前に味見させてやるのも惜しいくらい美味いぞ……」


 顔をてからせ、兄はちらりと弟を見てまた笑う。唇を舐めまわす舌が異様に赤くて、弟はどきりと身を竦めた。囁きと共に香ってきた兄の息がほのかに甘いのは、本当に今夜の餌が最高に美味だという証なのだろう。

 ぺちゃぺちゃじゅるると盛大に音を立てて餌をすすっては、兄は興奮気味に器の中身を探るのだった。

 そして、目を輝かせる。

 しばらくして、器から出て来た手の中には、ぷにぷにとしたこぶし大の塊があった。


「ああ、これよぉこれ……これを喰わにゃぁ」


 兄の目にはもう弟のことなど映らず、間抜けに蕩けきった顔で、爪をかければ弾けそうな柔らかな塊にそっと口づけをする。恍惚として頬ずりし舐めまわし、そして歯を立てた。

 ぶしゅりと皮が破れて、ゲル状の中身が溢れでてきた。兄は零さぬように顔を上げ、喉を鳴らして飲み込んでいく。

 一瞬で、むんとする甘い香りが辺りに充満した。


 弟はくらりと眩暈を感じた。匂いを嗅いだ途端、身体の中心に火が灯ったような気がして、尻の辺りがジリジリとしてくるのだった。目は兄と器に釘付けになり、喉がゴクリと鳴る。

 そして何かに操られるように、震える手を伸ばした。兄の足もとに僅かに飛び散っていた、プルプルとしたものを指ですくって見つめる。しかし逡巡は一瞬で、すっかり香りに酔った弟は唇を震わせながら指を含む。

 ソレが舌の上で溶けてゆく。


「あ……あ、あ、あ、あ、ああ……」


 脳髄が痺れた。甘い陶酔に総毛立ち、腰が抜けてしまいそうだった。

 兄はいつもこんな素晴らしいものを喰っていたのかと、お門違いにも嫉妬してしまう程、それは甘美で更なる食欲を刺激してくる。

 たった一舐めでそれは、弟をすっかり魅了してしまったのだ。思わずもっと喰いたいと、ずりずりと器に這い寄ってしまう。

 兄はそれを蹴飛ばして、ケラケラと笑った。


「やっと喰ったか。言うた通りじゃろ? 美味かろう? じゃが、コイツはわしのもんじゃから、お前はよそをあたれ。なぁに、ちょっと探せばすぐ見つかるさ」


 けち臭いのうと、弟は口を尖らせた。

 しかし兄の言う通り、少し探せば餌はいくらでも見つかりそうだと思った。匂いはもう覚えた。闇の彼方から同じような甘い香りが漂ってきていることにも、既に気が付いていたのだ。


「そんでも、のう……兄者。本当に喰ってもええんじゃろうか」

「当たり前じゃぁ。わしらは、これを喰う為に生まれてきたんじゃから」

「コヤツ、なんや苦しそうじゃ……」

「あほう。じゃから、わしが喰うてやっとるに」


 ふんと鼻で笑って、兄は器を愛おしそうに撫でた。大切に大切に守るように抱きしめる。コレを見つけてからは、他の餌には一切目が向かなくなってしまったのだ。


「ずうっと側に憑いておるんじゃ。いつも側にいて、喰うてやるんじゃ。コイツはわしのもんじゃからなぁ。……わしの愛しい愛しい女子おなごなんじゃ」


 兄は器に、もとい女の頭にまた手を差し込んだ。すうっと手は指先から女の額に吸い込まれてゆく。そして肌には何の跡も残さずに、粘体を掬い取って手は頭の中から出てくるのだ。

 数百年も前に時を止めたような風体の兄弟と違って、女はオフィススーツに身を包んでいる。着替えるのも億劫だったのか、堅苦しい服装のままベッドに横たわっていた。枕元には鞄も放り投げていた。そして女は眉間に皺を寄せ、時折苦し気にうんうんと声を上げているのだ。

 だが、不気味な粘体を兄が喰らう度に、彼女の顔は和らいでいくのだった。


「コイツを苦しめる悪夢は、わしが全部喰ってやるんじゃ……楽しい夢だけ見とりゃぁいい……ほれ、良い顔になってきた」

「……兄者もあほうじゃの。それは器じゃぞ? 餌の入った器に惚れてどうする?」

「放っとけ! わしの勝手じゃ!」


 ケッと悪態をつき、しっしと弟を追い払う。そして、眠る女の頬を愛し愛しと何度も撫で、零れてしまったねばねばを一滴も残さぬようにと舐めまわすのだった。彼女の悪夢を、ほんの一欠片も残さぬように。


「コイツにはわしを見ることも、気づくことも決してできん……。夢の外側のものなんぞ、見えはせんのじゃ。そんなら、わしはとことん好きにするまでよ……」


 瞳を蕩けさせる兄を、弟は呆れたように見つめる。

 同胞をやたら惹きつけ、散々泣かしてきた罪つくりな兄だったのに、身も世もなく餌の器人間に夢中になりすっかり魅入られてしまった。幸せそうな顔をしてどんどん狂っていった。

 兄はもう長い事、この女の悪夢しか食べていないのだ。人はそう毎日悪夢を見るものではないから、いつも腹を空かせているというのに。何の義理立てなのか知らないが、どんなにやせ細ろうと餓えに苦しもうと、他の餌には目もくれない。

 今夜、甘い匂いを嗅ぎつけたときは、久々の逢瀬じゃ蜜月じゃと、歓喜に目を潤ませていた。

 女に強く執着する兄が心配だった。

 これが恋というものなのだとしたら、なんと愚かで恐ろしいものかと思うのだ。


「……人間はすぐに死ぬぞ。百年も生きんぞ」


 そんなことは言われるまでもないと、兄は女の頬に口づける。


「ええんじゃ。コイツが死んだら、わしも餓えて死にゃあいい……」




 美味なるは愛しきもの。愛しか喰わぬと兄は笑う。

 来世再び逢うときは、同じものに生まれたい。

 それが道ならぬ恋に溺れた『夢喰い』の夢。

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