第3話 糸に

 昼食をとった三人は二階にある事務所に上がり、今後の方針の打ち合わせや情報のすりあわせを始めた。

 口の滑りをよくする為の飲み物は、階下の「かごの鳥」で注文した珈琲やレモン水だ。本来「かごの鳥」は出前などやらないのだが、浄見探偵事務所は同じビルヂングに入っている縁もあって、自分で持っていく限り飲み物は事務所で飲む事が出来た。


「……となると、先生はこれから辻斬りを返り討ちにして、依頼人の腕を取り戻すんですね。不肖ふしょう、この百合坂武雄も微力ながら先生の助太刀を致しますっ」


 一縷から事件のあらましを聞いて、武雄は真っ先に助力を申し出た。

 輸入物の長椅子ソファーに深く腰掛け、背筋をまっすぐに伸ばしながら、大きな丸っこい瞳で一縷をどこか熱っぽく見つめている。

 一縷はと言えば、いつも通りに三人掛けの長椅子に一人で座り、珈琲の最後の一口を優雅に飲みながら視線を受け止める。

 わずかに微笑んだ顔は、武雄の申し出を喜んでいるようでもあり、返答に困って誤魔化しているようでもあった。


「坊ちゃん、今回ばっかりは本当に危ないんですぜ? あっしら……物の怪のいざこざに、人間様が手ぇ出すもんじゃあないと思いますがねぇ」


 横合いから十蔵が言いよどみながらも、口を挟んだ。

 武雄は一縷や十蔵が人でない――物の怪である事を知っている。しかし知っているから安全という話ではない。

 だがそれでも助力を選ぶのが武雄という少年だった。

 両手の間に持ったレモン水のグラスに目を落としてから、武雄は十蔵の顔をまっすぐに見つめて口を開く。


「伊崎さんもご存じの事ですが、自分は先生に命を救って戴きました。先生がいなければ今の自分はありません……ちょっとやそっとの助太刀では、ご恩に報いる事は出来ないのです」

「そりゃあ、あっしもくだんの話は聞いちゃいますが……今回は一縷さんの近くにいるだけでも危ないってぇのに……」


 十蔵は細い目をもっと細めながら、髪をなでつけるように頭をかいた。

 ただの失せ物探しや調べ物なら、十蔵もここまで止めたりはしない。むしろ勤勉な武雄は目の付け所も良く、そうした地道な仕事にはうってつけだ。

 ただの探偵業であるなら、武雄は優秀な探偵助手になれるだろう。だが武雄が敬愛している探偵は、シーメンス事件で名を馳せた岩井三郎でも、英国の探偵小説に出てくるホームズでもない。

 物の怪でありながら探偵業を営む、変わり者の浄見一縷ただ一人だ。


「武雄。君は淀橋よどばしの……君のお爺様のところへいってくれないか? 事件のあらましは今伝えた通りだが、狐面の女学生及び持ち去られた腕のありかを占ってくれるよう、君から説得してほしい」

「ほんとすぐご隠居に頼るのだから……」


 十蔵の嘆息を一縷は黙殺する。

 淀橋のご隠居こと、百合坂老人は武雄の祖父にして、このビルヂングのオーナーだ。

 明治の神仏分離政策で打撃を受けた陰陽師に連なる血筋だが、卜占ぼくせんに長けていたのが功を奏し、今では帝都の盛り場に幾つもの土地や建物を所有する成金の一人となっていた。

 気難しい易者としてその筋では有名であるが、初孫である武雄にはとても甘い事を一縷も十蔵もよく知っている。


「分かりました。お爺様に占って戴いたら、すぐにこちらへとって返します」

「いや、電話を寄越してくれればそれでいい。たまの休みなのだから、のんびりと肩でも叩いて孝行するのも良いだろう。君は休みとなると下宿とここの往復ばかりで、実家のお爺様には会ってもいないんじゃあないかい?」


 情報収集を兼ねた、ていの良い人払いではある。だが敬愛する一縷に言われたものだから武雄は疑いすらせずに頷いた。


「そうですね。先生がそう仰るのでしたら、今日はお爺様と過ごす事に致します。ところでその……依頼人の方は今どちらにいらっしゃるのですか? 腕を切られたとなれば一大事、たいそう難儀なさってるのでは」

「ああ、彼か。彼なら夜が明けた頃に出て行った。馬込の方に懇意こんいにしている旅館があってね。そこへひとまず身を隠すように言ってある。そこの女将は気立ての良い人だし、何も聞かれる事なく身を隠せるという訳さ」


 会ったこともない依頼人を心配していた武雄は、それを聞いて胸をなで下ろした。

 少々、いやかなり一縷に傾倒してはいるが、百合坂武雄という少年は元来の感受性が強くお節介焼きだ。そんな武雄が例え物の怪ではあっても、片腕を辻斬りに落とされた典治の話を聞いてしまっては、必要以上に心配をしてしまうのも仕方ない事だった。

 武雄は残っていたレモン水を一息に飲み干すと、膝の上に置いていた学帽を手にして立ち上がった。


「では先生。善は急げと言いますし、自分はこれからお爺様のところへ参ります。今回のご依頼の内容、お爺様に聞かれた場合はどこまでお話しても良いですか?」

「あの人になら、全部言っても構わない。口の軽い人ではないし、何よりも隠し事を好まない人だからね」


 言いながら何かを思い出したのか、一縷は少しばかり苦笑したように頬を歪める。

 だが武雄も十蔵もそれを深く尋ねるような事はしなかった。

 一縷と百合坂老人の付き合いは古く、西南戦争の頃に知り合ったとは二人とも聞いていた。しかしどんな経緯で出会ったか、どんな間柄であったかは一縷も百合坂老人もこれまで口を開いた事はない。

 お互いが古い知り合いで、今は店子と大家の関係だとしか言わない事を、余人がどうこう言えるものではなかった。


 一縷はすぐに表情を変えると、微笑みながら武雄に向かって手招きをする。

 鞄に手を伸ばそうとしていた武雄は、小走りに走り寄ると忠犬の如く身を屈めて一縷の言葉を待った。


「大事な情報収集ではあるが、気負う事はない。実家に帰るのだから、これで土産でも見繕っていくといい。お釣りは好きに使って構わない」


 そう言いながら、一縷は折りたたんだ紙幣を一枚、武雄に手渡した。受け取った武雄はそれを改めると、目を丸くして驚いた。


「先生っ、これ二十円札ですよ!? お、お間違えでは……」

「間違えてなどいるものか。土産は奮発してくれ。依頼料も兼ねて渡しているのだ。実家に戻る電車賃もそこから使っていい」


 大卒の初任給が四十円前後という時代に二十円は大金だ。しかし腕の良い易者に観て貰うと考えれば、相応の出費であるとも言えた。

 突然手の中に飛び込んできた大金に、武雄は手を震わせながら紙幣をたたみ直して財布に入れる。


「たっ、確かに受け取りましたっ」

「うむ。ではもう少し近寄り給え」


 白く細い指で武雄を招く。

 そしてその手で、首を傾げながら顔を近づけた武雄の頭をそっと撫でた。今時の学生にしては珍しく、刈り込んでいない素直な髪を優しく撫でられて、武雄はそのままの姿勢で動きを止める。

 敬愛する一縷に頭を撫でられるという望外の幸運に、体が硬直してしまっていた。


「頼んだぞ、武雄」

「はいっ、先生! では行って参りますっ!」


 一縷の一言で我を取り戻した武雄は、腹の底から出したような元気の良い声で返事をすると、二人に深く頭を下げて大股に事務所から出て行った。


「将来有望な若人わこうど籠絡ろうらくするとは、姐さんも人が悪い。青田買いにしても、こう、何というか……加減ってものをしちゃあどうですかねぇ。若いツバメにしても、坊ちゃんは有望過ぎますぜ」

「可愛い盛りだと思わないかね、あのくらいの子は。それに僕は籠絡も青田買いもしていないし、平塚雷鳥らいてうを気取っているつもりもないよ」


 腕組みをしながら長椅子の背に体を預けて嘆息する十蔵に、欠片も悪びれない返事が返ってくる。

 それを見て、十蔵はこれ見よがしにため息をついた。


「ところで一縷さん。あっしはひとまず編集部に戻りますが、一縷さんはどう動くんで?」

「僕か。僕は……ひとまず寝るよ。実のところ、昨日の夕暮れ辺りから寝ていないんだ」


 言うが早いか、一縷は体を伸ばしながら大きくあくびをした。「かごの鳥」自慢の珈琲も、眠気を追いやるには至らなかったようだ。

 伏し目がちにまばたきをする一縷は、その美貌を見慣れている十蔵ですら息をのむほど蠱惑的に見えた。

 だがそれを表に出すような十蔵ではない。

 大げさに苦笑しつつ立ち上がると、愛用の中折れ帽を頭に乗せた。


「まったくもって、探偵というには少々ぐうたらが過ぎるかと思いますがねぇ。そんなんじゃ、坊ちゃんからの電話にも出られやしませんよ」

「なぁに、電話に糸を絡めておけば、寝ていたって跳び起きるさ。さあ、僕の寝姿を見たいというのなら止めやしないが、そろそろ瞼が重くなってきたぞ」


 言葉通り、一縷は半眼になって十蔵を見つめている。

 そのまま長椅子に横になろうものなら、すぐにでも寝息を立てかねないほど、うつらうつらと船をこぎ始めている。


「姐さんの寝姿なんて見てた日には、いつの間にか糸でがんじがらめにされててもおかしくありませんなぁ。あっしはそれほど命知らずじゃありませんので、ここらで退散させてもらいますよ。こっちでも何か分かったら電話しますんで、忘れず跳び起きてくださいな」

「ああ、分かっているよ。糸はそこらに仕込んであるから、鍵はしめなくて良い」


 追い払うように手を振って十蔵を送り出すと、一縷はそのまま倒れるように長椅子に体を横たえた。糸に伝わる振動で去って行く十蔵の足取りを知覚しながら、自らの巣とも言えるビルヂングとその周辺に張った糸を調節する。


「一日二日で網に掛からねば、打って出るとするかねぇ……まあ、占いの結果次第か」


 誰に言うでもなく、小さく独り言ちる。

 絡新婦じょろうぐもとしての習性からすれば、自分の巣に獲物がかかるのを待ちたくなる。しかし一縷は絡新婦としては珍しく、自分のそうした習性をまどろっこしいとすら思っていた。

 それでも、元が生き物であった故の性質――睡眠欲ばかりは、妖怪とて逆らうにも限度があった。


「二日は長いか……僕を餌にすれば、釣れない事もないか……」


 口の中で呟きながら、一縷は深い眠りに落ちていった。




 田山たやまただしは勤務を終えると、私服に着替えて西神田警察署を後にした。

 腰まである外套マントの下は、書生じみた木綿の着物に詰め襟のシャツ。日も暮れる頃となると、風の冷たさがじわりと肌に染みてくる。

 配属されている西神田警察署の近くには、美味しいと噂の店が幾つもあるが、田山はいつもそれらの店先を眺めるだけだ。食欲をそそる匂いに鼻をくすぐられるが、警官だからとツケが効く店ばかりではない。

 自費購入である拳銃の金を用立てるのに、親戚にいくばくかの金を借りた身では贅沢は出来なかった。


 腹は空いているが、いつも通り自宅アパート近くの安いそば屋か、帰り道であんぱんを買って帰るかの二択しか、田山が選べるものはない。

 店から出てきたバンカラ気取りの学生達とすれ違いながら、田山は軋るほどに奥歯を噛みしめた。


 今日はいつもより腹立たしい事が多い日だ。

 朝一から多量の血痕があった現場に駆り出され、成果が出るはずもない周辺の聞き込みに回され、更には記者を名乗る男の不快な弁舌まで聞かされた。

 おまけに連れの女顔した奴ときたら、警官である田山に眉をひそめるなど失礼極まりない。

 思い出すだけで煮えるような怒りを感じた田山は、外套マントの下で懐に忍ばせた米国製の回転式拳銃リボルバーの感触を確かめる。


 警官や軍人ならば拳銃の購入や所持・携帯は容易だ。

 懐に忍ばせた重量一キロに満たない鉄塊が撃ち出す弾丸が、どのような威力を持つか分かっている。

 それをよく分かっているからこそ、田山は昏い衝動を抑えられた。


 田山は子供の頃よりその人生において、善き人間であり続けようとした。お節介焼きと言われても困った人には手を差し伸べ、自分の負担を苦にしなかった。

 そして人々を助けるため、善き警官を目指して警視庁へと入庁した。

 だが田山の想像以上に世間には善き人間が少ない事を、初めての勤務から三年も経った時に思い知った。


 人を騙す者。人から様々なものを奪う者。人に理不尽な危害を加える者。そしてそれらを見て見ぬ振りをする者が、世間にはごまんといた。

 更には共産主義者コミュニスト無政府主義者アナキストの台頭は、田山にとって結核やスペイン風邪が広まる以上に、日本という国にとっての脅威と感じられた。

 仕事柄、人心を惑わす噂を耳にする事は山ほどある。

 それらの真贋しんがんを確かめている暇もないが、その分だけ田山の中には怒りが積もっていった。


 いつしか善き警官を目指した田山忠は、高圧的で横柄な――善き人々にすら睨みをきかせる警官となっていた。

 強きをくじき、弱きを守るために、借金してまで購入した回転式拳銃も鬱屈うっくつした怒りを鎮めるためのものに成り果てている。

 それが自分でも分かっているからこそ、田山の怒りは収まらなかった。


 田山は長屋を思わせる造りのアパートへ帰り着くと、コンクリートの内廊下を歩きながら、歯の間から押し出すように息をついた。

 隅田川の近くにあるこのアパートは、いつも湿気が酷い。窓を開けていてもかび臭く、ゴミを片付けていてもすぐに虫がわく。

 帝都を守る警官である自分が、このような安アパートに住まねばならないのも腹立たしい。

 家は寝に帰るだけの場所と割り切ろうとしても、湿気た布団に入る度に気が滅入り、腹立たしさは積もるばかりだ。


 内廊下の一番奥にある部屋の鍵を開き、立て付けの悪い引き戸をこじるように力を入れて開ける。

 靴を脱ぎ、一畳半ほどの台所を抜けて夕暮れの日差しが差し込む居間に入ると、目に入ったのはちゃぶ台の上に置かれた一枚の小さな紙片だ。

 それを目にした途端、田山は自分でも胸が高鳴るのが分かった。思わず小走りにちゃぶ台へと駆け寄ると、ひったくるように紙片を手に取る。

 二つ折りの紙片を開くと、そこに書かれた文字に目を通した。


【今夜八時に例の場所にて】


 書かれている文字はこれだけだが、これこそが田山が待っていたものだ。

 紙片を握りつぶすと口に放り込み、飲み下しながら掛け時計を見やる。

 時刻は六時半を少し回ったところだ。

 二日続けて・・・・・の呼び出しはこれまで無かった。それだけに期待が高まる。

 空腹や怒りを忘れ、田山は再び靴を履くと路面電車の駅へと走って行った。

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