化け蜘蛛探偵、帝都の夜を忍び歩く

椚屋

鬼の呻く夜

第1話 辻斬り

 十月も中旬となれば、冬の気配が日に日に近づいてくるのが肌で分かる。

 それも夜――日の変わる頃ともなれば尚更だ。

 典治てんじと名乗る博徒の男は、身を縮こめるように着物の裾に手を引っ込めて、人気の無い神田の裏通りを小走りに家路へ急いだ。


「うう、寒い寒い」


 つい口に出てしまうが、懐は温かかった。

 通い慣れた賭場からの帰り道。今日は珍しくついていたのか、数日の飲み代を稼ぐ事が出来た。

 いつもは大きな負けはないが、大きな勝ちもなく、博徒としては二流三流。腕っ節の強さだけは仲間内でも知られているが、博打に関しては下手の横好きで通っているのが典治という男だ。


 酒屋に少しばかり溜まっているツケを払い、何日かは寝て起きて飲んでの日々を送れると思うと、典治の顔はついついにやけてしまう。一張羅を引っ張り出して銀座辺りに繰り出すのも良いだろう。

 文明開化で広まった洋食はどれも典治の舌にあった。オムレツしかりカツレツしかり、和食とはまた違った味わいがある。

 新しい店を開拓するのも楽しいが、銀座に出るのなら煉瓦亭は外せない。

 加えて典治は酒飲みの割りに甘い物にも目が無いときている。先年発売された国産のチョコレートは、あればあるだけ食べてしまうほどだ。

 腕っ節の強さの次に典治の食い道楽は仲間内で広く知られていた。


 望外の収入に浮かれていた典治は、行く手を塞ぐように現れた少女を見て、太い眉を怪訝にひそめた。

 ガス灯もとぼしい裏通りに、月明かりに浮かぶ少女は女学生のようであった。

 胸の前に垂らしたお下げ髪に矢絣やがすりの着物、女袴と編み上げの長靴ブーツ。ただし街を行く女学生と大きく違うのは、その顔を狐の面が隠しているところだ。


 昼間であれば、このような女学生は学校の多い神田の辺りではよく見かける。ただし狐面を付けてるとなれば、夜昼問わず見かける事はないだろう。

 何かの出し物か、それとも不良女学生が顔を隠そうとしているのか、典治は真意を測りかねて足を止める。

 それこそが少女の狙いだと気づくのは、一瞬の後だった。


 背後に感じる粟立あわだつような殺気に、典治は一歩前へと踏み出しながら太い右腕を大きく振った。

 振り向きざまに繰り出された典治の豪腕に、閃く白刃が半ばまで食い込んだ。

 痛みよりもまず驚愕に顔を歪める。

 相手はそのまま刀を振り切って腕を切り落とし、典治の胸を浅く切り裂いた。咄嗟に一歩間合いを離していなかったら、これだけでは済まなかっただろう。


 典治は切られた腕を押さえながら、辻斬りを睨み付けた。

 黒ずくめを通り越して、影絵を思わせる黒い人型。顔の辺りには目を見開く老人じみた姿の青白い光が取り巻いている。

 手にした一刀だけがぬらぬらと月明かりに輝き、異形の姿をより際立たせていた。


 気づけば野良猫の鳴き声すら消え、周囲の気配が殆ど感じられなくなっている。

 辻斬りと狐面の女学生に前後を挟まれた典治は、罠にかかった迂闊うかつさを悔やみながら口を開く。


「どこの……なにもん・・・・だ、てめぇ……」


 異形の辻斬りと相対しても、典治はさほど驚かない。

 いきなり斬りかかられるのは、これまでに何度もあった。それが人とも思えぬものであっても、幾度とない経験を積んでいた。


 切り落とされた腕が、土の上で大きく痙攣するとその形を変えていく。逞しい腕は一回りもその太さを増し、指先の爪は野の獣じみた鋭さを帯び、色黒の肌が赤銅色へと変化する。

 瞬きほどの間に、切り落とされた典治の腕は辻斬りとは別種の異形に――鬼の腕へと変わっていた。


「帝都の治安を脅かす化け物めが……今すぐ誅殺してくれようぞ」


 異形の辻斬りはやけに響く声で告げながら、足元に転がる腕を蹴って手にした一刀を中段に構え直す。

 正体を現してしまった腕を目の端に捉えながら、典治と名乗っている鬼はぎり、と奥歯を噛みしめる。

 鬼である自分の体に、生半なまなかな刃物は通じない。

 齢百を大きく超える典治は、人の姿でも鬼の姿でも数多の刃をその身に受けたが、切り傷が出来ることすら稀だった。例え業物の刀で切りつけられても腕を切り落とされるなど考えたこともない。

 それを易々とやってのける刀も、刀を振るう辻斬りの腕も尋常なものではない。


 文明開化の混乱に乗じて博徒の姿に身をやつし、人間の中で生きてきた典治は、もう人の味すら思い出せない。偶に繰り出す銀座で食べるライスカレーの方がよほど舌にあう。

 だがかつては人喰う鬼であったことは揺るぎない事実だ。

 いつかはこうなると思ってはいたが、それが今日とは思ってもみなかった。


 しかし白刃を前にこうべを垂れるほど、典治も悟ってはいない。

 颶風の如く迫る刃を叩き折ろうと、鬼の力を込めて左腕を振るう。その腕はもう人の姿を止めていた。

 だが辻斬りはそれを読んでいたのか、一度刀を止めると軌道を大きく曲げて切り上げる。肘の上を浅く切り裂かれた典治は、続けざまに繰り出された突きに左の腿を貫かれた。


 鬼の膂力は牛馬数頭を上回る。それは人の姿をしていても変わりない。だがその身に備えた力を全て使えるのは、本性を現した時だ。

 刀傷を隆起する筋肉が強引に塞ぎ、全身の肌が赤銅色へと変じていく。雪駄の鼻緒がちぎれ、体が一回り大きくなると額を割って短い角が生える。

 典治と名乗っていた鬼は月夜の帝都で真の姿を現すと、一声吼えて辻斬りへと飛びかかった。


 異形の辻斬りとて典治の一撃を受ければ、ただでは済まないだろう。

 それを分かっているのか、典治の間合いには一時たりとも体も刀も置いておかない。刀の間合いを保ち、一撃入れては大きく退く。

 大振りの初手で決するつもりが、典治の機転で腕を落とすに終わった以上、守りも考えねばならない。

 典治が伸ばした手や足を、刀の間合いに入り次第切り、突き、血を流させて力を削いでいく。

 矢継ぎ早の攻めを避けきれず、とうとう歳経た鬼も月明かりの下で膝を突いた。


 大上段に構えた辻斬りは、真っ向から典治を両断せんと、その刃を振り下ろし――止まる。

 突然の事に典治は目を見開き、対する辻斬りは腕も足も微動だに出来ず、ぐるりと首を回して何が起こったのか探った。


 よく見れば細い糸が辻斬りの手足に絡みつき、四方八方へと伸びている。目を凝らせばやっと見えるくらいの細い糸だが、渾身の力を込めても辻斬りは糸を引きちぎれないでいた。

 狐面の女学生も異常を察して足を踏み出すが、行く手を阻むように張られた幾本もの糸に気づいて歩みを止める。


 鬼を誅殺する場に、自分達以外の誰かがいる――ありえないはずの事態に、表情こそ見えないが狐面の女学生はうろたえる。

 月明かりでわずかに輝く細い糸は、まるで蜘蛛の糸だ。ただの糸なら突っ切れるが、動きを封じられた姿を見てしまっては出来るものではない。


「やめたまえ。手足がちょん切れるぞ」


 唐突な、よく通る声に典治も辻斬りも、狐面の女学生も一斉に声の方を向いた。

 そこにいたのは鳥打ち帽ハンチングを目深に被り、黒い二重回しを羽織ったスーツ姿の美丈夫びじょうふであった。

 美丈夫は手にしたステッキの先をすぅ、と持ち上げて身動きの取れぬ辻斬りを指した。


「今は大正、文明開化の後の世で、まさかまさか段平だんびら振り回す辻斬りとは古風も古風。まさか今を幕末辺りと間違えてやしないだろうね? 廃刀令はいとうれいは知っているかい?」


 楽しげに芝居がかったメゾソプラノの声音が、月明かりに照らされる裏通りに響く。ステッキの先を辻斬りから女学生へと向けながら、美丈夫は小さく笑った。


「また珍しい格好をしているね。そこらの歌舞伎者じゃあなさそうだが、ご両親には泣かれはしないかね? まぁ、ここいらに張られた結界・・の中なら、そうそう親類やご学友に見つかることもあるまいが――忍び足で入り込むにも骨が折れた。ここまでの手を尽くすのだ、ただの辻斬りではあるまい?」


 声一つ出さずに、典治と辻斬りの死闘は静観していた狐面の女学生が、半歩だけ右足を引いた。突然の闖入者への警戒を露わにし、左腕を着物の袖に入れる。


「もう、君も僕の巣の中だ」


 ステッキがくるりと回ると、女学生へ向けて空中から細い糸で出来た網――巨大な蜘蛛の巣が落ちてくる。

 だが狐面の女学生は、どうやってしまっていたのか袖から薙刀を滑り出させると、頭上で一回しして蜘蛛の巣を切り裂いた。

 そのまま薙刀を振り回して辻斬りへと走り寄ると、手足を縛っていた糸を切断する。自由になった辻斬りは、大上段に構えていた刀を振り下ろすが、その時にはもう典治の巨躯は糸に引きずられて美丈夫の足元まで移動していた。


「いやはや、僕の糸を切るとは腕が立つね。そこの黒ずくめよりも、狐面の君のがよほど辻斬りに向いているんじゃあないかい?」


 仕掛けた罠を突破されても、美丈夫は余裕の笑みを崩さない。手遊てすさびにステッキを回しながら辻斬りと狐面の女学生を見据えると、切れ長の瞳に剣呑な気配が宿った。


「官憲に突き出して、どうにかなる話じゃあなさそうだが……ここで終いにしなければ、憂いとなるかな。まだやる気だろう?」


 辻斬りは殺気を押さえずに刀を構え直すが、狐面の女学生はそれを片手で制した。


「引きます」


 言うが早いか薙刀を一閃させて地面を切り裂く。地面に広がった暗い割れ目は、まるで獣の顎のように口を開くと、狐面の女学生と辻斬りを一口に飲み込んで跡形もなく閉じた。


 美丈夫は割れ目が開いていた場所に近づくと、二三度ステッキで地面を突いた。踏み固められた土は、人が二人も入れる穴が空いていたなど信じられない固さだ。

 辺りに目をやると、切り落とされた典治の――鬼の腕も消えていた。典治はと言えば、まだ立ち上がる事も出来ずに切り落とされた腕の傷を押さえている。


「腕が目的か……? どの道、色々と仕込んでの仕事だ。ただの辻斬りではなかろうが……」


 細い顎に手をやり思案を始めた美丈夫に、典治は人へと姿を変えながら少し震える声で礼を言う。


「誰だか知らないが助かった。あんたが来てくれなかったら……」

「手遅れにならずに済んで良かった。だが羅生門の鬼と相成った訳だが、心当たりがあるかい?」


 思案を中断して尋ねるが、典治は首を横に振る。

 不意打ち闇討ちは博徒である身の上では偶にあったが、鬼と知って斬りかかられるのはここ数十年では一度も無かった。最後に鬼として侍や他の妖怪とやりあったのも、江戸に黒船がやってきた頃だ。


 美丈夫はまだ考え事をしているようだが、ステッキの先で典治を指すと、蜘蛛の糸が何重にも傷口へと絡みついて血を止める。切り落とされた腕の断面ですら、真っ白になるほど大量の蜘蛛糸で傷口を塞いである。

 まるで埃及エジプト木乃伊ミイラの様相だが、背に腹は代えられない。

 幾ら鬼が人間より頑丈であっても、全身を滅多斬りにされては止血無しでは命に関わる。


「ひとまずの処置はした。まだ痛むだろうが、そこは我慢してくれ。とりあえず、近くに僕の事務所がある。このまま帰る訳にもいくまいし、少し休んでいくと良い」


 言いながら典治の傍へとしゃがみ込むと、肩を貸して立ち上がらせる。二重回しの厚い生地越しだが、体を預けた美丈夫の体躯は細く柔らかい。

 典治はこの段になってやっと、自分を助けたのが男装の麗人であると気がついた。


「事務所……? あんたぁ、一体何もんだい? 見たところ、俺と同類のようだが……」


 足を引きずりながら歩く典治の問いに、男装の麗人は快活な笑みを浮かべて答えた。


「僕は一縷いちる浄見きよみ一縷いちる。帝都を根城にする、しがない探偵の絡新婦じょろうぐもさ」

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