第2話 助手
「んで、
もう時刻は昼に近い頃、一縷は男を一人
少しくたびれたベージュの
一縷は愛用の二重回しは羽織らずに、
視線の先には、土に染みこんで乾いた血溜まり。誰かの通報があったのか、周囲には幾つもの足跡――その内訳は野次馬と警察が半々であろう。
だが事件より半日近く経った今は、もうどちらもいなくなっている。
血溜まりが残るだけで、当事者も目撃者もいないとなれば、そう長々と捜査に当たっていられるほど警察も暇では無い。
「受けたさ。持ち去られた腕の奪還と、辻斬りの素性を調べるだけだがね――帝都で起こった羅生門の鬼じみた怪事件だよ。興味深いとは思わないかね?」
一縷は流し目に男を見やる。
中性的な美しい顔立ちは、それだけで男も女も魅了するような、
しかし当の男はと言えばわずかに肩をすくめて、細い目を更に細めながら一縷の視線を受け止める。
「高等遊民顔負けの好奇心ですな。探偵なんぞやるよりは、よっぽど似合ってらっしゃると、あっしは思いますがねぇ」
「失礼な事を言うものだね。これでも、人でも猫でも失せ物探しではひとかどの評判は得ているのだよ? それに今回は荒事が予想される。この帝都でも、今回の辻斬りを解決出来る探偵は僕くらいじゃあないか」
手にしたステッキをくるりと回しながら、一縷は自慢げに胸を張る。
確かに鬼をも叩き切る辻斬りを相手に出来る探偵など、帝都広しと言えども一縷くらいしかいないだろう。
そこは男も納得出来る。
だが、一縷の言い分につい愚痴が出てしまう。
「
「ほう、十蔵。君は僕の依頼が不満と言うのかね。身元が割れそうな時、手を尽くした恩をもう忘れてしまったのか。この恩知らずめ」
十蔵と呼ばれた男は、滅相も無いとばかりに首を振った。
叩けば大きな埃の出る身の上で、助けて貰った恩は忘れていない。しかし雑誌記者で時間の自由が効くと言え、ことある毎に引っ張り出されるのは内心
今日も辻斬りに遭遇したからと、情報提供をちらつかされて引っ張りだされたが、実際は体よく使う腹づもりなのは一目で分かった。
出入りしている編集部に、一縷からの電話がかかってきた時から薄々は分かっていた事だが、極々稀には情報提供で呼び出す事もある。今回もそれに賭けてはみたが、やはり十蔵の期待は裏切られた。
「そ、そんなこと言ってやしませんよ――依頼って言うなら、報酬を払って欲しいんですが……」
「払うと言ってるだろう。ほら、手をだしたまえ」
口を尖らせながらも言われるままに十蔵が出した掌の上に、一縷はがま口の財布から硬貨を出して押しつけるように握らせた。
十銭硬貨が六枚。
日雇い人足の日当にも程遠いが、無いよりはましだ。
責任は果たしたとばかりの笑顔を浮かべる一縷に、十蔵は深く深くため息をついた。
三年かそこらの付き合いしかないが、下手に金銭の交渉をしようものならへそを曲げかねないのは分かっている。
押しつけられた硬貨をポケットにしまうと細めた目の奥で周囲を見やり、一般人がいなくなるタイミングを見計らって大きく息を吐いて、ゆっくりと鼻から空気を吸う。
それを数回繰り返してから、一縷がステッキで指し示す先――夜半に狐面の女学生が断ち割った地面の辺りに四つん這いとなって、念入りに匂いを嗅ぐ。
途端、十蔵は無意識に渋面を作った。
「一縷さん。あっしの鼻がさび付いてなけりゃあですが、これはちょいと面倒な事になりますぜ」
十蔵は立ち上がってスーツの埃を払う。
一縷に聞いた話から超常の術が使われていたのは確信していたが、嗅ぎ覚えのある匂いに十蔵は鼻を擦りながら頬を歪めた。
「君の鼻がさびついてなどいるものか。何が分かった?」
「昔嗅いだ、神隠しの時に使われる術に似た匂いがしやすぜ……まあ、その少女と辻斬りは帝都のど真ん中で神隠しにあったって事でさぁ」
大正の世になっても、人が跡形もなく消えてしまう事件は稀に発生する。それらの殆どは人同士の事件や事故によるものだが、ほんの僅かに人でないもの――妖怪とも言われる、人の常識の外にある存在が関係していた。
「ふん、神隠しなら君のお家芸じゃあないかね? 眉に唾をつけねば、僕でも騙されかねないからねぇ」
「あっしはそんな事しちゃあいませんよ。狐ってのはお稲荷様の使いとして、全国津々浦々で敬われるもんですからねぇ。お供え物をそれらしく受け取ってりゃあ、人間様もあっしらも両得ってもんですぜ」
十蔵の正体は歳経た狐――人に化け、人を化かす妖孤だ。生まれからして鼻が効くので、何かある度にこうして猟犬代わりに調査に駆り出される。
報酬は少々の現金と、大半が表沙汰に出来ない情報だ。
辛うじて公表出来た幾つかの情報が、十蔵が記者としての立場を確かなものとするのに大いに役立った事も、一縷に逆らえない要因であった。
色々と面倒事は持ち込んでくるが、偶にもたらされる情報が貴重で無下に扱えない相手――それが伊崎十蔵と名乗る狐が、一縷に抱いている正直な所感である。
そんな美女に必要とされるのは、程度さえ
「しかし狐面かあ。やはり君のご同輩という事はあるまいね?」
「狐の面なんて祭りの時分に稲荷神社へ行けば、幾つも見られるものじゃあないですか。なんなら土産物屋でも回れば、それこそ売るほど並んでますぜ」
冗談めかした問いに、軽い冗談で返す。
しかしそこへ飛んできた高圧的な怒声に、二人はどちらともなく苦い顔を浮かべた。
「こらっ、お前達! ここで何をやっているんだ!」
声の主は、警棒を携えた
だが警官の視線や声音は、まるで二人が犯人とでも言いたげなものだった。これみよがしに手にした警棒を見せつけ、何かあれば殴りつけられるように肩を叩いている。
形の良い眉をひそめた一縷が口を開く前に、十蔵は一歩前に出て愛想笑いを浮かべながら頭を下げた。
「いやあ、済みません。ワタクシ、記者をしているものでして。この頃、物騒な事件も相次いでますので、市民の皆様にこう、治安維持への啓発をうながすような記事を書きたく思い、なにがしかの事件現場で感じた事などを――」
腰を深く曲げたまま、つらつらとまくし立てる十蔵に、警官はあからさまに頬を歪める。
さりとて十蔵の弁舌は止まる事なく、次から次へと治安維持の重要さと、それを支える警察の職務の大変さを様々な角度から説いていく。
冷静に受け止めれば、まくし立てて煙に巻こうとしてるのは明らかだが、それを感じる暇を十蔵は与えない。
まるで講談師のような弁舌に、警官は口を挟みきれずに音を上げた。
「もういい、疑われたくなかったらこんな所には近づくんじゃあないぞ。いけいけっ!」
野良猫でも追い払うように手を振って、二人から離れていく。しかし最後に一縷を射貫くような目で見据えたのを、二人は見逃さなかった。
「一縷さん……天下の往来で、警官に逆らおうってのは止めてくださいや。あっしが口挟まなかったら、真っ向から言い合うつもりだったでしょう」
「僕とて東京市民として税金を払っているのだ。無実の市民にあらぬ疑いをかけてくるのなら、言い返してもバチはあたるまいよ――それだけじゃあないかも知れんがね」
「そうかも知れませんなぁ。ちょいと……血なまぐさい臭いもしやしたしねぇ。相当念入りに洗ってるのか、あの風体で石けん臭いときてやがりますが、それにしたって警官の臭いじゃあありませんな」
十蔵は鼻の下をこすりながら、小さくつぶやいた。
去って行く警官の背を見つめながら、一縷は軽くステッキを持ち上げる。その先から伸びた糸は、警官の足元まで繋がっていた。
「糸はつけた。何かあれば分かるだろうし、僕らもこの辺で退散しようか」
一縷は小さく笑ってから大通りへ向けて歩き出した。十蔵は慌てて横に並ぶと、頭一つは低い一縷にあわせて背中を丸めて話を続ける。
「辻斬りと言やぁ、二月ほど前に狛江村で見つかった、首無し馬の話はご存じで?」
「ああ、何でも首が切り落とされた馬の死骸が、多摩川の川っぺりに捨ててあったって話だろう」
探偵たる者、新聞は隅から隅まで目を通している。一縷は頷きながらも事件の概略を思い出していた。
鉄道や車が広まっている今、馬の死骸が放置されている事は珍しい。それも首が無くなっているとなれば、人の噂に上らぬ訳がなかった。
東京府と神奈川県の境でもなければ、一縷も一目現場を見てみたくなったほどだ。
東京府の中心たる東京市を作る十五区から、東京府の外れまでは少々遠い。狛江村を通る私鉄が作られる話もあるが、開通はまだまだ先だ。
「あれね、我らがご同輩……妖怪なんですわ。あっしも見に行ったんですが、首が無いだけでなく胴の辺りをばっさりとやられてましてねぇ」
「それも件の辻斬りの仕業とすれば困ったものだね。実のところ、辻斬りの被害は広まっていたのかも知れないねぇ」
一縷や十蔵のように、歳経た生き物が精気を蓄えて人の姿を取った妖怪なら、死ねば元になった生き物の死骸が残る事が多い。
だがそうでないものの場合や、器物の変化である
前者は何が起こったか現場を見なければ分からず、後者はゴミとしか思われないために噂として広まりにくい。
そもそも、人に比べて数が少ない妖怪は横の繋がりが希薄で、縦の繋がりはごく狭い場所でのみあった。
昔は山や峠ともなれば、そこを統べる妖怪やそれに従うものがいたものだが、いつの間にか誰にも知られないままに消えていった。
大正の世に生きる妖怪は、姿を変えて世に紛れるか、もしくは人の目に触れない場所へと去って行く。
人の世が栄えていくにつれて、人でないものは生き辛い世の中になっていく。
一縷や十蔵のように人の姿を取って人の世で暮らしているのは、数少ない妖怪の中でも更に稀な例だった。
「しかし……一縷さん、顔見られたんでしょう? このままでは辻斬りに狙われるんじゃあないですかい?」
十蔵は眉間に皺を寄せながら、率直に心配事を口にする。
歳経た
「僕の所へ来るのなら、捕まえて正体を吐かせるさ。事務所の近くで辻斬りなぞ横行しては、枕を高くして寝られやしないからね」
声を潜めて話していた二人は、やがて目的地である浄見探偵事務所に到着する。
大通りから角を一つ入った場所に建てられた、鉄骨煉瓦造り三階建ての百合坂ビルヂング三号館、その二階に一縷は事務所を構えていた。
一階のカフェー、「かごの鳥」は神保町のカフェー街からは離れているものの、本格的な洋食と珈琲が売りの店だ。店の前に置かれた椅子には黒板が立てかけられ、それに日ごとのお奨めが書いてある。
昼時ともなれば、何人か外で並んでいる光景を見ることもある、知る人ぞ知る名店であった。
一縷と十蔵は会うとここで食事を取ってから、二階にある事務所で詳しい話をするのが常だ。
しかしいつもならこの時間にはいない人物が、事務所の前にある電柱に体を預け、所在なげに片足をぶらつかせていた。
「おやおや、坊ちゃんがお待ちですぜ」
「今日は半ドンか、忘れていたな」
学帽を被り、詰め襟の学生服に身を包んだ細身の少年は、二人の姿を見つけると色の白い整った顔に満面の喜色を浮かべた。
そして飼い主を見つけた忠犬が如く、尻尾の代わりに肩に掛けた帆布の鞄を揺らして走り寄ってくると、二人の前で礼儀正しく頭を下げた。
「先生っ、お帰りなさいませっ! 伊崎さんがご一緒となると、今日も何か事け――んっ」
声変わりしていないような高い声を響かせるが、最後まで言い終える前に一縷は人差し指を少年の柔らかい唇に当てて遮った。
「あまり大きな声で言うものではないよ、
たしなめながらも一縷の視線は優しかった。
この少年、百合坂武雄は一縷が事務所を構える百合坂ビルヂング所有者の孫で、一縷に負けない旺盛な好奇心で探偵助手を自称しては、何かにつけて手伝おうとしてくる。
店子の弱みもあり、一縷は武雄を無下には扱わないようにしているが、危険を伴う依頼もある事から直接事件に関わらせないようにしていた。
伝言や掃除といった小間使いとしての仕事であっても、この武雄少年は一切愚痴を言う事もなく、嬉々としてそれらの仕事をこなしていく。
報酬らしい報酬は「かごの鳥」での食事くらいだが、武雄は少しでも一縷の手伝いが出来るのを心から喜んでいた。
「坊ちゃん、一縷さんの仕事は危ない割に地味で、これからの日本を支える坊ちゃんのようなもんが手ぇ出すような仕事じゃねぇんですよ」
「学生として、これからの日本を支える男になる為に日々精進しておりますが、まずは先生を支える助手としても精進するのも、自分にとっては大事なことです」
十蔵の苦言も
ため息をつく十蔵は、困ったように一縷を見つめた。毎度の事ではあるが十蔵の弁舌も武雄には歯が立たない。そうなれば、武雄が敬愛する一縷の言に頼るしか無い。
「武雄。お腹は空いていないかい? 何をするにも、まずは腹ごしらえからと僕は思うのだが、君が良ければ三人で昼食といこうじゃないか」
まるで子供に応対するように食べ物で釣る。
だが今年高等学校へ入学したばかりの武雄には、効果てきめんであった。
「はいっ! ご相伴にあずかりますっ!」
「しっかり食べねば、勉学にも身が入らないだろう。好きなだけ食べたまえ」
一縷は学帽が落ちそうな勢いで頷く武雄に柔らかく微笑むと、今日何度目かのため息をつく十蔵を従えて「かごの鳥」のドアを開けた。
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