第6話 百鬼の怪異

 浅草橋の欄干に引っ掛けた糸を手繰り、川から上がった一縷いちるは片手で濡れた髪を後ろになでつけた。

 川へ落ちる時にぶつけた額を少し切ったものの、顔でなかった事だけは幸運であると言える。

 半ば趣味で男装を気取ってみても女である以上は、顔が傷つくのは嬉しいものではない。


 弾の食い込んだ脇腹に手をやると、ひしゃげた九ミリ弾を服に開いた穴からほじりだした。胸の膨らみを抑えつつ体を守るために巻いていた、さらし代わりの蜘蛛糸が弾丸を食い止めていたのだ。

 それでも着弾の衝撃を止めきれるものではなく、鈍い痛みは残っているが、軍用火器で撃たれたにしては上出来の結果である。


 川に落ちても放さなかったステッキをくるりと回しながら、一縷は倒れ伏した白姑へと足音も高く近づいていく。

 殆どの糸は切れてしまっているが、まだ繋がっている糸からは白姑が生きている事が伝わってくる。


「言っただろう? 僕の巣は、いつの間にか絡め取ってしまうのが売りだと。侮りすぎて警戒を怠るのは――賢くない」


 白姑は着物も袴もぼろきれのようになり、辛うじて細い体に絡みついているといった様だ。

 顔こそ見えないが狐の面も砕けて地面に落ちている。あらぬ方向へねじ曲がった左腕は黒く焼け焦げ、もう使い物にはならないだろう。

 常人ならば瀕死の重傷、命があるだけでも儲けもののていだが、それでも白姑は身じろぎしながら右腕だけで体を起こそうとする。

 一縷は足を止め、水の滴るステッキの石突きで地面を一つ突いた。


「やめたまえ。その傷で無理をすれば死ぬよ。素直に事情を話すというのなら、僕とて命まで取るつもりはない」

「だ……黙れっ。お前のようなものがいるから――」


 ひどく咳き込んだ白姑は、大量の血を吐いた。至近距離からの爆風は肺臓をも大きく傷つけていて、半裸の少女は息も絶え絶えに顔だけを一縷へと振り向かせる。

 一縷を睨み付ける血走った瞳には、二つの四角形を合わせた八芒星の紋様が鈍く輝き、血塗れの口元は怒りに歪んでいた。

 顔の作りだけ見れば、街行く学生が振り返るような美少女と評せるだろう。だが今はその顔に狐の面ではなく憎しみが張り付き、人を拒絶する異形の瞳も加わって白姑の姿を物の怪じみたものにしていた。


 異形の姿にも向けられる憎悪にも臆しはしないが、一縷はあと六メートルほどの距離でその足を止める。

 まだ繋がっている糸から伝わるのは、明らかに瀕死となった少女の鼓動。しかし一縷の勘は言いようのない危険を感じていた。


 そして、その勘は直後に現実のものとなる。

 近づく代わりに繰り出した何本もの糸が、虚空から現れた刀に一閃されて地に落ちた。もし歩みを進めていたら、糸ではなく一縷が両断されていただろう。

 一縷は跳び退しさりながら更に糸を繰り出すが、濡れたように輝く刀身は絡みつこうとする糸を一本残らず弾いてしまった。


「この子を渡す訳にはいきませんわ」


 声と共に束髪シニヨンに白いリボンをつけた狐面の女学生――青姑せいこが虚空に出来た刀傷が広げながら、結界の中へと現れた。

 突然の闖入者ちんにゅうしゃは白姑にとっても予想外だったのか、大きく見開いた目で自分を守るように立つ青姑の背を見上げる。


「なんで、ここに……?」

「わたくし達は、血を分けた姉妹より強い絆があるのですよ。あなたが危ないのなら、来るのは当然の事でしょう?」


 青姑は後ろにいる白姑を一瞥いちべつしてから、一縷へと向き直る。

 だらりと下げた刀は構えてすらいないが、隙らしい隙が見当たらない。例え糸を繰り出したとしても、届く前に手にした刀で打ち払うだろう。

 結界を断ち割った一振りで、白姑に繋げた糸も切れてしまっていた。これでは白姑が何かを仕掛ける時に、その予兆を感じる事も出来ない。

 舌打ちしたい状況だったが、余裕のある表情は崩さないまま一縷は口を開いた。


「一人目がはくこ・・・……三尸さんしの一つを名乗るのなら、君は血姑けつこか青姑かね?」

「ご明察の通りですわ。わたくしはさるお方より、青姑の名を戴いております」


 青姑は狐面越しであっても、どこか嬉しげに答える。

 それが名を当てた一縷への評価なのか、それともさるお方・・・・とやらへの畏敬の表れなのかは分からなかった。

 道教に由来し、人の体内に産まれた時から存在するとされる三匹の虫。それが三尸と呼ばれるものの、本来の形だ。

 白姑は腹に宿り、血姑は足に宿り、青姑は頭に宿るとされている。

 さるお方とやらが何の意図を持って、自らを無情の傀儡と称する少女達に三尸の名を与えたのかは分からない。

 だが三尸は宿った人間に味方するものではなく、逆に欲望をかき立て寿命を縮める存在だ。真っ当な意図があるとは思えない。


「三尸は憑いた人間の寿命を縮めて早死にを望むというが、君らは何に憑いて、何の寿命を縮めようというのかね?」


 青姑は投げかけられた問いに、狐面の中でくすくすと楽しそうに笑う。


「わたくし達が取り憑いているのは……人の世、その全てですわ」

「これはこれは大きく出たね。じゃあ何かね、君らは世界の寿命を縮めようと言う訳か。それは困るな、とても困るなあ」


 京や江戸と言った大都市を呪う、ある一族を根絶やしにするのなら、何度も聞いたことがあるし見た事もある。そのために生じた妖怪すらいるくらいだ。

 しかし企むにしても、ここまで大きな企みは長く生きている一縷でも、そうそう聞いた事は無かった。


「あなた様も人間ではないのでしょう? 人の世が終わろうと、関係無いのではなくて? 人の姿をしているのも、単にそれが過ごしやすいからでは?」


 挑発ではなく、青姑は純粋に疑問のようだった。小首を傾げ、空いた手を狐面の頬に当ててじっと一縷を見つめている。

 場違いではあるが、その仕草が年頃の少女らしいと一縷は感じた。


「僕はね、今の世の中が好きなんだ。黒船が来てから色々と大きく変わったけれど、変わっていくのが人間ならば、人の世とて変わりうつろってゆく物じゃあないかね」


 小さく、狐面の内側でため息が漏れた。

 姿勢こそ変わっていないが、一縷を見つめる視線には隠しもしない落胆と失望の色が混じる。


「あくまでも、今の世をとするのですか。ほんの少し前まで、世界の全てを巻き込んだ争いをしていたような、とてもとても愚かしい人間を是とするのですか」

「戦争がどうのと言えるほど僕は偉かないけれども、戦争を是とする人ばかりじゃあないのは、僕の周り以外にも沢山いるよ。そういう人達がいる限り、僕は人の世を見限る気にはなりそうにないな」


 何人もの友人・知人の姿を思い浮かべた一縷は、最後に武雄の事を考える。

 紆余曲折の末に一縷を慕うに至った少年は、十蔵の言葉ではないが将来有望でこれから何を成していくかが楽しみですらある。

 しかし狐面の少女達が成そうとしている事は、その機会を奪うようなものだ。

 それを看過かんかする事など一縷に出来る訳がなかった。


 青姑は口を開く代わりに、ほんの少しだけ足を開く。そしてだらりと下げていた刀を持ち上げると、その切っ先を一縷へと向けた。

 対する一縷はステッキを構えながら、片足を半歩だけ後ろへ引く。

 それを臆したと思ったのか、血を吐いて咳き込む白姑から一歩だけ離れるように、青姑は足を踏み出した。


「時間がありませんので、一撃にて決着をつけさせて戴きます。早くこの子を連れ帰らねばいけません」

「やれるものならやってみたまえ」


 狐面の内側で青姑が大きく息を吸う。それを察した白姑は這ってでも距離を取ろうとするが、それよりも早く青姑は韻を踏んで言葉を綴る。


「百の怪異よ、我等が前に立ち塞がりし、そのことごとくを打ち砕け」


 青姑の背中から翼のように広がった何かは、白姑のものとは桁違いの勢いと質量を持ち、即座に形を成していく。

 それは鬼、天狗、他さまざまな妖怪へと変じながら、青姑の指差す方向へ雄叫びを上げながら殺到し、地響きのような足音が結界を揺らす。

 迫り来る百鬼夜行に、一縷はステッキを大きく振るう。

 すると渦をえがくように展開する数多の糸が網を成し、糸の端が周囲の建物へと繋がると、江戸通りを封鎖する緻密で巨大な蜘蛛の巣が出来上がる。

 だが百鬼夜行は歩みを止めることも、一瞬の逡巡もすることなく正面から蜘蛛の巣へと突進した。


 蜘蛛の巣は様々な太さの糸が交ぜられ、機関車を止めるほどの強靱さだけではなく、伸縮性や触れただけで骨をも断つ鋭さすら持っていた。

 けれども、先頭の数匹が傷を負っても、糸に絡め取られ歩みが遅くなっても百鬼夜行は止まらない。爪で、牙で、手にした得物で蜘蛛の巣を切り裂き、ちぎりながらも、その後ろにいる一縷へと殺到していく。


 勢いのままに迫り来る百鬼夜行が一縷を捉える寸前、仕掛けておいた糸は巣が破壊される力を逆に利用して、一縷の体を瞬時に空中へと放り投げた。

 一縷は糸を繰り出して電柱の側面に両足で張り付くが、百鬼夜行はそれを追うことなく真っ直ぐに浅草橋を渡って江戸通りを突き進む。

 すぐに結界の壁に激突した百鬼夜行は、凄まじい衝撃で結界を揺らしながら、現れたのと同じ唐突さで消え去ってしまった。


「百鬼夜行を作る、いや喚んだのか? 一体何者かね、君は?」


 一縷は背に冷や汗が伝うのを感じた。ぞくりとする寒気は、晩秋の神田川に落ちたからではないだろう。

 巣を形作る時に、あらかじめ破られた時に備えた糸を編み込んでなければ、一縷も蜘蛛の巣もろとも百鬼夜行に引き裂かれていたかも知れない。

 対する青姑はその姿を見て、まるで子供のように無邪気な笑い声を上げた。


「くふふ、お顔から余裕が消えてましてよ。随分と手の込んだ蜘蛛の巣ではありましたが、わたくしにかかればそこらの物と変わりは――」


 言い終える前に、青姑は刀を両手で構えて虚空を切り上げた。

 途端に小さく火花が散り、青姑が被っていた狐面が額の辺りで音も無く切り落とされた。

 少しだけ露わになった青姑の素顔は、白姑と同じくその瞳に八芒星の光を宿し、先ほどの笑い声もどこへやら、憎々しげに一縷を睨み付けていた。

 だが一縷は青姑の憎悪を受けて、逆に余裕を取り戻して微笑みを返す。


「手が込んでいるだろう? もう少し気づくのが遅れていたら、君が真っ二つになっていたところだ」


 一縷が蜘蛛の巣へ編み込んでいた仕掛けは、自分の身を守るものだけではなかった。極めて細く、それでいて鋭い糸が蜘蛛の巣を破られた時のみ、一拍以上遅れて青姑を襲うように仕込んでいたのだ。

 僅かな風切り音に気づかれたのか寸前で迎え撃たれてしまったが、青姑を警戒させるには十二分な一撃となっていた。


 一縷は電柱に張り付いたまま、大きく足を広げて腰を落とす。それはまさに獲物を前にした蜘蛛が、飛びかかるために力を蓄える姿だ。

 白姑の体が限界に近づいてきたのか、それとも百鬼夜行が激突した衝撃が許容量を超えていたのか、不気味な軋みをあげながら結界がひび割れていく。

 常人に見られずに済ませられる時間が終わっていく中、血にむせながら白姑は声を上げる。


「せ、青姑。あいつは、今……殺さねば、あのお方に……」

「その前にあなたが死んでは、あのお方が悲しむわ――今は退きます。灰河童はいがっぱ達なら、それくらいの傷はすぐに治せるでしょう」


 歪み、ひび割れていく結界の中、青姑は傷ついた白姑を抱え上げると、刀を袖の中に仕舞った。


不躾ぶしつけな訪問ではありましたが、また日を改めてご挨拶に伺いますわ」

「二晩続けて巣から逃がしたのでは、僕の沽券こけんに関わるな」


 電柱を這うように足元から糸を繰り出していく一縷に、青姑は目を細めた。


「正直言いまして、わたくし達はあなた様をなめてかかっておりました。それにあなた様のようなお方がいらっしゃるのでしたら、あのお方のお耳に入れねばなりません。その上で、どうするかを決めた上で、お伺いしようかと思います……見ればあなた様は蜘蛛の眷属。空を飛ぶことは出来ませんでしょう?」


 すぅ、と青姑は開いた手をひび割れた夜空へと向けた。


「来なさい」


 言葉と同時に、痛んでいた結界が大きく割れて外の星空が広がる。

 そこから飛び込んできた車ほどもある火の玉は、一縷と青姑の間へ割って入った。

 轟々と音を立てて燃える炎はすぐに消え去ると、そこにはまるで差し渡し三メートルはある丼を二つ合わせたような、奇妙な球体が浮いていた。表面は何かの金属で出来ているようだが、そこに彫られた文字は日本語でも英語でもなく、一縷が今まで見たことのないものだった。


「西欧辺りの飛行機にしちゃあ、不思議な形をしているな。一体何だね、その玩具は?」

「ふふ、とても珍しいでしょう。虚舟うつろぶねというものですわ――さようなら、名も知らぬ美しいお方」


 歯車が噛み合うような軋みを上げながら丼が上下に分かれると、二人の少女は素早く中へと滑り込んだ。垣間見えた中身は、まるで銀色に磨かれた機関車の運転席のように、様々な取っ手や計器のようなものが並んでいた。

 文明開化で様々な物を見てきた一縷も、それらとは全く異質な何かに呆気にとられてしまう。だが閉じていく隙間から手を振る青姑の姿で我に返ると、ステッキを振って咄嗟に糸を放った。

 しかし糸は表面から吹き上がった炎に焼かれ、表面に触れることすら出来ない。


 舌打ちをしながら空を覆うように蜘蛛の巣を作ろうとするが、それよりも早く炎に包まれた球体は、轟音と共に宙へと舞い上がる。

 そのまま逆さまの稲光のように空高く駆け上がると、ジグザグの軌跡を夜空に残しながら、南東の方角へと消え去っていった。

 崩れていく結界の中、地面へと降り立った一縷は飛び去っていった方角を見据えながら、ぎりっと奥歯を軋らせる。


「ふん……無情の傀儡、か。ただの辻斬りかと思えば、中々に大事になってきたじゃあないか」


 完全に結界が壊れ、日常の中に突如出現したずぶ濡れの一縷を、周囲の通行人が怪訝そうに見やる。

 しかし当の一縷はそんな視線も気づかずに、虚舟が消えていった空を見つめていた。




 来客もない浄見探偵事務所の中では、所長である一縷が長椅子に体を預けながら一冊の古びた和綴じの本に目を通していた。

 書名は「兎園小説」。曲亭馬琴を初めとした好事家達が、諸国の奇談珍説を持ち寄って編集した江戸時代の随筆だ。

 神保町に近い立地もあり、一縷は古書店のあるじ達とは顔見知りだ。例え休日であっても、頼み込めば資料となる古書を譲って貰えるくらいの間柄になっていた。

 本来こうした資料集めは武雄が得意とすることだが、彼はまだ祖父の家での孝行に精を出しているはずだ。たった数冊の本のために呼び戻すのは、人使いの荒い一縷と言えども気が引けた。


「……こんな乗り物、どこで手に入れたんだか」


 青姑達が使った虚舟と資料にある形状には幾つもの差異がある。ただしおおよその形状では一致しているし、名乗った以上あれは虚舟の一種なのだろう。

 しかし長く生きた絡新婦の変化である一縷が知らないような物を、青姑達がどのように手に入れたのか疑問が残る。

 器物の変化――付喪神つくもがみの類ではないし、虚舟と縁のある妖怪の話も聞いたことがない。


 それに気になるのが、白姑が使っていた武器だ。

 大戦時に作られた武器が大陸から入ってくるのはまだ分かる。だが拳銃ならまだしも、軍用の武器をああも使えるとなると事情が違ってくる。

 大陸、しかも欧州ヨーロッパの方に太いコネクションがないと、手に入れる事も難しいだろう。


 殆ど寝そべったまま本を片手に思案にふけっていた一縷は、肌に伝わる糸の感触にゆっくりと身を起こす。

 洋卓テーブルに詰んだ本の山の上に、和綴じの本を重ねると一縷は玄関に視線をやった。

 一縷が階段に張った糸に伝わる振動は、小柄な人間のものだ。普段であれば武雄であろうが、重さと歩幅が違う。


 玄関扉に設えられた、ステンドグラス調のガラス越しに見える影に、一縷は頬を歪ませ苦笑する。

 間髪入れず鳴った呼び鈴に答えるように指を動かすと、真鍮のドアノブがひとりでに回り、扉が開いた。

 扉の向こうにいた少女は、少しばかり目を丸くしたものの、一縷を見て得心したのか礼儀正しく頭を下げると、束髪シニヨンに乗った白いリボンがふわりと揺れる。

 すみれ色の花をあしらった絣の着物に海老茶の女袴。肩から提げた小ぶりの鞄には小さな根付が揺れている。


「本当に来るとは思わなかったな」

「ごきげんよう、探偵さん。わたくし、言った事は守る女でしてよ?」


 微笑み、目を細めた青姑の瞳に、じわりと滲むように八芒星が赤く輝いた。

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