第10話 現れしもの

 十蔵じゅうぞうは荒事を好まない。

 それは生まれからくる妖怪としての向き不向きよりも、多分に性格的なものだ。

 人は化かし、食べ物は盗み、猟師や猟犬からは一目散に逃げる。これを百年以上続けてきた十蔵は、何かあれば化かして逃げる事を最優先するようになっていた。


 逃げる事に慣れた十蔵の体は、血姑けつこの振るう薙刀なぎなたの鋭い突きや払いをすんでの所で躱していく。

 あまりに大きく避けて、逆に隙を作る事がないようにしながら、その間合いの内に捉えられぬように動く。


「最近の女学生は、ちょっとばかりお転婆てんばが過ぎるんじゃないかなぁ。刃引きもしていないのに、そんなに振り回すもんじゃ――」


 容易に捉えられぬと悟った血姑は、虚実を混ぜた一振りで足元を払い、それが避けられると続けて逆袈裟に切り上げる。

 体を反らすようにして続けざまの攻撃を避けた十蔵だが、動きについてこれなかった中折れ帽は両断されて足元に落ちた。


「あーあ。銀座で買ったお気に入りだったんですがねぇ」


 僅かに視線を外して、二つになった中折れ帽を見やる十蔵に対し、苛立ちを隠さない血姑はわざと地に落ちた中折れ帽を踏みにじった。


「その口、閉じてくださらないかしら。気が散ります」

「こっちとしちゃあ、怖くて気を紛らわすのに何か喋ってないと――あ、そこ。危ないですぜ」


 途端、血姑が長靴ブーツで踏んでいた中折れ帽が、渦巻くように燃え上がった。

 元手はかかるが手軽に落とせて、それでいて不自然でない物に罠を仕込む。ただ無策で逃げるほど十蔵は素直な性格ではない。

 だが仕掛けた罠が通じるかどうかは別の話だ。

 はかまの裾は焦げたものの、間一髪で炎の直撃をかわした血姑は薙刀を大きく振るって炎の柱を切り裂いた。


「わざと警告しましたね? 何故?」


 十蔵の言葉が無ければ、血姑はその半身を炎に包まれていただろう。今まさに自分の喉笛を狙っている相手に塩を送るなど、信じられない愚行だ。

 しかし十蔵は片笑みを浮かべながら小さく首を横に振る。その視線が一かけの灰となった中折れ帽から、ついと横へ――典治てんじ達の方へ動く。


「いやいや、そんなつもりは露程つゆほども。お嬢ちゃんが上手く避けてるだけですぜ。いやぁ惜しかった。嫁入り前の娘さんに怪我ぁさすのは本意じゃないが、ちょいと走れなくなってでもくれたら楽だったんですがねぇ」

ごとを……随分と余裕がありますわね」


 血姑は狐面の内側で十蔵の視線を追う。

 その先には典治に襲いかかる通り悪魔の姿。しかし群がる狐火を避けながらでは、取り憑いた田山の体に染みついた技の冴えが発揮出来ていない。


 十蔵は意識の何割かを、典治を守るべく通り悪魔へと割り振っている。

 上の空とまではいかないにせよ、目の前の血姑に集中してすらいない。それどころか軽口を叩く余裕すら見せながら薙刀を避けている。

 その事実が血姑の矜持きょうじを逆なでした。


巫山戯ふざけるのも大概たいがいになさってくださいませ」


 怒りを孕んだ声とは裏腹に、その気配は静かにいでいく。

 目の前にいるのにまるでいなくなったと錯覚しそうなほど、血姑の気配も殺気も無くなっていく。

 血姑の得意とする隠形おんぎょうの術、その真価の一つは例え眼前にいても気取られぬ域にまで己の気配を消し去ってしまう。

 更に気配を消したままでも薙刀の腕や体捌たいさばきの妙は変わらない。


 十蔵は口の中で小さく舌打ちすると、典治に向けていた意識を眼前の血姑へと集中させる。

 本気で相対せねば、それこそ膾切りにされてしまう。

 十蔵は久方ぶりに時間稼ぎではなく、相手を倒すため指先に狐火を灯した。




 典治は大振りに振るわれる白刃から大きく身を躱しながら、冷静に相手を観察する。

 十蔵が繰り出す狐火が辻斬り――通り悪魔の動きを牽制けんせいしているが、それにしても先日の夜からすれば動きが大雑把になっていた。

 通り悪魔は典治に襲いかかりながら影絵を思わせる黒い姿へと変じているが、刀を振るう右腕だけは生身の、赤銅色の肌を持つ鬼の腕のままだ。

 その腕が、先日切り落とされた自分のものであるのは一目で分かる。


「返して貰うぞっ!」


 典治は一声吼えながら、半ば鬼の姿となって左腕を大きく振るう。

 唸る豪腕は通り悪魔に躱されるが、やはり動きが鈍いのか先の夜よりも大きく身を退いていた。そこを逃すことなく典治は間合いをつめる。

 まだ傷は治りきっておらず、足を踏み込んでも腕を振るっても傷が開き包帯に血が滲む。

 いくら鬼と言えども、たった数日で刀傷が完治することはない。しかも通り悪魔の振るう刀は何かしらの呪いがかかっているのか、切れ味が良いだけでなく傷の治りまで遅くなっている。


 しかし今の典治に退くという選択肢はない。理由は分からないが相手の動きが鈍っている今が、腕を取り返す絶好の機会だ。

 全身に力を込めて開きかけた傷を筋肉で塞ぎながら、牽制を交えて通り悪魔に掴みかかる。

 先日の夜であれば、片腕を失った典治には捉えられなかっただろう。

 だが、獣じみた唸りをあげる通り悪魔は、取り憑いた田山の腕前を半分も生かし切れていない。


 そこで突然、通り悪魔にまとわりついていた狐火が全て消えた。

 十蔵が典治達に意識を割り振る余裕が無くなったからだが、向かい合った二人に分かるのはその結果のみ。

 それを勝機と思った通り悪魔は右腕を大きく引くと、左手を柄に添えながら鋭い諸手平突きを繰り出した。

 狙いは鳩尾。

 例え避けられても鬼の力があれば、横薙ぎに胴体を両断できる。

 それを可能にする鋭さが、手にした刀にはあった。


 典治は通り悪魔の予想通り、半身はんみになって切っ先を躱す。

 大技が見切られるのは覚悟の上だ。

 だが横薙ぎに振ろうとした腕は、手首を返した所で止まる。

 典治は切っ先を躱しながら左手で通り悪魔の右手を捕まえると、手に持った刀の柄ごと握り潰さんばかりに力を込めた。


 万力じみた握力に、取り憑いている通り悪魔の青白い顔は苦痛に歪んだ。

 右腕だけを鬼の腕にすげ替えた通り悪魔では、力比べは分が悪すぎる。即座に柄から左手を離した通り悪魔は、懐に忍ばせた回転式拳銃リボルバーを抜き撃ちした。

 三発の弾丸は典治の腹に命中したが、力を込めた鬼の筋肉は内臓に達する前に食い止める。


「そんな玩具が効くか!」


 典治は体を捻ると左腕だけで通り悪魔を地面へと叩きつけた。

 一回二回三回四回と続けざまに叩きつけられ、掴まれたままの腕は肩が外れてねじ曲がる。接いだばかりの鬼の腕も半ばちぎれかけ、受け身も取れずに背中や腰を打ちつけた通り悪魔は大きく血を吐いた。


「この、化け物……がぁ」

「腕っ節で人間が鬼に勝てるかよ」


 通り悪魔の体を覆っていた黒い影が消え失せ、顔に張り付いた青白い光も揺らいで薄くなっていく。

 呻きながら憎々しげに典治の顔を睨んでいるのは、通り悪魔に憑かれた男、田山であった。

 多少の加減はあっても、鬼の腕力で地面に何度も叩きつけられたのだ。口を開けるだけたいした物だが、幾ら鍛えていても動く事は出来ないだろう。

 大きく息をついた典治は、まだ田山の右腕となっている自分の腕を取り返すべく、握ったままの手に再び力を込める。


『ならばお前の腕っ節、我が貰った』


 途端、目も眩むばかりの青白い光が、典治の眼の中で瞬いた。

 まぶたの裏で青白く光る老人の顔がにたりと笑う。

 典治は掴んでいた手を離して顔を覆い、牙を食いしばりながら膝を突いた。


「てん……めぇ! 何しやがる!」


 食いしばった牙の間から呻く。

 だが体の中を這い回るような不気味な感触は、次第に強く、骨の髄まで染みこんでくる。


「我は憑き物通り者。例え鬼であろうと、我が力の及ぶ所よ」


 典治の口を借りて通り悪魔が言葉をつづる。

 顔を覆った手の下で、牙の生えた口がにたりと笑った。

 その笑みは紛れもなく通り悪魔のものであった。




 十蔵の繰り出す狐火は右から左から血姑に襲いかかる。

 血姑の腕を持ってすれば片端から狐火を打ち払うは容易いが、打ち払った狐火が至近で炸裂しては避けきれるものではない。

 灰河童の手で作られた薙刀は極めて丈夫であるが、狐火は威力は存外に高い。打ち払って刃毀れしない保証はどこにもなかった。


 二十を超える拳大の狐火は血姑を取り囲み、薙刀を振るう隙を狙っているが、着物の裾に掠りすらしない。

 それは血姑の動きが速いのもあるが、何より殺気も気配も消えたまま攻め続けている点が大きい。

 野生動物としての知覚と人と変わらぬ知恵を得た十蔵でも、血姑の動きが捉えきれない。それほどまでに血姑の使う隠形の術は脅威であった。


「こいつぁ、ちょいと厄介――おっと」


 胸元を掠った薙刀が襟締ネクタイを両断する。

 普段なら口を突いて出る軽口も、狐火と薙刀の応酬おうしゅうする中ではなりを潜める。

 少しずつ血姑の動きに慣れてはきているが、それは相手も同じ事だ。薙刀の切っ先は一手ごとに避けるのが難しくなっている。

 体格や匂いからすれば血姑は武雄たけおと同学年くらいだろう。

 怪我をさせるのは忍びないが、もう僅かな逡巡しゅんじゅんも命取りになる所まで来てしまった。

 十蔵は眉間に皺を寄せながら狐火を操り、自分と血姑を中心に渦を巻いて飛び回らせる。

 気配で動きを察する事は出来ずとも、狐面から覗いた赤く光る眼は薙刀を繰り出しながらも周囲の狐火を警戒していた。


「死なんでくださいよ」


 低い呟きと共に狐火はその数を五倍に増やした。百を超える狐火に囲まれた二人は、影すら出来ず煌々と照らされる。

 軽く開いていた十蔵の手が強く握られると、全ての狐火が檻の中心である二人へ向けて殺到する。

 逃げられぬと悟った血姑は、一足飛びに間合いを詰める。狐火を操る十蔵の近くならば、手傷を負うにしても最小限で済むと判断した。


 しかし十蔵は目を細めながら、後ろへ――狐火の作る壁へと跳び退った。

 狐火は十蔵を避けることなく当たって爆ぜることもなく、まるで幻のように十蔵の体をすり抜ける。

 そして狐火の檻に残るは血姑一人。

 例え一つ一つの威力は弱くとも、百を超える数が同時に爆ぜればそれこそ桁違いの威力となる。


 狐火の檻から抜け出た十蔵の前で、檻は一塊の炎となって炸裂した。

 だが家一つ分もある爆炎も吹きすさぶ爆風も、十蔵を傷つける事はない。精々スーツの裾をはためかせるだけだ。

 十蔵の狐火は自分に徒なす者だけを焼き焦がす。決して自分自身を傷つける事はない、使い勝手の良い術だ。

 目を細めて消えゆく炎を見やる十蔵の背後に、ゆらりと近づく気配が一つ。


「ああ、典治さん。そっちも片付いて――」


 漂ってきた匂いに、言いかけた言葉が止まる。

 振りかえる間もあらばこそ、閃く一刀が十蔵の首を斬り飛ばした。鈍い音を立てて首が地面に落ち、それを追うように棒立ちの体がどう、と倒れる。


「やはり技量どうこうはえ物に過ぎぬ。人間に鬼の腕を接いだのとは訳が違うのう」


 その顔に青白く光る老人じみた顔を重ねた典治は、ぞろりとした牙を剥きだして笑うと足元に転がる十蔵の体と首を見下ろした。

 田山から奪い返した右腕には、濡れたように輝く刀が握られている。

 通り悪魔は接いだばかりの腕を二三度振って調子を試すと、消えていく狐火に目をやった。


「死んでなぞおらんのだろう?」


 通り悪魔の問いかけに、狐火の残滓が内側から散り散りにかき消される。

 袖や裾は焼け焦げているが、殆ど無傷の血姑は構えていた薙刀を下ろすと狐面のすすを手で拭った。


「一歩、いえ半歩間違えれば死ぬ所でしたわ」

「惜しい惜しい――ああ、こいつの事だぞ」


 思わず漏れた本音の行き先をずらすように、通り悪魔は刀の切っ先で十蔵の頭を指した。

 血姑は通り悪魔の不遜ふそんな態度に口の中で舌打ちしながら、それでも小さく首肯しゅこうする。


 確かに十蔵は血姑を今一歩のところまで追い詰めた。これが血姑ではなく白姑はくこ青姑せいこであったなら、身に付けた術による防御を貫き、死にはしないまでも酷い手傷を負っていただろう。

 しかし隠形の術に長けた血姑は、自らを生身のまま此岸しがんから隠して彼岸ひがんへとずらす事までやってのける。

 十蔵の狐火は術者が妖怪であっても、この世にだけ存在する術だ。この世の外側にずれた血姑を焼く事は出来ない。

 彼岸へずらすのが遅れた袖や裾は炭になっているが、そんなものは着替えれば良いだけだ。


「鬼を誅する事は出来なんだが、こいつを誅すれば数はあうのであろう?」

「ええ、その刀で殺せばいい。そこが何よりも肝心なところよ」


 通り悪魔は典治の声で問いかけると、返ってきた答えに深く頷いた。


「殺せれば誰でも、いやさ何でもいいのだな。妖怪であれば。それがこの刀を使う所以……そろそろ我等にも本来の目的を話して良い頃合いではないか?」


 血姑は狐面の奥で通り悪魔を睨み付ける。

 これまでは目につけば誰であっても殺そうとする通り悪魔に、血姑達は舞台を整え獲物を宛がってきた。

 獲物を妖怪としてからは、目的以外の相手を殺させないよう特に注意していた。

 妖怪以外の存在を【刀】で屠るのは極力避けねばならない――施された幾重もの術に悪影響があるからだ。

 敬愛するあのお方に申しつかった事を、血姑達三人の少女は愚直なまでに守っている。

 それを通り悪魔のような無頼の輩に知られるのは、血姑にとって極めて不愉快な話であった。


「あの人間に話していたのは、うわべだけであろう? 我とてこの刀を振るえるのであれば、そちらの企みに乗るのもやぶさかではない」


 下卑げびた調子で続ける通り悪魔は、鬼の体を得たことで明らかに増長ぞうちょうしていた。

 血姑は視線を動かして田山を見やると、瞳に宿った八芒星を赤く輝かせる。辛うじて息はあるようだが、長くはないだろう事は一目で分かる。

 通り悪魔が刀でとどめを刺していないのは運が良かった。


「黙りなさい。お前など私達の手駒に過ぎない。過ぎた考えを持つというのなら、それを捨て置くほど私は気が長くありません。さあ刀を返しなさい」


 だが通り悪魔は牙を剥きだして笑いながら僅かに首を傾げる。

 癇にさわる態度に血姑の携えた薙刀の切っ先が少し上がり――不意に、声変わりしていないような高い声が結界の中に響いた。


「伊崎さん。いつまでそうしているのですか? もうすぐ先生もいらっしゃいますよ」

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