後編
オレは校舎裏で壁に寄りかかり、空を見上げ、タバコの煙を吐き出した。
吸い込まれるような青い空に、薄い煙が霧のように漂う。
そこを、あの日あの時、教室の窓から見たような飛行機雲が、横一文字に走っていた。
春子の手で黒板に書かれた、最後の言葉が頭をよぎる。『スペル、間違っているよ』の文字から、少し離れた所に書かれていた、その言葉。
それは、他の誰でもない、オレだけに見せた、春子の心の声だった。
『もし、戦争がない世の中だったら、ワタシと夏男、二人一緒の未来はあったのかな?』
『もし』なんて言葉は、何の慰めにもならない。現実に、至る所で戦争は起きている。けど……けどオレは、そんな幻のような未来を思い浮かべもした。
「よう、不良教師」
オレは上を向いたまま、目だけを動かす。
そこには、ツーブロックの長い髪を後ろで束ねた
「何だ? あの話の後で、お礼参りか?」
「ばっ、ちげぇよ!」
冬弥は慌ててかぶりを振る。秋は「そうなの?」とでも言いたそうに、冬弥の顔を覗き込んだ。冬弥は秋の小さな頭に手を添えて、赤い髪にクシャッと指を立てた。
「学校、辞めんだって?」
ああ、何だ。そんな話まで生徒に広がっていたのか。
オレはフンッと鼻を鳴らし、校舎の壁に添って腰をおろす。
「手に負えない悪ガキどもも卒業したしな。いい頃合いだろ?」
冬弥は眉をひそめ、訝し気にオレを見つめる。
まったく、何て顔してんだ? オレがここを去ろうと残ろうと、卒業した冬弥には何の関係もあるまい。ましてや、散々やりあってきたんだ。憎まれこそすれ、そんな目で見られるなんて思ってもみなかった。
「まっ、取りあえず春子の故郷にでも行くかな?」
前々から決めていた。最終的にやるべきことを。
オレはタバコをコンクリートに押しつけ立ち上がる。
秋が幼さの残る顔をニヤッと歪め、ピョコンとオレの隣に跳ね寄り、細い肘を押しつける。
「何、何~? ナッちゃん、春子さんに会いに行くの? イヤだ~、ラブラブじゃん。そのまま結婚とか……」
「……だよ」
「えっ?」
マネキンのように固まり、こぼれ落ちそうなくらい目を剥く秋。
オレは革の上着のポケットからタバコを取り出し、茶色く細いそれを無造作にくわえる。そして、安っぽい緑色のライターで火をつけた。
ジジッと微かな音を立てて、タバコの先に火が灯る。
「死んだよ」
肺いっぱいにタバコの煙を吸い込み、噛み締めるように息を止める。そして、それをゆっくりと吐き出した。
オレの口から吐き出された薄い煙は、温かくなりつつある、澄んだ春の空気に溶けていった。
「デカい鷲の国の、民間機誤爆さ。春子は帰れなかったんだよ」
秋は小さく首を振りながら後ずさりし、冬弥の腕にきつくしがみつく。そして、申し訳なさそうにオレを見つめた。
タバコを足元に落とし、踏みつけ足をひねるオレ。
冬弥は目を吊り上げオレに近寄り、空いた手でオレの胸倉を掴む。
「じゃぁ、何で行くんだ? まだ戦争は終わってないんだろ? 惚れた女の後追いか? 馬鹿馬鹿しい。そんなことして……」
「違う!」
ビクッと肩を弾ませる冬弥。秋は冬弥の背に隠れ、その腕に顔を押しつけた。
「誰かの助けを必要としている人たちが、山のようにいる。必要なのは何だ? 救援物資? そんなものは、その日を生き延びるためだけの、点滴にもならない」
オレに気圧されて、胸倉を掴んだ手を離し、一歩後ずさりする冬弥。
「そんな場所だからこそ、学ばなきゃならない。人を慈しみ、人を愛し、自分を守るプライドを育てるために。日本は戦後、そうやって成長してきた」
ダラリと垂らした腕の先、冬弥はきつく拳を握りしめていた。
「オレは世界中の黒板に、でっかく『Love & Peace』と書きに行く!」
冬弥は目を丸くして、オレの顔を見つめる。そして、短く鼻息をもらすと、体をくの字に折り曲げ腹を抱えた。
「はっ、はは……あははははは! 思い出した! 入学式の後、初めて顔を合わせた連中と一触即発だった時、ズカズカと教室に入って来て、自分の名前も書かず、黒板いっぱいに『Love & Peace』って書いたバカがいたわ」
オレだ。バカとは何事だ?
でも、覚えていたんだな。ちょっと、教師をやってよかったと思うわ。
オレはタバコの吸い殻を拾い上げ、まだ吸っていないタバコが入ったボックスにそれを入れる。そして、二人に背を向けた。
「打ち上げ、楽しんでこい。オレは準備があるから行けないけどな」
後ろ向きに、頭の上でヒラヒラと手を振る。
「夏男先生!」
なっ、何だ急に!? そんな風に呼ばれたことなんか一度もないぞ?
オレは眉間に皺を寄せて、恐るおそる振り返る。
横に下ろした手の、指の先まで真っ直ぐのばし、直立不動の姿勢でオレを見据える冬弥。その横で、冬弥同様、短いスカートからのびるしなやかな足をピシッと揃え、真っ直ぐ立つ秋。
「三年間、ありがとうございました!」
二人揃って、深く、深く、頭をさげる。
馬鹿……ヤメろよ……目から汗が出てくるだろ?
オレは顔を隠すように振り返り、後ろの二人に向かって大きく手を振った。
「ああ、またな」
(Fin)
明日の黒板 えーきち @rockers_eikichi
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