中編

 喧嘩も……ちょっと……まぁ、たまには……バレない程度に片づけ、春子に教えてもらいながら勉強したおかげで、大学にも合格した。まぁ、大したところじゃねぇけどな。


 オレは卒業式の後、誰もいなくなった教室に春子を呼び出した。

 ひっそりとした教室を見て、ちょっとセンチな気分になったっけ。

 寄せ書きのように、みんなの言葉が書きなぐられた黒板の真ん中に、「春子、大好きだ」って、オレの字ででっかく書かれたままだった。下に小さく、春子の字で「ごめんなさい」と書かれていたのは、ご愛敬ってことで。


 いよいよ、春子に告る潮時だ。


 半分はつき合っているようなもんだったからな、オレたちは。春子もオレのことを好きに違いない。なんて、軽い気持ちだった。

 それでも緊張したのを覚えている。今までの女で、そんなことなかったのにな。

 結果は「ごめんなさい」だ。

 黒板に書かれた言葉と同じ。



 何だ? 静かだな? ちゃかしてもいいんだぞ?



 まさか本当に断られるなんて思ってもみなかった。

 当然、聞いたさ。情けない話だけどな。納得いかなかったんだよ。

 春子は何て言ったと思う? 「故郷に帰る」だ。


 青天の霹靂だった。そんな話は初めて聞いた。春子も日本の大学に進学するものだと信じて疑わなかった。


 だって、そうだろ?

 春子の暮らしていた国は、未だ銃弾が飛び交っているんだ。戦争は終わってないんだ。

 喧嘩レベルの話じゃない。鉄パイプなんて易しいもんだ。怪我で済む保証なんてどこにもない。


 オレは必死で止めた。「ヤメろ! 帰る必要なんてない! 日本で平和に暮らせばいい」ってな。

 春子はオレの襟首を細い両手で握りしめ、小さな頭をオレの胸に押しつけ泣き叫んだ。

 その時の、春子の言葉は、きっと死ぬまで忘れない。忘れられっこない。



「夏男に何がわかるの? 銃声と爆発音と、立ち込める砂煙で叩き起こされて、夜もろくに眠れない。食べ物もない。飲み物もない。火薬の臭いと死臭で鼻がマヒする中、半分死んだような状態で、助け合いながら逃げ回ってきた仲間たちが、まだ故郷にいるの。ワタシの代わりに死んだ子たちだって山のようにいるわ。ワタシはみんなを助けたくて勉強をした。ワタシはあの子たちを放ってなんておけない。みんな、親を亡くしたワタシの家族なの。夏男にはわからない。日本で暮らしてきた人にはわからない。暴力なんて、戦争なんて、この世からなくなればいいのに!」



 春子はオレの体に手を這わせながら、大きく泣き崩れた。

 何か言い返せると思うか? オレは一言も口にできなかった。


 その後のことは、よく覚えていない。ただ、春子がいなくなることと、春子の心の叫びが、頭の中でグルグルとまわっていた。

 乱暴に自分の荷物をかき集め、泣きながらオレの前を走り去る春子を、追うことなんてできなかったんだ。


 その夜の、親睦会という名の打ち上げに、春子の姿はなかった。オレはいても立ってもいられなくなり、会場を飛び出し学校へ向かった。


 何で学校だったんだろうな? 情けない話、春子のアパートに行って、面と向かって彼女にかける言葉が見つからなかったんだと思う。


 オレは学校に忍び込んで、真っ直ぐ自分の教室へ向かった。スマホのライトで足元を照らしながら。

 教室に入るなりオレは、黒板をスマホで照らして、自分の書いた文字を消した。それだけで、黒板の三分の一が深緑になっていた。

 そしてチョークを握りしめ、大きく、チョークが崩れるくらい力強く書きなぐった。



 『Love & Paece』と。



 戦争なんてなければ、春子はこんなにも苦しむことはなかった。泣くことだってなかった。

 オレの前からいなくなってもいい。春子さえ笑っていられるならば。

 ただ、それだけが願いだった。


 その日の夢の中、顔をくしゃくしゃに歪めて泣く、春子が出てきた気がした。

 オレは不意に飛び起きた。

 忘れ物だ。オレは学校に忘れてきた。

 朝飯……いや、昼飯も食わずにオレは全速力で学校へ走った。

 オレの忘れ物――――春子との思い出。


 このままだと、春子の思い出は、彼女の泣き顔になっちまう。

 オレは学校に忍び込み、校内に散らばる春子との思い出を拾い集めた。

 校庭、校舎裏、下駄箱前……総て、残らず、反芻するように。

 そしてオレは、最後に教室へ入る。

 

 一瞬、春子の泣き顔が目の裏に浮かびもしたが、オレは決して目をそらさなかった。

 それ以上の大切な思い出が、教室に詰まっていたからな。


 そして、ふと気づく。

 オレが黒板に書いた『Love & Paece』の文字の下、春子が『ごめんなさい』と書いてあった場所に、違う言葉が書かれていることに。

 そこには『ありがとう』と書かれていた。その下に『スペル、間違っているよ』ってな。


 あと……(うん……まぁ、これはいいか)いや、いい。


 オレは笑いながら、両目いっぱいにたまった涙をぬぐい。そして窓を開けた。

 吹き込む風はまだ冷たかったな。

 空を二分するように走る飛行機雲が、オレの視界の先へ、緩やかな弧を描いて遠のいていった。

 そののびていく飛行機雲の先に、オレは春子の姿を見ていたのかもしれない。



 お前ら、こんなに静かに人の話、聞けるんだな? 驚いたぞ? 最初で最後じゃないか? おいっ、何だ? 泣いてる奴いるのか? ヤメヤメ! お前らの涙なんか見たくねぇから。



 いいか? お前たちはこの先、何十年も社会の中を生きていく。

 理不尽なことだってあるかもしれない。カッとなることもあるかもしれない。

 だがな、暴力なんかじゃ解決できないからな?

 殴り、殴られ、堂々巡り、そして行き着く先が戦争だ。どこまでもくだらねぇ戦争だ。

 お前たちは我慢できる。オレの教え子だからな。

 拳を握るな。手を開け。誰かがその手を必要としている。

 お前らが困った時は、誰かが手を差しのべてくれる。


 誰一人欠けることなく、今日のこの日を迎えたんだ。

 胸を張れ。


 オレからは以上だ!


 卒業、おめでとう!

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