明日の黒板

えーきち

前編

 いいか? この話はネタだと思ってもらって一向に構わない。ただ、お前たちに話しておきたいと思うオレの自己満足でしかない。


 ほら、そこ! うるさい!

 浮かれる気持ちもわからんでもないが、最後くらい静かに話を聞け。


 あれはオレが、お前たちと同じ高校生だったころ、一人の女の子がオレのクラスに転入してきた。

 いや、あれは転入と言っていいのかどうか、説明するのも難しいんだが、とにかく女の子は春子といった。



 春子・ラファト・ハディド。

 クルド人と日本人のハーフだ。



 と言ったところで、お前らはクルド人なんて知らねぇだろうがな。

 まぁオレも、当時は……何? 知ってる? ほぉ、よく知ってるな、そんな昔のマンガ。って、馬鹿か、お前は? それはドラゴンボールだ。


 あー、うるさいうるさい。まぁ、聞け。


 春子はクラスのどの女よりも綺麗だった。クラスどころじゃねぇな。学校一と言っても過言じゃなかった。

 髪は所々、メッシュのように金髪が入った茶色。浅黒くエキゾチックな肌で彫りが深く、吸い込まれるような、二重の大きな黒い瞳が印象的な女の子だった。

 教師の隣で、真っ直ぐオレたちを見つめる春子。転入初日にも関わらず、ニコリとも笑わない春子に、オレは一瞬で心を持ってかれた。


 だー!! 話を続けられねぇだろうが! はぁ? やっちゃったかって? セクハラ親父か、お前は?

 静かにしろ! しーずーかーにー!

 教師権限で、卒業取り消すぞ!



 そう、黙って聞けや。



 オレもあの頃は、ヤンチャだったからな。お前らほどじゃねぇけど。

 ん? 今でもだって? あれは、お前らが喧嘩するから、ちょっと止めに入っただけだろ? そんな目で見るなよ。わかった、悪かったよ、ホント。

 まぁ、そんな生活をしてきたオレだ。

 女なんて、ちょっと優しい顔をすれば、すぐにものにできると思っていたさ。

 けど、そんなに簡単に落ちる女じゃなかったんだ、春子は。


 春子はとにかく真面目だった。誰の誘いにも乗らずに、いつも一人勉強をしていた。

 誰ともしゃべらなかった訳じゃなかったが、笑っている顔は見たことがなかった。

 何かを抱え込むように勉強する春子の形相は鬼気迫っていた。

 オレはくる日もくる日も、春子に声をかけ続けた。

 梨のつぶてだったけどな。


 そんなある日、オレは他校のチンピラたちに絡まれている春子を見かけた。

 細くしなやかな春子の腕を、捩じ上げるように握りしめ、力任せに引き寄せる一人のチンピラ。

 春子が小さな悲鳴を上げた。

 次の瞬間、オレはチンピラを殴り倒していた。


 春子が金切り声を上げて止めるまで、倒れたチンピラに馬乗りになったオレは、固く握りしめた拳を執拗に振り下ろしていた。

 他のチンピラたちは逃げちまってたな。

 春子の声で我に返ったオレは、転がったチンピラを一度蹴り上げ、彼女に寄った。

 今でも忘れねぇよ。

 大きな瞳いっぱいに涙をためて、キツくオレを睨みつけながら言った、春子の言葉を。



「最低! 暴力で何でも解決できると思わないで!」だ。



 面食らったね。

 じゃぁ、どうしろって言うんだ? 「どうかヤメてください」と土下座でもすればよかったのか? あんな奴らがそれで引き下がる訳ないだろ?

「何で最初から無理だと決めつけるの?」と、春子はそれでもオレの行動を認めようとはしなかった。

 正論だ。オレは最初から、そんなことは通用しないと思っていた。が、はいそうですかと、納得できもしなかった。


 ただな、惚れた女を泣かせた自分が許せなくてな。

 春子の前で誓ったんだ。

 もう、暴力は振るわないと。


 はいっ、そこうるさい! お前らにやっていたのは暴力じゃなく、愛のムチだ。はぁ? 暴力教師~? テメェ、口きけなくしてやろうか? おっと、これも愛のムチ、愛のムチ。


 オレは喧嘩をやめ、金魚のフンのように春子についてまわったな。

 春子も嫌がってはいなかった……と思う。勉強も教えてもらったし。

 春子は国語が得意じゃなかったが、英語はペラペラだった。よくスペル間違いを指摘されたよ。

 学校帰りも一緒だった。公園で日が暮れるまで話したり、たまにバーガー屋なんかにも行ったな。

 春子はバーガーを口にして、目を剥いていたっけ。

 今まで食べたことがなかったんだとよ。一体、どんな暮らしをしてたんだって?


 ははは……ははっ……ふぅ……


 けどな、オレが喧嘩を止めたからと言って、自分が蒔いた種が帳消しになるなんてことはなかったんだよ。


 春子との帰り道、オレたちはチンピラにからまれた。

 以前、春子に襲いかかっていた連中のお礼参りだ。

 オレは春子に「逃げろ」と耳打ちして、チンピラたちの前へ出た。

 15人はいたな。

 鉄パイプ持っている奴もいたし。


 オレは大きく息を吸って、ゆっくりと膝を折った。そして、地べたに額を押しつけ、腹の底から声を上げた。

「スイマセンでした」ってな。


 これで、決着が……つく訳ないだろ?

 フクロだよ。


 お前らは信じないかもしれないが、言っておくぞ。

 この時オレは、一切手を出してねぇからな。


 やられっぱなしなオレに気をよくしたチンピラたちは、逃げずに塀の影から顔を覗かせていた春子にも襲いかかった。

 オレはチンピラを春子から引きはがし、彼女におおいかぶさった。


 もうな、ひたすらサンドバックだよ。

 痛みはなかったな。ただ、酷く体が熱かった。

 オレの抱えた腕の中から、春子の泣き叫ぶ声が聞こえた。「どいて! もうヤメて!」と。

 オレは貝のように、さらに体を固くした。

 ボンヤリとしか覚えていないが、サイレンが聞こえたような気がする。

 気づいたら、オレは病院だった。


 外に女を囲って家に寄りつかなかった親父と、家のことなんか何もせずパチンコに入り浸っていたお袋が、面倒くさそうに見守る中、オレは体の痛みに堪えて、真っ白なベッドから身を乗り出して叫んでいた。

「春子! 春子は無事か?」ってな。

 申し訳なさそうに病室の外から姿を見せた春子の、細い手足は、細かな傷でいっぱいだった。

 けど、無事だった。


 何て言うのかな……うん……泣いたよ。


 ホッとして涙が流れてくるなんて、生まれて初めてのことだったから、自分の太ももが急に濡れて驚いたさ。

 春子は綺麗な顔をクシャクシャに歪めて、号泣してたな。「よかった」って言っているようだったけど、嗚咽でよく聞き取れなかった。

 バカみたいだろ? 二人して何やってるんだってな。オレの親は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてたよ。


 それからずっと、オレは春子と一緒だった。登下校も休み時間も、休みの日だって会わない日はなかった。まぁ、お互いバイトの時間は会えなかったんだけどな。

 海や遊園地にも行った。誕生日にプレゼントを送ったり、もらったりもした。

 何も知らない春子を連れ出して、夜の学校へ忍び込んだりもした。あとで、春子に凄い怒られたけど。


 春子の一人暮らしのアパートにも行った。何も物がない、ぼろアパートだった。

 何でそんな暮らしをしているのか不思議でならなかった。

 そこでオレは、春子の生い立ちを聞いた。言い渋って、なかなか教えてくれなかったのを、よく覚えている。

 聞いた当時、オレはよくわからなかった。まっ、お前らに言っても、当時のオレのようにきっとわからねぇだろうがな。


 春子は中東の……そう、あの国から逃げてきたんだ。

 母親の親戚のつてで。

 戦災孤児だよ。

 両親は目の前で炎にまかれたらしい。


 想像なんてつかないよな。だって、オレたちは戦争を知らない。

 せいぜい伝聞か、言っても画面向こうの対岸の火事だ。

 オレは必死になって勉強した。春子の国のこと、戦争のことを知りたかった。

 死に物狂いって言うのは、あの時のオレのことを言うんだろう。お前らとどっこいだったオレが、今ここで教壇に立っているんだからな。


 オレは、何としてでも春子の助けになりたかった。

 だが、助けたいなんて息巻いていたが、春子が見てきたもの、感じたことなんて、これっぽっちもわかっちゃいなかったんだ。あの瞬間まで。

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