3.ご依頼の主

 ロンドンから車で1時間ほど。

 理想や想像とは裏腹、その実人を選ぶような喧騒は遠くなり、どこにいたって見えるのではないか、と思わせるようなかの有名な大時計も視界から跡形もなく姿を消した頃。まさに万人が『好ましき懐かしの英国』と唄うであろう、緑の広がる昔ながらの風景を残した街が見えてくる。

 彼の執事の操るリムジンはこの街の風景にはあまりにも場違いではあるのだが、振動の少ない彼の運転は1時間もの移動にはまさに快適そのものであった。

 如何にも『金持ちが乗車しています』と言わんばかりの出で立ちは私という客人をもてなす意、そしてこれから向かう先への敬意であろう。

 無論、本来ならば余所行きに着替えるべきであるのだろうが、私もこの通り掴んで来た服を引っ掛けているだけであるし、タイムリミットがあるというのに着替えに時間を割くというのはあまりにも滑稽だ。それがトリックや解決に繋がるのならばまだしも、十中八九今回は関係ないだろう。

 それに、目立つ事をあまり良しとしないギルバートが黙って車に乗っているのも、そのままの服装で良いという私の言葉に、少なからず安堵を覚えたからだろう。車内だというのにフード一つ取らぬ友人に苦笑するしかないが、推理に対する目に見えた正解というのは、なかなかどうして心地好い物でもある。

 しかして服装に似合わぬ豪奢な車内に備え付けられたグラスに注がれたシャンパンをぐい、と飲み干し、運転席の方へと移動し、


「やあ、調子はどうだい? こちらは君の運転のおかげで至極快適さ」


 軽口を投げかければ、くすくすと笑い声が聞こえ、肩が揺れているのも見える。


「それは何よりでございます。直に到着致しますので、どうぞご降車のご準備をお願い致します」


 柔らかな声の返答。その間も全く振動に乱れがないのだから、全く執事というものはどれほど神経を尖らせ隅々へ行き渡らせているのだろうか。

 しかして小窓向こうの彼の後ろ姿をそれとなく眺めていれば、ふと。耳に幾つか、否、多いと思われても仕方が無い程の小さな穴が空いている事に気付く。品行方正、恭謙きょうけん、柔和。それらを象ったような印象だったが、やはり一口には言えぬ蟒蛇うわばみであったか。


「君はなかなかに、キーマンであるやも知れないね。ああ、そうだ、折角だから君も積極的に意見を言ってはくれないかい?良いだろう、ギルバート」


 共に難件を解決するのだ。一々許可を得ていたのではたまったものでは無い。

 好きにしろ、と転がる低音に彼はかしこまりました、と返し、それから


「ですがわたくしめは、あくまで坊っちゃまの執事でございますよ?」


 やんわりと。肯定も否定もせずに、事実のみを述べるという方法でキーマンとした言葉を拒絶する。同時にあくまで主人の前には出ないという確約までされた気分だ。なるほど、これでは聡明たるギルバートも手を焼くかも知れぬ、と推察しながら、その先の流れる景色に目をやる。

 緑の若草に瑞々しい花が咲き、絵本にでも登場するかのような家々が並ぶその風景は、喧騒と人とに溢れ返っただけのロンドンとは大違いだ。比べるのも烏滸がましいとしてしまうような長閑さで我々を迎えてくれる街に、何をしに来たか忘れて観光にでも行きたくなってしまう。

 だがそれを拒むように見えてきたのは、突き当たり、一際大きな門扉が目立つ屋敷であった。

 遠目にもわかるハーフティンバー様式のデタッチドハウスは一階はレンガや石積みが美しく外観を整え、二階の木材も傷みなく柔らかな雰囲気をまとう、何とも品の見える造りであり、私等わたしなど今日日きょうび廃れ気味であるそのスタイルに、つい身を乗り出してしまうのだ。


「やあ、」


 意図せず零れた感嘆に喜色が浮かんでいることに気付き、あまりにも幼子のような反応であったかと軽く咳払いをする。

 遠心力を疑うほどに緩やかに止まった車から待ち切れずに降りれば、お手数をお掛け致しました、と声が掛かる。まさか、自分でドアを開けた事を言っているのだろうか。そんなはずは、と後ろを見れば、確かにギルバートは執事の開けた扉から降り、閉めることもなくコートのポケットへと手を入れている。

 私からしては想像のつかない世界であるが、彼にとっては日常なのだろう。それとも下手に動けば執事の仕事を奪う事になるのか。どちらも、が理由な気もするが。

 私たちが降りたのを確認すると駐車スペースへと車を止めに行く彼を見送り、私はギルバートを引き連れてこの家を眺める事とした。何につけ構造は時に重要な解決への糸口となる事があると考えたからでもあるが、どうしてどうして素晴らしい外観に見惚れてしまったのもある。


「実に素晴らしい。そうは思わないかい」


「……そうだな」


 彼の邸と比べればあまりにも狭いであろうその敷地を歩き、それでも一般的と呼ぶには程遠く広々とした庭に咲く花々に目をやる。ブルーベルやエルダーフラワー、勿論今がまさに旬の薔薇やライラックなども咲いている。窓際にはウィステリアが絡み、吸い込む空気は午後の日差しを浴びた花々の豊かな香りを惜しげも無く纏っている。

 ギルバートも植物は好みであるらしく、ふぅん、と彼にしては珍しく機嫌の良さそうな声を零した。


「しかし栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかったろうね」


「だが、その花自ら手折れと言ってるんだろう」


「ああ、嘆かわしい限りさ」


 全く嘆かわしい。命に勝るほど豊潤なものはないと言うのに。

 しかし私の軽口に直ぐに返してくれるのは彼の良いところである。優秀な助手になるだろうに、探偵には興味はないのだろう。

 しかして、春から夏にかけてが開花時期のものはほとんど植えられているのだろう花壇を見つつ、私はつい悪戯心を起こし、


「君はアザミのようだね」


 告げれば、彼の眉がどういう事だと寄り、棘冠を被る小さな花に視線を向けた。

 人格の高潔さ、厳格、独立、触れないで。

 人間嫌いというのもあるが、彼は決して人間嫌いというわけではないためそこは少し違うかもしれないが。

 彼は花言葉などにまでは明るくないのだろう。逡巡の後に唇が開き、しかし聞こえてきたのはギルバートのそれよりも高く柔らかな声だった。


「わたくしめは、坊っちゃまはオレンジのようだと」


 お待たせを致しました、と戻ってきた彼に、つい私は面食らってしまって、何の事だか分かっていないらしいギルバートを二度見してしまった。


「君、正気かい? オレンジだって?」


「ええ」


「……リアム・アエネイアス、お前は花言葉やらの言葉遊びが好きなようだな。察するに褒められてはいないようだが」


「申し訳ございません」


 にこ、と柔らかに微笑む執事は、恐らく反省などせずこれからも紡ぎ続けるのだろう。花言葉で遊び、しかも純粋オレンジを選ぶあたり、眉を更に寄せる旧友の気持ちがわからなくもない。

 苦笑をこっそりと乗せながらも、揃ったのならばと玄関へと向かえば、シンプルな重厚感のある扉があり、小窓のガラスは柔らかに昼の高い日差しを浴びて煌めいている。ノッカーは龍にも似た蛇の頭をモチーフに細やかな銀細工が施されており、それを礼儀をもって4回程叩く。


「こんにちは、カーティスです」


 少し強めに声を上げると、直ぐに扉は開いた。

 私たちよりも5つほど年上だろう。ギルバートと同じか少し高いくらいの身長に柔らかな灰色の瞳を細め、白のシャツにベージュのベストで品良くまとめられている。少し濃い茶のスラックスに焦げ茶の革靴だが、庭にでも出ていたのだろうか。上半身の身なりに比べて、靴には少し土がついているのが気になった。


「やあ、いらっしゃい、カーティスくん」


 迎えてくれた男性は朗らかに笑うと私の後ろへと視線を向け、更に笑みを深める。


「ジャックマンさんだね?こんなところまでわざわざ御足労かけてしまって」


「…、いえ」


 なかなかどうして対人が得意ではないのだろう。困惑を少し滲ませながら短く答える彼に、男性は、ああ、と零し。


「中へどうぞ。立ち話も何でしょう」


 促されて中へ入れば、まず目に入るのは左右から中央に向かってゆるやかなカーブを描く大階段である。その中央の空間には翼の生えた蛇の像が、堂々たる風格で置かれていた。ワイバーンにも似ているが脚が無く、完全なる蛇の体である。

 そこここにモチーフとして散見される蛇はもしやこの家の紋章などなのかも知れぬ、と思いながら、案内されるままに広々とした廊下を歩いていく。彼の後ろに私、そしてその後にギルバートが続く。勿論彼の執事はその後ろだろう。

 四人の靴がタイルにぶつかる音が静かに響く中、暫くして通されたグレートルームは間接照明の柔らかな光と、花を象ったようなペンダントライトに照らされている広々とした空間だった。

 中央には石造りの暖炉が構えられ、その暖炉の屋根部分には燭台とキリスト十字、マリア像が置いてあるのが見える。熱心な教徒なのかもしれないが、それはそれで依頼に違和感を覚えざるを得ない。

 ペイズリー柄の目立つ毛並みの良い絨毯の上には楕円の木製ローテーブル。向かい合うように重厚な革張りのソファが設けられている。

 どうぞおかけください、と微笑まれ、三人がけの端に座る。ギルバートは隣と思いきや、流石に人の家だからなのかコートを脱ぐと、私と空間を挟んで反対の端に腰を下ろした。

 お預かり致します、とコートを手にした執事は、ギルバートの席の後ろに姿勢よく立ち控える。流石に促しても主人と同じように座りはしないだろうと推測したらしい家主は、向かいのソファへと腰を下ろした。


「改めまして、この度はご協力いただけるようで、感謝しております。私はハロルド。ハリーと呼ばれているので、お気軽に是非」


 よろしくお願いします、と微笑むと、少し右足を手前に引いたのが視界の端に映る。同じタイミングで部屋の扉が開き、一人の女性が入ってくる。ハロルドと同じか、少し年下か。控え目そうな柔らかな橙の花があしらわれた、白のワンピースを身に纏っている。肩口で切りそろえられたブロンドの髪が、紅茶をセットを乗せたトレイを運ぶゆっくりとした動きに合わせて軽やかに揺れた。

 カチャ、と陶器のこすれる音がしてから、前に置かれたカップに香り豊かな紅茶が注がれる。背後にいる彼の執事が少し申し訳なさそうな雰囲気を纏ったのは、恐らく気の所為ではないだろう。


「こちらは妻のアメリ。娘はスクールに行っていて今は不在ですが、後でご挨拶させましょう」


 ハロルドの挨拶に軽く頭を下げると、アメリと呼ばれた彼女はクリーマーとシュガーポット、ティーストレーナーを置いてそそくさと退室していく。不仲、というわけではなさそうだが、何処かぎこちない空気だけが残ってしまった。

 こほん、と咳払いをすると、こういう時どうしたらいいのかと思案していたらしいギルバートが、隣で詰めていた息をそっと吐いたのが分かった。存外に正直な男なのだ。


「私は今更するまでもないだろうが、カーティス・アクレス。こちらは旧友のギルバート。あのジャックマン家のご子息さ」


 私の紹介に彼は顔を上げ、しかしやはり外見を気にしているらしく視線を揺らしてから


「……、お初にお目にかかります。ギルバート・ジャックマンと、申します」


 なんとも他人行儀に短く答えるあまりにも不慣れな様子は、初対面とて伝わるのだろう。ハロルドはからからと軽快に笑うと、話しやすいようにして頂いて結構ですよ、とだけ添えた。


「そして彼は、ギルバートの執事」


 後ろに控える彼を紹介しようと振り向けば、手間をかけるわけにはいかないと思ったのだろうか。既に頭を下げていた彼が、ちょうど顔を上げたところだった。


「どうぞわたくしめの事は、リアムとお呼びくださいませ」


 日陰ゆえに深みの増した黄色が、深く蜜のように光り細められる。

 その笑みに頷いたハロルドはゆっくりと私たちを見てから、す、と息を吸い込み。


「カーティスくんに、ギルバートさん、リアムさん。わかりました、では三名にお願いがあります」


 彼は再度、脚を引く。

 そして簡潔に。


「私を、埋葬してもらいたいのです」


 予想を裏切らぬ、文面と違わぬ言葉を唇に乗せた。


「……何故」


 ぽつりと転がったギルバートの困惑に、ハロルドは何故か更に戸惑いを含めた声で返してくる。


「何故、と言われると、私も困ってしまうのですが…見てもらっても解りませんか」


 すると、彼はゆっくり立ち上がり、全身を見てくれとでも言うようにテーブルの脇へと移動した。

 そして、一瞬だけ足元へ視線を落としてから、は、と息を吐く。少し言い淀むように唇の乾きを舐め、暫時の後に真っ直ぐ私たちに視線を向けると


「私は、三年前に死んでいるのです」


そう、はっきりと告げてきた。

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My Stery まき @door0230

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