3

 ビボウロク。

 十数分悩んで、その言葉はなんとか思い出すことができた。しかしペンを握った手は止まったままだ。わすれ物ノート改め「ビボウロク」とはどのように書くのだったか。「ソナえる」のビ、「ワスれる」のボウ、「キロク」のロク、それを並べて書けば良いとまではわかるのに、漢字の形を思い出せない。わすれ物対策を講ずる段階でわすれ物に悩まされるなんて笑い話にもならない。いや大介ならば大笑いするか。帰っていてくれて本当に良かった。

 携帯電話に入力してみれば簡単に知ることはできるのだけれど、それでは何かに負けたような気持ちになってしまう。ぼやっとした形は覚えている。それを掬い上げようとすると霧散してしまうのだが、丁寧に掬えばきっと思い出せる。なんとか自力で思い出したい。

 そうして出発時刻まで粘ってみたものの、ついぞ近付くことはできなかった。


 夕刻というにはまだ早いものの日差しはだいぶ和らぎ、静かに通り抜ける風が心地よい。気の早いヒグラシが鳴き始めているのが遠く聞こえる。お迎えの提灯を下げて歩く人がちらほらと見え始めている。私のように一人で向かう者もいれば、家族総出と思しき大所帯もいる。見慣れない提灯に興味津々といった様子の子供もいれば、面倒臭そうにポケットに手を突っ込んだ高校生もいる。

 ここには様々な人がいて、それぞれに迎える人がいる。行きの道の人々はソワソワしているように見えるし、帰りの道の人々はどこか楽しそうに見える。もちろん目には見えないのだが、もう会えない誰かに今日はまた会えるということを、みんなぼんやりと信じているのではないだろうか。

 気付けば歩きながら「捜すのを止めたとき見つかることもよくある話で」と口ずさんでいた。君もこの歌をよく歌っていたっけ。人間というのは一つの事に集中していると今見えていない範囲のことに意識が向かなくなってしまう。捜し物というのはまさに今見えていない範囲のことなので、この歌詞は理に適っているのかもしれないね、とそんな話をした気がする。

 ビボウロクの書き方を捜すのを止めてから少し経つけれど、今のところまだ見つからないみたいだ。いや、こうして思い浮かべてしまうということはまだ頭のどこかで捜し続けていたのかもしれないな。

 

 「尚子の旦那さん?旦那さんじゃないですか」

 妻の名が聞こえて思考が不意に中断される。顔を上げると女性がこちらに手を振りながら近づいてくる。未だに私を旦那さんと呼ぶ彼女は、吉野さんだ。

「ああ、吉野さん。お久しぶりです」

「ええ、お久しぶり。今からお迎えですか?」

「はい、あちらで息子夫婦と合流するんです」

 大介君が結婚?と吉野さんは驚きつつも自分の事のように嬉しそうだ。彼女は妻の学生時代からの親友だった。私が彼女と交流を持つようになったのは葬儀以降なのだが、それ以前から度々名前は聞いていたので随分長い付き合いのように思ってしまう。今は遠くに暮らしているそうだが、毎年この時期は花を供えに来てくれる。

「ええ今年も。ちょうど今お供えしてきたところです。ああ、もう少し余裕があればよかったのに。久しぶりに大介君にも会いたかった」

「今日はこの後早いんですか?」

「そうなんです。ちょっとスケジュールがきつくて。お供えのお花もいつもならちゃんと包んでもらうんですけど、今回は時間がなくて新聞紙そのまんまで」

「いいえ、充分です。すみません引き止めてしまって」

 などと言いながらも結局その後長らく立ち話を続けてしまった。彼女は私の知らない妻の一面を、私は彼女の知らない妻の一面を知っている。そして私達が共通で知る面も勿論あるのだ。この7年の中で吉野さんと会う機会は何度もあったが、語りつくすにはとても十分とは言えない。最後に腕時計を確認した吉野さんは「タクシーを拾えば間に合うから心配しないでください」と言ってくれたが、それでも罪悪感を覚えてしまう。

 ただ、言い訳するわけではないのだが、こうして故人を知る者が顔を合わせ、語らい、思い出に浸るのは、この日の在り方として正しいものであったように思う。


 時計を見ると思ったよりも時間が経っていた。

 こちらも待ち合わせに向かう身であったことを思い出して少し歩調を早める。通りを歩く提灯の数は先ほどよりも心なしか増えて見える。墓地に近づくにつれてヒグラシの声が近くなり、吹く風は少し涼しくなってきている。


 着いてみるとまだ大介たちの姿は見えない。どうやら間に合ったようだ。

 妻の墓には真新しい花束が添えてある。仏花というには華美な印象だからこれは吉野さんが供えてくれたものだろう。新聞紙で包まれていることからもそれが窺える。

 こうした場では仏花を供えるのが普通なのだろうが、吉野さんは数年前から「考えたんだけどね、尚子の好きだった花の方が良いかなと思って」とこうして選んでくれるようになった。儀礼の作法としてそれが良いのか悪いのかわからないが、君ならばきっと賛同しただろう。

 しゃがんで風除けを作り、提灯に火をつけながら今日という日を振り返る。


 七回目ともなると用意も手際よくなっただろう?大介は相変わらず暑苦しくて騒がしいよ。でも元気なのは良いことだよなあ、あんなに沈み込んでいた時期があったものな。それから祐子さん。盆に我が家を訪れるのは今回が最初だから、君にとっては初めましてになるのだね。まあ、君の言葉を借りればたまに「電話」をする相手になるのだけど。儚く見えるけれど強くていい子なんだ。大介ともうまくやっていけそうだよ。もうすぐ二人とも来るからすぐに会えるよ。そうそう、吉野さんが来てたんだね、さっき会ったよ。彼女も相変わらずのマシンガントークで、ついつい長話してしまったんだ。会話の内容なんてもう殆ど覚えていないけれど。いや、一つ思い出した。君、友達に私の事をわすれんぼうだって言いふらしてたんだってな?いや、そりゃあ確かにそうだけれどさ。まったく、今日は祐子さんにもわすれ癖がバレてしまったというのに。

 それで思い出した。タイトルが白紙のままのノートを鞄から取り出す。

「そうそう、これを大介から貰ったんだよ。『わすれ物ノート』だとか言って。あいつ、ビボウロクって言葉を知らないのかな。…まあ、私も漢字でどう書くか思い出せないでいるから馬鹿にはできないんだけどね。もう少しで思い出せそうなんだけどな、『ソナ』えるに、『ワス』れるに…」

 言葉を遮るように強い風が吹き抜けた。吉野さんの花束が煽られ、飛ばされかけるのを慌てて掴む。花束は崩れていないだろうか。思わず包装を開く。

 そして包み紙になっていた、新聞の見出しが目に入った。


『記的猛暑 暑さへのれずに』


 ほら、これでしょ?と得意気な声が聞こえたような気がした。

 ああ、まったく。君には敵わないなあ。

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