カルマの塔:いつか――
「往かれるのか?」
「ああ、今、時代が終わったからな。俺たちの、星が墜ちたのさ」
黒き狼は静かに涙を流していた。夜明けを背に時代の終焉と始まりを見届けた。これ以上、この地で成すべきことは無い。いや、そもそももうこの世界に己が為すべきことなどないのかもしれない。望みは絶たれた。
もう二度とその手が彼に届くことは無い。
「勝つまでだッ! 俺様が勝つまで、どこまでも追い続けてやるッ! 死んだからって怠けんじゃねえぞ! 俺はまだまだ強く成るからなッ!」
狼の王は天に向かって吠えた。
「じゃあな勝ち逃げクソ野郎。いつか、どこかで戦おうぜ」
狼は一人、無間砂漠に足を向けた。朝焼けが目に沁みる。
この涙は、ただそれだけの理由である、と。
○
紅き女王は黄金の夜明けを見て静かに目を伏せる。
「愛していたのかい?」
血を分けた者の発言に女王はゆっくりと首を振った。
「私には愛と言うモノがわからぬ。ただ、私は求め続けるのだろう。私の胸に、わずかでもこの炎が揺らめく限り。幾度となく挑み、その度に白騎士は、私に新しいモノをくれる」
女王の無邪気な笑みを見て、涙交じりのそれを見て男はため息をついた。
「それを愛と呼ぶんじゃないかな」
踵を返した女王は久方ぶりに剣を抜く。
西の果て、未だ旧き夜が残る方へそれを向けた。
「そうかもしれぬ」
出会うよりずっと前から彼の引力に魅かれていた。何故かはわからない。きっとそれは分からないままなのだろう。分からぬままで良い。心の求むるままに剣を握り挑戦する。この時代は負けたが、別の時代、別の場所でならわからない。
「……重い、な」
いつかの再戦、時代を超えた挑戦のために研鑽する。
「ふ、少しだけ、燃えてきた」
少しと女王は言ったが、近くで見る男の眼には水平線までも燃え尽くさんとする真紅の炎が幻視された。部下のため、民のためにエゴを捨てた女王であったが、死出の先までそうする気は無いと彼女の貌は言っていたのだ。
「皆に見せてやりたいね。やっぱり、僕らの女王はこうでなくっちゃ」
その時は自らもまた剣を握ろう。きっと、皆も同じ気持ちであろうから。
○
ガリアスとアルカディアの国境沿いにリディアーヌからの命で待機していたリュテス、ロラン、アダン、アルセーヌらガリアスが誇る精鋭たち。
王の頭脳たるリディアーヌからは内乱、王が崩御した際に隙が出来たなら攻めて良いと言われていたが――
「隙が無くなるどころかより強く固まる、か」
「これじゃあ抜けないねえ。残念、火種はきっちり揉み消されたか」
おそらく国内に多少の抜けを作ってでも対外用に組み上げた布陣。本来、アルカス近郊に配備すべき歴戦の勇士たちのほとんどが内乱鎮圧の名目で外側に配備されていた。そして彼らは『命令通り』、この地に赴き陣を敷く。
その眼に燃える色は、悲しみの忠義。
「……最後まであんたは、ふん!」
リュテスは槍を引く。この陣容であれば幾たびかの死線を抜く必要はあれど、戦争という形式にまでもつれ込むことは出来る。ただし、あそこで悲哀の炎を燃やす忠義の騎士たちと死闘を繰り広げることになるだろうが。
残念ながら、ガリアスに其処までのモチベーションは無い。
そこまで読み切ってあの男はこう捌いたのだろう。きっとリディアーヌはこの報せを聞きつけたなら、涙を浮かべてリュテスと同じ感想を述べるはず。
ガリアスにとって最後まで複雑な関係性であったが、この場の誰もが一定のリスペクトをかの王に向けていることだけは確かであった。戦士として、王として、ガリアスはついぞあの怪物に土をつけることは出来なかった。
もし、彼がガリアスに生まれていれば今日まで幾たび思ったことか。これから幾たび思うことになるのだろうか。
リュテスもまた一筋の涙を流し、この地を去る。
彼女の槍は最後まで届くことは無かったのだ。
○
「だから言ったでしょ? 隙は無いって。全部織り込み済みなんだからさ」
ガリアスと同じようにネーデルクスの国境線沿い、山岳地帯にシルヴィらが備えていた。クンラート王の命令はリディアーヌとほぼ同じモノ。昨日までは仲良くお手手を繋いでいた両国でさえ隙を見せればこうなってしまう。
「……命令ですから」
そんなピリピリしたムードとは裏腹に、先客はまったりと絵を描いていた。その絵描きには珍しく真面目で陰鬱な絵。大きなキャンバスには巨大な塔が描かれており、暗くよどんだ色合いが浮かぶ。
「もう、表舞台に上がる気はないのですか、ルドルフ様」
「冗談はよしてよ。僕には、彼のように生きる覚悟は無い。罪を抱えて、向き合い続けるなんて地獄、ごめんだね。悪いけど僕は、死んでいった部下たち全部合わせても僕の方が大事だし、その次にラインベルカだ。この馬鹿ちん以外、荷物を背負う気はない」
「ヴァロ家に預けてる坊ちゃんは?」
「あれは僕の敵。ガキなんてこさえるもんじゃないよ、まったくもう。マルサス君もあれだね、物好きだよね。あんなの大量生産するんだもん。まあそのおかげで一匹くらい増えても良いじゃんで押し付けられたんだけどさ」
ディオンの問いに奇想天外な返しをするところがまさしくルドルフであった。我が道を行く、誰に断るでもなくただひたすらに進みたい方へ。
そして、ルドルフ・レ・ハースブルクのそばには盲目の女性が常に寄り添っている。どちらが正しいとか、そう言う次元で語っても無意味。白騎士には白騎士の、青貴子には青貴子の生き方があり、価値観がある。
「やっぱり僕は女の子の裸を書く方が性に合ってる」
そう言ってルドルフは最後に一筆、天頂に白の点を描き筆を納めた。
「お疲れ様。最後の最後まで不細工な生き方だったね。うん、君らしくて良いと思うよ。願わくば君の選んだ道が途切れぬことを祈る。人が愚かでないことを、ね」
神の子、ルドルフ・レ・ハースブルクはその絵を最後に抽象画、風景画の類は一切描かず、生涯女の子の裸を描き続けた。時代と心中した白騎士とは対照的に時代を超えて彼は好きなように生きる。
それもまた人の道だと、体現するかのように。
○
多くの痛みを残し白の王は去った。
一夜で多くを失った王都アルカスは新たなる王を抱き再建に力を注ぐ。多くの実務を担ってきた白の王の腹心ラファエルや極めて優秀な王族であったエアハルト、それらを擁しアルフレッドはこの機に乗じて平時では難しかったことにも手を伸ばし、結果として階段を段飛ばしで駆け上がることが出来た。
すべては入念な準備があったおかげなのだが、国民がそれを知ることは無い。残された者たちは知っているのだ。やるべきはその逆、居なくなった者を最大限『利用』して民を結束させるべし。
それが人の道から外れたことであっても、王道であれば進む。
結果、多くの罪は白の王と『アルフレッド』によって断たれた貴族たちに擦り付け、彼らはそれを利用してあらゆる場所に手を加え、革新を注いだ。
こうして生まれ変わった新生アルカディアは各国に隙を見せることなく王権を移行し、再建を果たしたのだ。その罪は今は亡き白の王へ、そしてその功は今君臨せし黄金の王へと引き継がれる。
道は続く、土台を固め、前進する土壌を確立させるのが次代の王、黄金の王たるアルフレッドの使命である。
時代は流れる。
黄金の百年と後に語られる偉大なる賢王アルフレッドの治世。ローレンシアの覇国として長く君臨することとなるアルカディア王国の地位を盤石とし、その発展に力を注いだ。
暗黒大陸との繋ぎ役としても活躍し、エスケンデレイヤが暗黒大陸を統一した際にはその一部を飛び地として友国アルカディアに譲渡されたほどの親密さを見せる。その絆は時を超えてなお続いている。
唯一、アルフレッドが明確に後れを取ったのは東方との交易面。フェンリス王の大遠征は難所無間砂漠を通らずに東方との接触を果たすことに成功。数多の危険、多くの貢物と引き換えに今後の交流を約束しローレンシアに戻ってきたのだ。
また、数は少なかったがいくつか勃発した戦争に際しても、二度、アルフレッド擁するアルカディアは土を付けられている。
いずれも西方の新天地をめぐる戦いで、一人は上述したフェンリス・ガンク・ストライダー擁するヴァルホール海軍に海戦で敗れ、陸ではリオネル、オリオン率いるガリアス軍に敗北を喫した。
そこからのあの手この手での巻き返しもまたアルフレッド王の逸話として語り継がれており、その敗北を大局に結び付けさせなかったのはさすが賢王といわれているが、当の本人は苦い笑みで反省を語っていたという。
それ以外は全て勝利、栄光に包まれた王道であった。
まさに英雄の中の英雄、加えてその子沢山っぷりも後世に伝わっていた。曰く、妻を百人娶り、子を二百人超成した、と。
性豪などと揶揄されることもあるが、その実は多くの子供たちを競争させ、次代の王を選別するためであったとも言われている。
ただし、その選別の儀に際し、最後に勝利したのはアルフレッドの血ではなくクラウディアの、コルネリウスの孫であったことは当時一大事件となった。最も有力とされたアルフレッドとシャルロットの血統は序盤、候補者の結託によって敗れ去り、その後は泥沼と化し、その果てで恩讐の一族が栄冠を得たのだ。
血で血を洗う政争。アルフレッドによってなされた最後にして最も凄惨な事件は、次代の王の剣によって幕引きされた。幾重にも絡み合った宿命、その中で最良たる玉を削り、磨かせ、最も輝きを放ったモノが王と成る。
力ある者こそが王。剣でも、財でも、知恵でも、権力でも、何でも構わない。だが、勝てぬモノが王に成ることだけは避けるべし。賢王はそう語り散った。ついぞ、王は最愛の者と再会することなくこの世を去ったのだ。
否、再会するために、と言った方が正しいか。
あの言葉より数百年、アルカディア王国は覇国としてローレンシアに君臨し続けた。そしてそれが滅んだ後にも別の国が芽吹き、咲き誇る。無数の屍を積み重ね、無限にも似た歴史を組み合わせ、人の歴史という一つの塔が伸びる。
未だ天ならず、されど確実に近づいている。
光あれ、その呪詛は今も世界に刻まれている。
人が神を超え、全てを手に入れるまで。
光を目指す道こそがカルマの塔であるのだから。
○
薄靄の中、ウィリアムは立っていた。今まさに凄絶な最後を遂げたばかり。これが彼岸の景色か、と一人納得して歩を進める。死してなお歩みを止めるつもりはない。何かをしていないと背負ったモノに圧し潰されてしまうから。
ふと、視界が拓けた。
岐路がある。別れ道の真ん中で二人の女性が立っていた。一人は暇を持て余したのか一人で踊り始め、もう一人はそれをぼうっと眺めている。
「……何をしているんだお前たちは」
ウィリアムは呆れた表情で彼女たちに声をかけた。途端、彼女たちの表情が華やぐ。無色に近かった頬が熟したリンゴのように赤く染まっていた。
「お疲れ様、ウィリアム!」
「お疲れ様です、アル君」
ヴィクトーリアとルトガルド、何もかもが対照的な二人が同時に微笑む。
「……俺は何をしているんだと問うたはずだが?」
そう言われてもごもごと口ごもるヴィクトーリア。
代わりにルトガルドが口を開く。
「貴方を待っていました。妻ですから、当然のことかと」
その言葉にピクリと反応し、食って掛かるヴィクトーリア。
「わ、た、し、も一日違えば妻だったし! 婚約者だから実質妻だもん!」
相も変わらず死してなおお花畑なのは変わっていなかった。
「状況は理解した。そこでお前たちが待っていた事実から、俺とお前たちが向かう道は異なるのだろう? その岐路は、つまるところ悪人と善人を分ける分岐点と言ったところか」
あっさりと状況を把握し苦笑いを浮かべるウィリアム。
「選ぶことは出来ます。貴方には、どちらの資格も備わっている」
「愚問だぞルトガルド。分かり切っていることだ」
「ウィリアムは自分を許せない、だもんね。知ってるよ、私たちは」
ヴィクトーリアは哀しそうに微笑む。
「お前たちは進むべき道を往け。そして、いつか本当にお前たちを大事に想ってくれる人に出会うんだ。俺みたいな男を待っている時間がもったいない。お前たちには感謝している。義理立ては十分だ」
自分は己がエゴで彼女たちを切り捨てた。本来、愛される資格などない。共犯者であるルトガルドはともかく、ヴィクトーリアは知らないまま殺されたのだ。そんな歪んだ決断をした男を待つ義理など何処にもない。
「俺はこっちのようだな。確かに、どちらにも引かれるが、こちらの方が強く、不快だ。ならば、進むべき道は自明だ」
ウィリアムはあっさりと自らの進むべき先に足を向けた。彼女たちもそれを止めようとはしない。止められると思っていないから――
「いつか、許せる時が来たら、共に参りましょう」
ルトガルドの言葉に、其処に含まれた意図に、平静を装っていたウィリアムの仮面にひびが入る。そんなことはあってはならないのだ。
自分に愛される資格など――
「それまで二人で待ってるね。先に諦めてくれたら独り占めできるんだけどなあ」
「私は待てる女ですので。先に音を上げるのは貴女では?」
「待ってる歴は私の方が長いんだからね。意外と私も待てる女だから!」
胸を張るヴィクトーリア。それを鼻で笑うルトガルド。
その様子に、ウィリアムは――
「ふざけるなッ! 良いか、死者の時間は無限だ。いや、本当に無限なのかはわからんが、少なくとも人の一生に当てはめて良い時間軸じゃない。どれほどの虚無をこんな場所で過ごすことになると思う? こんな何もない岐路、花すら咲いていない場所で、待ち続けることの苦痛をお前たちは――」
「だから待つの。貴方が罪を背負うなら、私はそれを共有したいけど、共に往けないのなら待つしかない。だから、待つ。ずっと、ずーっと、世界が終わったとしても、待つ」
「覚悟はあります。貴方が罪を雪ぐために修羅の道を往くのなら、その先で私たちは待ちます。永劫の時を経て、ご自身を許せる時が来たならば、その時は共に参りましょう」
「馬鹿、なのか?」
「知らなかった?」「ご存じありませんでしたか?」
仮面の剥がれたウィリアムは立ち尽くす。本当に、どこまでも彼女たちは真っ直ぐで、何を言っても、何をしても、揺らいでくれない。何てことは無いと二人は笑う。向日葵のような華やかな笑みを、野菊のような儚げな笑みを、向けてくる。
仮面が意味を為さない。
「……万の言葉を尽くしても、駄目か?」
「時間の無駄です」
「全部終わったら万でも億でも話そうよ」
最後の最後で、また負けた。死んでなお負けた。
「……いつか、今は、その時が来るとも思えんが、それでも待つというのなら、嗚呼、戻ってこよう。この道に。お前たちと共に、光へ向かおう。俺の、負けだ」
「「また勝った」」
ウィリアムは歩き出す。もはや言葉は無意味。いつか、その時が来たならば戻って来るだけ。出来ればとっくに飽きて歩き出して欲しいが、きっと彼女たちはそうしないし、そうされたならきっと自分は壊れてしまう。
「そう言えばさっき、すっごく綺麗な人がずんずんそっちに歩いて行ったけど浮気は駄目だからね! 待つのは趣味じゃないって言ってたけど」
「身体の逢瀬は構いません。心の逢瀬は、許せません」
本当に、馬鹿な女ばかりだ。これから罪を雪ぐために往くというのに、これではあまりにも救われ過ぎている。道の前には毒婦が、道の果てには二人が待つ。これでは罰にならない。本当に、本当に、己は度し難い。
「くっく、馬鹿が。なあ、ヴィクトーリア、ルトガルド」
ウィリアムは振り返ることなく――
「愛している。また、会おう」
涙をこぼしながら片手をあげ別れを告げた。同時に再会の約定も交わす。
ぽかんとする二人。徐々に顔が赤らんでいく。ちらりとその様子を垣間見て、ウィリアムは瞳に刻み込んだ。永劫の果て、再会を果たす時が来たならば、今度こそ格好を付けずに彼女たちと向き合おう。
何のしがらみも無く、何も背負うことも無く、心の赴くままに。
「大層な景色だな。陳腐な物言いだが、地獄、と言うモノか」
如何な責め苦が待とうとも、その約束がある限り折れる気がしない。
背負う荷は相変わらず重いままだが、不思議と力が湧いてくる。
「お前たちのおかげで今がある。お前たちの在り様が、人を信じるに足る生き物だと俺に教えてくれた。ありがとう、本当に、心の底から、愛していた。いや、愛している。いつか、必ず」
彼女たちの愛が獣を人に戻した。犯した罪は戻らずとも、罪と向き合う強さをくれた。そうやって己は前に進むことができたのだ。
「お待ちしておりました、我らが王」
振り返れば最愛が、そして多くの人々が待ってくれている。前を向けばそこには業深き者たちも物好き極まる話だが、偽物の己に最後まで付き従うと言っている。
胸の奥に光が宿る。
「お前たちも酔狂なことだ。好きにせよ」
これが導、この先にこそ真のアルカディアがある。
「さあ、贖罪の時間だ」
人の行く末に光あれ。
ウィリアムは残してきた者たちのことを祈り、そして踏み込んだ。
ここから先は生者の想像すら及ばぬ場所。罪の重さを知る断罪の宮。
幾多の光を奪ったカルマ背負いし者の終着点。
「いつか――」
ウィリアム・フォン・アルカディアの永き旅が始まる。
カルマの塔 富士田けやき @Fujita_Keyaki
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