第5話

 大麻とパイプを用心して隠していたら、シートベルトを着用していたら、違う道を走っていたら、牛丼をゆっくりと味わって食べていたら、今この場所で眠る羽目にはならなかっただろう。さきほどまではパクと話すことで気がまぎれていたが、友人に恋人、とくに家族のことを考えるとやはり気が滅入りそうになる。とはいえ、思い煩うのはそれぐらいなものだ。大学に通いアルバイトに励んでいる頃ならまだしも、今は働きもせずに大麻を売った金で生活しているのだから、捕まるタイミングとしては悪くない。会社に勤めていて、クビになるわけでもない。保釈金や弁護士を雇う費用も貯金があるから問題はない。どうせ大麻で浮いた金だから、大麻が元に失ったところで悔やむところはない。


 自由を奪われた生活を送らねばならないとしても、過酷な労働を強いられるわけでもなく、三食昼寝付の気楽な生活だ。エアコンのついた居室は快適な温度に保たれ、漫画も本も借りられる。空想が好きな自分としては暇な時間は苦にならない。それに誰かしらと話したくなったら、一風変わったパクがいる。


 それにしても大麻の所持によってこんな目に合うとは、法律で禁止されているとはいえどうも腑に落ちない。窃盗や傷害、殺人等の他人に直接迷惑をかける罪であるなら、手錠をかけられるのもわかる。ところが大麻の所持、あるいは喫煙によって誰かしらに迷惑がかかるのだろうか。大麻取締法に対しての刑罰はすこし過剰ではないだろうか。


 そもそも刑罰はどのように決めらているのだろうか。テレビや新聞などのメディアでは大麻によって心身がぼろぼろになり、廃人になると注意を与えることが多々ある。自分はそれを見聞きする度に、大麻が大麻として見られず、阿片や覚せい剤等の強烈な麻薬と混同されているように思える。大麻を実際に使用したことのある人間ならわかるが、メディアの言う大麻には想像の占める割合が多く、実像から随分と離れている。大麻所持者は社会の完全悪であり、社会不適合者としてのレッテルを貼られている。


 日本で生まれ育ち、海外に足をつけたことのない自分には、他国の大麻に関する観念を直接知ることはない。だが本に依って得るところ、喫煙を一部認められている国があり、少量の大麻所持では罰金のみで済まされる場所もある。そればかりか、社会の因習として大麻喫煙が根付いているところもあり、日本では社会性の証ともいえる酒が、一切認められていない国もある。そうかといえば、大麻所持で即死刑になる国もあるという話を聞いたこともある。


 国よって人種、風土、歴史、慣習が異なるように、法律が異なるのはあたりまえのことだ。そうなると日本が大麻所持に対して過剰な反応を示すのも、なんらおかしいことではないかもしれない。しかしその背景にはなにがあるのだろうか。


 身体への有害性に依るのだろうか。大麻擁護者の意見として、大麻はタバコよりも害がないという話を聞くことがある。わずか数年の大麻愛煙者としての自分もその意見には賛成できる。だがそんな話は五十歩百歩ではないだろうか。タバコよりもわずかに有害でないとしても、どちらも身体にとって有害であることには変わりなく、肺と喉へ負担は免れない。そんなことで大麻は悪くないと決めるには無理がある。


 では精神への影響が大きいのだろうか。大麻喫煙によって、アルコールの泥酔ほど凶暴になることはないと大麻擁護者は言う。自分もその通りだと思う。どちらも理性を狂わせるとしても、酒は人に危害を加える可能性を高める。大麻を吸うと人に危害を加える気が失せる。大量に摂取した場合、アルコールは自己の生命活動に危機をもたらし、他人にも害を加えることがある。その点大麻は吸いすぎによって死ぬということはほとんどなく、吸いすぎて暴れまわることもない。むしろ体が重くて動けなくなってしまう。メリットを考えないとすると、アルコールのほうがわずかにリスクがあるように思える。ただし、これだけで大麻が悪いものではないと決められない。


 メディアに出る評論家の中に、大麻は他のドラッグへの懸け橋になると述べる人もいる。大麻を入り口として、阿片やコカイン、覚せい剤等のいわゆるハードドラッグに移行する。だから大麻は危険だと言うのだ。これを聞いて自分も一理あると思いはしたが、必ずしもそうとは言いきれないだろう。自分自身が阿片や覚せい剤を使用したことがなく、また使用したいとも思わない。自分の知る人間でも、阿片や覚せい剤を常用する人はほとんどおらず、たいていは大麻で満足している人ばかりだ。それも酒が飲めず、代わりとして大麻を吸う人がなかなか多い。それにそういう人間は概して日常生活に大麻をうまく取り入れ、仕事後の晩酌同様に大麻を喫煙する。社会生活を乱す分別に欠けた喫煙をするわけでなく、あくまで生活の一部として大麻と付き合っている。そんな人間はわざわざ大麻以外の麻薬に手を出さない。むしろ手を出すことに恐れを抱いている人もいるだろう。とはいえ、これは社会における一人の人間の狭い交友範囲の内でのことであり、小さな参考程度にしかすぎず、実際には上の麻薬を目指す人間もいるだろう。


 しかし評論家が述べるほど大麻喫煙者は単純ではなく、喫煙者それぞれの社会的地位の差もあれば性格もまるで違う。常に酒に酔っ払う人間もいれば、仕事後に必ず友人らと飲み交わす者もいる。自宅で一人静かに杯を空ける者もいれば、祝いの席においてのみ酒を許す人もいるだろう。大麻も酒同様、人それぞれに合った様々な付き合い方がある。


 人の営みは千差万別であり、必ずしも大麻が上位の麻薬に結びつくとは言えない。ただ、大麻を吸う人間が阿片や覚せい剤に接しやすい環境にあるのは否めない。そうなると大麻が強烈な麻薬の懸け橋になるから問題ではなく、麻薬が簡単に手に入る社会の環境こそ問題ではないだろうか。


 ではなぜ日本の内で大麻は罪なのだろうか。思うに大麻自体はそれほど悪いものではない。どんな物事にせよ良い面と悪い面がある。野球の試合の結果に対し、ある面では勝者が存在して、その裏に敗者が存在するのは明白である。また極端な例を挙げると、環境に恵まれた幸福な者にはすべてを失う死が不幸な出来事であり、好転の兆しのないどん底にいる不幸な者は唯一の救いとして死に希望を見出しかねない。そうでなければ自ら死のうとする人間は何のために死ぬのだろう。


 視点の角度によって、思いも寄らぬほど物事の意味は違って映る。麻薬だけが例外とは言えないだろう。どれにしてもメリットとデメリットがある。それも場合によっては逆転する。現代の日本社会にとって大麻はデメリットが大きく映るからこそ、罪として扱われるのだろうか。そうだとしたら日本社会は大麻をどのように捉えているのだろう。




 田原の頭の働きがますます活発になる。別の居室から濁った鼾がやけに大きく聴こえる。平和な音だと田原は思った。パクと真田からかすかに寝息が聴こえる。刺激の少ない留置場の生活だ、おそらくまだ眠っていないのだろう。田原はさらに沈潜していく。




 タバコとの比較を例に見ると、大麻が罪である原因に身体への影響はほとんど関係ないだろう。あるとしたら精神への影響だろうか。自分の経験上、大麻を吸うと理性を失い、より本能に忠実に行動するように思える。


 普段は節制を心がけ守れている人間も、理性のたがはゆるみ、ついつい衝動買いをしてしまう。物欲および食欲はどうしても抑えられない。むしろ抑えようとする気にすらならない。理性からの開放と言えば聞こえが良く、むしろ野生動物に近くなると言えよう。大麻による陶酔の間、味覚と聴覚に鋭さは増し、思考はより開放され幻想的となる。官能に明らかな狂いが生じる。常識にも混乱が生じるせいか、良識の判断は鈍り、たいしたことでないのに笑いを覚えてしまう。独善とした会話に陥りやすく、思い込みも激しくなる。嫌なことをしたくないので、賃金労働においての労働意欲は甚だ失われる。


 大麻を吸うと馬鹿になると言うが、あながち間違ってはいない。大麻が効いている間は馬鹿になり、平時から感覚に対して忠実に生きている馬鹿者の多くが大麻を嗜好する。社会規範に疑問すら覚えず、従順に働く理知的な人間は大麻をあまり好まない。


 大麻を吸った状態は、いわば現代の社会性を失った半端な野人状態だろう。大麻を日常的に吸い続けると、今まで生きて培った社会の常識が鉋に一枚一枚削り取られるように、太古的な性質が身の内から目覚めてしまう。思想の変化により、まったく別の人間に成り変わると言えよう。


 常識観念の薄れた大麻陶酔状態では正確で機敏な労働は望めず、目まぐるしく回転する現代の機械労働者のようには働くことができない。そんな人間は一般社会からすれば怠慢以外の何物でもない。大麻が人間を怠けさせ、怠け者が大麻を好んで吸う。


 大麻が日本の現代社会にとって罪である原因は、人間を怠慢にさせるからではないだろうか。勤勉な社会人の労働によって成り立つ経済国家にしてみれば、国力の維持および発展のために、従順な労働力をさらに生産して確保しなければならない。ところが成長過程の若者が大麻によって怠慢に汚染されてしまっては、国の地盤とも言える勤勉な国民性は失われ、国の経済が傾きかねない。社会規範を守る画一的な人間ではなく、枠をはみ出す自由奔放な人間があふれてしまえば、国は統制を失い混乱してしまう。日本経済の破綻が日本だけの影響にとどまるならいいが、世界が複雑につながった現代ではそうもいかず、世界中に波及されてしまう。


 だからこそ複雑な社会構成である先進国の多くが、大麻を認めず排除する傾向にあり、古い因習の残る発展途上国には暗黙として大麻が生き残っているのだろう。


 そう考えると、大麻が世界中で禁止されて、日本でも軽くない刑罰に処されるのもすこし頷ける。タバコや酒に比べて心身への依存は少なく、健康への害は少なくとも、社会に対しては多くの害がある。いや、害が必ずしもあるとは言いきれないが、そう懸念されるだけの理由は確かにある。なにせ麻薬は人間を堕落させ、社会に悪影響を与えないとは決して言えない。大麻は他の麻薬に比べて心身への影響は軽いとはいえ、麻薬でないとは言えない。そうなると社会に混乱をもたらす恐れのある物を持っていた自分が、今こうして留置場で眠るのもいささかも不思議なことではない。


 しかし昔から溺れる物の例として、酒、女、ギャンブルがある。これらも人間を堕落させるものに違いない。されど日本の法律では認められている。酒は人間交流の潤滑油として、女は生の営みならびに商売上の接待として認めることができる。ギャンブルも人生の息抜きとしての娯楽と認めることができよう。しかし認められているといって、限度を超えて没頭してしまえばやはり弊害が生じる。


 駅前のいたるところで朝から晩まで営業するパチンコ店こそ、文句無しに人間を堕落させているだろう。パチンコ産業に携わる社長が長者番付の上位に位置するほど、日本のパチンコ産業は栄えている。これは実際、国として恥ずべきことではないだろうか。


 ギャンブルは自制心の利かない人間を堕落させる。これは麻薬と同様である。ところが法では認められている。ギャンブルでは人間の思想を変えることはないからだろうか。そうとは言えない。金に欠乏すれば否応無しに働かなくてはならない。生活を圧迫して国民を困窮に追い込むようでは、娯楽を与えるというギャンブル本来の価値を失っている。


 ギャンブルに依存させて金に困る人間を増やし、その人間をカード会社が煽り立てることによって、下層の労働者はより精を出して働く。崇高な志を持たない人間を労働に駆り立てるには、金が手っ取り早いのだろう。人はパンの為に生きるにあらずという、擦り切れるほど使われた言葉は今はむなしく、今ではパンよりもおいしいギャンブルの為に生きる人間が労働力として溢れる。日本の社会では、人は金や物の為に生きるにあると奨励している。そう考えると、金回りを主とする資本主義経済において、パチンコ産業は労働意欲を促す重要な役割を果たしているのかもしれない。


 人を堕落させるものであっても、金を生み出すギャンブルは奨励され、生産性に乏しい、資本主義社会に適さない所謂廃人を生み出す麻薬は、断固として禁止される。現代の日本社会は自然状態を好む下等な人間よりも、資本を好む高度な人間を大切にするのだろう。


 大麻を罪とする日本の法にはそれなりの理由がある。しかしどうだろう、社会に与える影響を考慮するなら、現行の大麻取締法は少々軽い気がする。大麻の営利目的に対しての刑罰は妥当にしても、個人嗜好だけなら知人のように三ヶ月で解放される場合がある。大きな痛手でなければ、大抵の人間は再び大麻に手を染めることになる。多少の痛みはもはや無意味といっても過言ではない。大麻を本当に撲滅するなら、需要と供給の関係を断ち切らなければならない。供給の源である密売人を厳しく取り締まるのは当然として、需要の立場にある大麻常用者を減らさないことには、密売人は後から後から湧いてくる。


 需要を減らすには刑罰を重くすればいい。実際の効果に欠ける理屈をメディアがあれこれと語るよりか、おそらくはっきりとした現象を表すに違いない。自分が仮に為政者であるなら、大麻の所持に対して初犯であっても、最低禁固五年を定めるだろう。栽培・密輸・営利目的に対しては最低禁固十五年、如何によっては無期懲役もある。これでも多少甘いといえるだろう。そのかわり大麻取締法の海外への適用は除外する。喫煙を禁じたところで国外が手に入りやすい環境にあることは変わらない。重要なのは日本に持ち込ませず、日本で吸う気を起こさせないことだ。


 もしかしたら大麻取締法の強化によって受刑者が著しく増え、収容する刑務所が不足するかもしれない。その場合は過疎化した地域など、広大な自然が広がる地方を中心に小型の刑務所を建て、受刑者を農業に従事させて国の食料自給率の向上に一役買ってもらう。


 大麻喫煙者は自然状態を好むゆえに自然を愛する人間が割合多く、農業に対しての適正もなかなか期待できるものがある。ましてや栽培経験者はある意味で農業に携わった人間と言っても差し支えないだろう。それらの人間には大麻栽培の知識を農業に応用してもらい、大麻の代わりに野菜を栽培してもらう。ひょっとしたら農業に新たな人生の喜びを見出すかもしれない。


 田舎で刑期を過ごす間に、新鮮な空気と太陽、水、風、土に感化され、競争社会にはない純粋な労働に対する意識を呼び覚まされ、自然への畏敬の念を植え付けられるだろう。自らで育てた作物によって食事をまかない、人間と自然の関わりを実際の経験として学び、自分ばかりに焦点を当てていた視野を、自然との共生を通じてすこしずつ広げてもらう。また残りの作物は近隣の幼稚園や小学校に提供して、農薬を使わない本来の野菜を味わってもらう。そうすることで未来の日本の基礎となる子供達に本物の味を教え、社会生活の発端である農業の大切さに目を向けてもらう。


 また刑期を終えた出所者は一般社会への復帰がたやすいものではない。そこで政府は農業技術を得た出所者に対して、跡継ぎのいないおよび人手の足りない農家を紹介して仕事を斡旋する。しかし犯罪歴のある人間を好んで雇いたいと思う優れた農家は少ないだろう。その場合には、跡継ぎが見つからずに困っている農家から政府が農地を買い取り、国営の大農場を用意して出所者に紹介する。その農場はもちろん刑務所で労働する田畑こそ望ましい。過去に犯罪を犯した人間が土の恩恵により更生して、新たに犯罪を犯した者へ指導する。同じ過ちを経験をした人間だからこそ心は通じやすいだろう。


 刑務所は社会不適合者を単に隔絶するだけの施設ではなく、新たな人生の役割を発見させるための更生施設である。概して都会の人間は打算的で人情に薄く、簡単に言ってしまえば機械に近い。それに比べ地方の人間は閉鎖的ではあるが、情に厚く人間本来の暖かみを宿している。それは環境がそうさせるのだろう。のどかな地に生活することで、受刑者も凝り固まった角がとれるかもしれない。


 それらを実施することで麻薬使用者の減少、社会風紀の安定、農家の増加、国の食物自供率の増加、工業と農業の両立、国の安定とつながるだろう。麻薬取締法を改正することで、汚染された人材を有効に活用して農家に育て変えてしまえば好い。




 はたと仰向けになり田原が天井を見つめる。頭は空想に侵されて異常なほど活発に働いている。これではどうも寝つくことが出来ない。同じ居室の真田は鼻腔にひっかかったような鼾をたてている。パクは身動きせずに静かにしている。田原はまた考える。



 今日という、この先忘れることのない日を終えるにしては、不思議と頭は疲れていない。むしろすこぶる調子が良い。これはどうしたことだろう。しかしそろそろ眠らなくては明日の取調べの際、再びあくびに悩まされる。麻薬取締法の強化について、起こりえる弊害を模索したいところだが、きりがない。そろそろ考えるの止めなくては。


 取り調べを担当した恐ろしい眼つきの警官が頭に浮かぶ。あの外見と中身の不一致した警官に、拵えた嘘の供述の続きをしなければならないと思うと、胸奥をねじるむかつきを覚える。


 先ほどまでの空想に現在の自分を当て嵌めてみる。これはどうもおかしい。日本人に生まれ、日本の社会の恩恵を受けてきた自分には、間違いなく法を守る義務がある。法に背いた報いをこれから受けるのも当然のことだ。しかしあくまでそれは建前だろう。


 やはり自分は大麻を吸ったことに何一つ罪を感じない。それははっきりしている。そのかわり、あの恐ろしい眼つきの老警察管に虚言を吐いたことに、なにやらばつが悪くてしかたがない。



 田原は寝返りをうち、白い壁に目を向ける。鼾の重奏が聞こえてくるが、パクは相変わらず静かである。

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麻油 酒井小言 @moopy3000

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