第2話
白髪頭の警察管の眼が鋭く、まるで犯罪者のような面をしている。そのわりにもの柔らかに取調べする。見下げた態度はほとんど見えず、風船でキャッチボールをするようにおだやかな取り調べが続いていた。
人生を左右する重要な戦いのつもりで整えた腹構えに、思わぬ肩透かしを加えられて、田原はほっとしつつも幾分物足りなさを覚えていた。そればかりか、捏造した発言に微塵も疑いを挟まず、静かに調書を書き続けている警察管に対して、やけに申し訳ない気がしてしまう。
自らを欺いてこそ発言に信憑性が増すと田原は考えている。今回所持していた大麻はもちろん渋谷で買ったものではない。だが以前渋谷で大麻を買ったのは事実である。それを基に、所持していた大麻は渋谷で買ったと真剣に思い込むことにしていた。
クラブに行った時に所持していたのが栽培した大麻で、今回のは実は渋谷で買った大麻だ。それも彼女と同棲した記念で六日前に購入したのに、なんで自分は勘違いしていたのだ。取調べが始まる直前まで、自分の記憶が間違っていたと繰り返し反省した。そうすることで、発言する渋谷の大麻に真実が帯びるのである。
ところが白髪頭の警察官の態度はそんな田原の記憶をやわらげて、思いもしない手段でベールを剥がしにかかる。田原を疑ってかかる無骨な警察官であるなら、しかと身構えて自己を偽りきるだろう。手強い相手になればこそ比例して身を引き締めるもので、強者に対しては自然と油断できない。そのかわり弱者に対してはつい手が緩んでしまう。切れ長の一重まぶたの恐ろしい眼つきとは正反対に、慈愛あふれる老警察官の振る舞いに田原の仮面は脱げてしまいそう。
唇を震わせてあくびを我慢すると、田原の右目から雫が垂れる。それを手の平で一拭きすると同時に前方の扉が開き、赤ら顔の警察官が黒いパックの弁当を持って入る。
「村上さん、夕食を持ってきました」厳しい顔を湛えて低い声で話す。
「おお、ご苦労さん、もうそんな時間か」
白髪頭の警察官がそう言うと、その日の取調べは終了した。赤ら顔の警察管から田原は弁当を受け取った。見ると中身はそぼろ丼である。
夕飯を食べていると、白髪頭の警察官がプロ野球の話を始め出す。ペナントレースのデータを毎日必ず更新する田原は、迂闊にも首位のチームの話で会話が弾んでしまった。白髪頭の警察官が、最近のプロ野球選手の弱体化および仕事の分業化を嘆くと、田原は現代社会の合理性を説明してから、今のプロ野球への流れは当然の結果であると述べる。
白髪頭の警察官は田原の説明がいっこうに理解できない。ところが話には妙に感心したらしく、あんたは頭が良いとほめる。田原はつい照れてしまうものの、調子に乗って、大資本を持つチームの野球界を考慮しない分別のない補強を批判する。それから現代と一昔前の野球の特徴を簡潔に述べてから、昔のプロ野球を見れなかったのが残念だと話した。昔のプロ野球選手は骨があり、今の選手は“もやし”だと警察官は言った。田原はプロ野球最後の英雄は清原であり、清原の引退が今後訪れることのない英雄時代の終わりを告げていると述べた。
大麻所持について田原は罪を感じていない。そのかわり、白髪頭の警察官に対して嘘をついたことに妙な極まり悪さを覚え、心底ではひりひり痛んでいた。徳の欠片さえ持ち合わせない、横暴な警察管であったらこんな目に合わなかっただろう。厳しい追及をかいくぐり、してやったりと達成感さえ覚えたかもしれない。白髪頭の警察管が凶悪な眼つきに見合う人柄であったらと、田原が思わずにはいられなかった。
弁当を食べ終わり警察官にもらったタバコを吸い終わると、再び手錠をはめられ、つながれたロープに引かれて留置室へ連れて行かれた。扇型の部屋の中心に留置担当官は座り、弧に沿って並ぶ居室を見張っている。田原は象牙色の鉄格子の奥から幾多の視線を感じた。
留置担当官からおおまかな説明を受けると、タオルと歯ブラシ、歯磨き粉を買わされた。田原は呆気にとられた。旅館に泊まれば、あたりまえにタオルと歯磨きセットをいただける。もちろん留置所と旅館とでは甚だ差があるにしても、国家の治安を守る公共機関が地方の民宿にも劣るしみったれとは、自分を育て守っている国の制度に田原は情けなくなる。それとも国家の法を犯す不届き者は国民にあらず、あてがう要もないのだろうか。
留置担当官からチンピラ役の衣服と間違う程のスウェットを渡され、服の値段と三食の代金について田原が訊ねると、くだらないことを叩くなと強烈に凄まれた。
上下とも金の刺繍のはいったスウェットに着替えて、貴重品をロッカーにいれる。十の番号をもらい田原は居室に入れられた。
四畳間の畳部屋は意識を漂白させる為であろうか、白い壁面に囲われ、奥隅には小窓のついた便所がある。ふけでもついてそうな乱れた髪の男が、中年太りした体を壁に寄せて膝を立てて座っている。また淡白な面持ちの坊主頭の男は、背筋に芯を入れてあぐらをかいている。二人とも待ち構えていた田原を見つめる。田原は二人に小さく頭を下げた。
「パク、この男にここでの生活を教えてやってくれ」
留置担当管がそう言い、居室に錠をかけた。二人の中間に田原は腰を下ろし、慇懃に自己紹介をすると、二人は進んで話しかけてきた。中年太りが真田と言い、坊主頭がパクと言うと、二人揃って罪状を訊ねる。田原が簡単にいきさつを伝えると、留置生活についての講釈が始まった。
パクが主に説明して真田がちょいちょい補足する。就寝までの出来事を伝えて留置生活一日の流れを教えると、明日はどんな食事が出てどんな食べ物が一番おいしいか、本は一冊で多く時間を消費できる、協力して同じ漫画を借りたほうがよい等、最大の楽しみである食事の献立や、借りられる本の数と時間帯を詳しく説明する。これ以上は留置生活を分析できないのではないか、と思われるほどパクは留置生活に詳しく、またそれほどに単調な生活だった。
留置生活の講釈が終わると、田原の罪状と証言を基にパクが刑罰についての憶測を話す。初犯であり、所持量も少なく、営利目的でない。ここでの生活は一ヶ月程度で済み、よほど悪くなければ懲役はなく執行猶予でおさまるだろう。田原も自分の持てる知識に照らして、あながち間違っていないと思った。
それから東京地検での前時代を思わせる扱いぶりをパクは話す。留置生活の多識ぶりを形作ることになった原因に田原は興味が湧いた。
おそるおそる訊ねてみると、パクはうれしそうに話してくれる。言葉に途切れるところがなく、理路整然で弁が立つ。流暢な日本語のパクの話に、田原は踏み慣らされた道を覚えるようだった。
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