麻油

酒井小言

第1話

 取り調べが二時間続いている。田原は口元をぐっと締めて込みあげるあくびを堪えた。火照った体がさらに熱くなり、涙がうっすらとにじむ。


 調書を記述している初老の警官は一度手を止め、持っていたタバコを灰皿に押しつけた。閉めきった取調べ室に意識が遠のきそうな暖房の音が静かに響き、灰皿から消えずにいるタバコが煙をあげる。


 田原は手を伸ばし灰皿の煙を消した。警官は灰皿に目をやり、「おお、すまんな」と言って調書を記述し続ける。


 パソコンを使って当然の時世に、なぜこの警官は手書きで調書を作るのだろう。取り調べの始まった直後に田原は疑問に思ったが、警官の白髪頭が眼に映ると、くだらないことを考えたと反省した。


 またあくびを堪えた。この警官にとっては、パソコン入力より手書きのほうが早いだろう。それはわかるが、どうしてパソコンが使えないのだ。目の前の警官のかわりに自分が調書を入力できないかと、田原が考えずにはいられない。


 警官から質問を発せられると、田原はそれに答える。それを聞いて内容を記述するが、次の質問までの間がどうも長く感じられ、酸素の薄い温い部屋の空気に間断なく眠気を誘われる。


 またあくびが漏れそうになる。目に溜まった粘っこい涙は、あと二三度あくびを我慢したらこぼれそうだ。まあ、あくびや涙はよいとしても、捕まるまでの真相をこぼすわけにはいかない。田原はそう考えて、寝ぼけそうな頭だからこそ気をつけて応答しなければならないと、自分の発言の筋道を再度確かめた。




 青年、田原安則は大麻取締法違反の容疑で逮捕された。逮捕されたのは取り調べの始まる二時間前である。渋谷近辺の牛丼屋で昼飯を済ませてから、駐車場内にてパイプを使用して乾燥大麻を喫み、国道二四六号線三軒茶屋付近を走っている最中に白バイ警官に停められた。シートベルトを着用していなかった。


 応対の際、そわそわして落ち着かない赤い眼の田原に、不審に思った眉毛の太い白バイ警官が車内を調べたところ、ダッシュボードからポリエチレンの袋に入った乾燥大麻約一グラムと、喫煙に使うスチール製のパイプが出てきた。パイプの胴には白い班の入った赤いキノコの画がプリントされていた。それから十分も経たないうちに、角砂糖に群がる蟻のごとく、一人の被疑者に対して異常な台数のパトカーが集まり、現行犯として田原はその場で逮捕された。


 住まいが神奈川県厚木市のはずれである田原は、車内を調べられた過去がないせいか、警察に対していささか無用心であった。大麻を覚えたての頃はバンパーの裏に隠していたが、注意力の乏しい呑気な田舎の警察がそんな田原の努力を徒労に思わせ、しだいに隠し場所は車内に移り、手の届く範囲におちつくことになった。夜ならまだしも、まさか昼間から車内を調べられるとは田原は思ってもいなかった。


 白バイに停められた直前からの激しい胸の動悸は、パイプが発見されるのを頂点に次第に落ち着きを取り戻した。そのかわり全身から苦い汗が噴き出して、田原の情緒を絶望が覆い、決してぬぐえない現実に体の力は抜けて呆然とするしかなかった。警察の言葉には意味を汲まずに返事するのみで、後悔の念にとらわれたまま、力なく口を開けて中央分離帯を見るしかなかった。


 パトカーに乗せられ管轄の警察署へ向かって発進する時になって、ようやく田原は現実に注意が向き、警察署についてからのことを思案できるようになった。


 田原は中学生の時に恐喝、傷害、高校生の時に窃盗、そして不法侵入で警察と関わったことがある。どれも厳重注意であっけなく片付き、少年院どころか鑑別所に入るようなこともなかった。事件自体が重大なものでなく、分別の欠ける子供の出来心だとしても、担当した警察官に恵まれていたのだろう。ところが田原は取調べ時の、自らの態度が大きく影響されていると思い込んでいた。


 田原はパトカー内で考えた。相手は犯罪者に対してのプロであるとしても、自分と同じ人間だ。感情に左右されることはほとんどなくとも、わずかに揺れることはある。相手にどれだけ同情を抱かせるかによって刑の重さは大きく左右される。警察官といえば、正義を求める人間の職業だ。そんな人間が好みそうといえば、誠実だろう。誠実な人間には誰もが感心しないではいられない。過去の取調べの際、経緯をごまかすことなく述べて、しかと反省したからこそ罰をうけずに済んだのではないか。


 絶望にふける時間はもうない。目前に迫る出来事に備える必要がある。田原が頭に活力は戻り、昼食後の一服でぼやけた頭に思考力が働いた。


 取調べは毅然とした態度で臨まなければならない。かといって、度が過ぎて鷹揚な態度になってもいけない。ましてや勇気を持ちすぎて、挑発をするなんてもってのほかだ。また多少は相手に優越感をもたせる必要があるにしても、大袈裟にへつらってはいけない。自己弁護、もしくは大麻擁護をするのもいけない。軽口も叩いちゃいけない。相手の質問に対して、余計な言葉を省いた返答をする他必要ない。素直、正直を旨とするのだ。


 そう思い巡らしていると、やたらに足を広げて座る左隣の警察官が、「まったく、馬鹿なことをしたもんだ」と声をかけてきた。田原は目も合わせずわずかに頷いた。


 田原は再び考えた。心構えは整ったとしても、まだ発言の根本となる事件の経緯が定まっていない。過去に警察の厄介になった時は真実を正直に述べるだけで済み、また小細工する必要もなかった。だが今回は違う、まともに話せば面倒なことになるとはっきりしている。




 田原は大学で知り合った友人から大麻を覚えた。初めて見た時は新聞やニュースで知る凶悪な麻薬として接した。タバコの葉よりも茶色く、ぽろぽろしていた。友人に勧められると、世間から植えつけられた先入観により恐怖を覚えたが、それよりも単純な好奇心が勝った。ところが吸ってみたところなんら効果がなかった。


 後日、再び吸う機会に恵まれた。今度は自ら進んで吸い求めた。量が多く、てきめんに効いた。すっかり気に入った田原はその場で購入方法を教えてもらった。


 月が経つごとに使用量は増えていき、生活費の八割を占めるようになった。大麻の為にアルバイトをしているようなものだった。


 一年が経つ頃には、大麻の購入について見直していた。一グラム五千円、良質な大麻で八千円、たいてい三日で無くなり、長くて五日、友人と遊ぶと一日で無くなることがほとんどだ。大麻が田原の生活を圧迫していた。大麻に関する知識が肥えてきた影響もあり、必然と栽培に向かうことになった。栽培方法は書物とインターネットで仕入れ、借りている部屋の押入れを栽培室として試みた。


 初めての栽培にしてはうまくいった。質はさほど悪くなく、友人達の評判も上々だった。支出は光熱費及び材料代のみで、人からの購入に比べてうって変わって安くなり、反対に収入が入るようになった。


 三年もすると田原の環境に見合った栽培方法が確立されて、比較的安定した大麻の収穫が見込めるようになった。ところが新しい彼女ができて栽培を止めることになった。今までは付き合った女性の為に栽培を止めるようなことはなく、栽培を止めるぐらいなら付き合いをやめる考えの田原だが、今度の彼女にはぞっこんに惚れこんだ。容姿が優れて素晴らしく、徳を備えた性格でもないが、ただ耳たぶがやけに大きい女性だった。


 必然と同棲することになり、そのため借りている部屋から大麻の苗を片付けなくてはならない。彼女との生活をあきらめるか、それとも大麻を追い出すか、田原は選択を迫られることになった。もっとも迷うことはなかった。


 最後の収穫を終えると、栽培器具と有名種子会社の種、それに田原独自の栽培方法を記したデータ一式を譲り渡す条件として、収穫した大麻を友人の部屋を使って乾燥させてもらう約束をした。それから間もなく、田原の部屋の押入れをしかと確認してから彼女が一緒に住み始めた。やけにミントの消臭剤臭い押入れは、新しく彼女の荷物を収納した。


 彼女が移り住んで六日後に田原は逮捕された。




 所持していた大麻は自ら栽培して収穫したものだ。入手経路を正直に告白すれば、自分の失策が多くの人に燃え移るのは明らかだ。


 田原はパトカー内でさらに考えた。では、どんな入手経路にしたものだろうか。参考として、今までに友人以外から入手した大麻を、大麻染め初めの頃から順に追うことにした。


 まず浮かんだのがピエールという国籍不明の白人男性だ。金色の巻き毛の似合う茶目っ気な大男で、年齢は三十代ぐらい、地元の友人のほとんどが顧客だった。電話連絡で待ち合わせ時間を確認してから、地元から車で三十分ほどにある新興住宅街の小さな公園にて、ピエールの黒いワゴンに乗り込んで受け渡しを行う。よほど都合が悪くなければその日に受け取ることができる。また一定量を買うと大麻樹脂をおまけとしてもらえる。一年ほど世話になったが、ある日、あまり親しくない知人とほぼ同時期にピエールは音信不通になり、その三ヵ月後に保釈された知人から逮捕されたのだと知った。


 次に髭の剃り残しが激しい、シャリフという名のイラン人男性が浮かんだ。正しいかわからないが、友人がイラン人だと言っていた。地元を貫く国道沿いのファミリーレストランの駐車場が受け渡し場所であり、電話すれば必ず手に入れることができた。ただし質が悪いので数度しか購入していない。ピエールが姿を消した二ヵ月後、シャリフは攻撃性の高い地元の知人連中に受け渡し場所で襲撃されたらしく、顔をハンマーで叩いてきた一人の腕をへし折ると、鼻血を流したまま逃走した。それ以来姿を見せることはなかった。


 それから渋谷のセンター街にいるイラン人を思い出した。この人間もイラン人かどうか本当はわからない。一年前、渋谷のクラブに向かって歩いている途中、髪を七と三に分けた口髭の男に声をかけられ、大麻を買わないかと誘われた。一緒にいた友人と田原は危ないと思いつつも、手持ちの大麻が残り少なく、クラブでひもじい思いを避けるために、意見を衝突させることなく購入することに決めた。その四ヵ月後にも別のイラン人から渋谷で購入した。


 田原は渋谷のイラン人を使うことに決めた。

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