ハナテ 三(終)

 地球の到着ポイントは夜のエリアで、夜空には少し欠けた月が浮かんでいた。

 僕は地球を一周するつもりだ。あちこち見て回りたい。

 眼下に建物の名残が広がっている。廃墟よりもずっと朽ち果てた残骸。かつてジャパンコロニーと呼ばれたエリアだ。僕たちが生まれた場所。度重なる地震と海流の変化によって急速に荒廃したのだとヒロナが教えてくれた。懐かしいとは思わなかったけれど、少しの寂しさは感じていた。

 ヨダカの案内で地球の北のほうを飛ぶ。北極圏までは行かない。大会の時とはうってかわって、分厚い雲が北極圏を覆っていた。雲の下も白く見える。ブリザードだろう。あそこを飛ぶのは危険だ。大会の時には天候が良かったけれど、北極圏の天気は目まぐるしく変化する。特に夜になると視界を白く染めるほどの猛吹雪に覆われる。局地的な異常気象は北極圏以外にも地球のあちこちで観測されている。

 地平線が赤く染まり始めた。あの辺りはまだ夕暮れなのだろう。僕は夕暮れに向かって飛んだ。

『海辺に着陸できますよ。大気が安定しているので外に出ることも可能です』

 ヨダカがそう言ったので、僕は横目でユキを見た。ユキは黙って頷いた。僕は高度を下げて、案内されているポイントに着陸した。砂の上だ。風で砂が舞い上がった。僕はルリちゃんとヒロナに手伝ってもらって、機体から降りられるように梯子型の簡易タラップを取り付け、ユキを背負ってタラップを降りる。ユキの体はあまりにも軽くて、まるでユキの形をした軽いガラスの塊を背負っているような気がした。僕は泣きたくなったけれど、やるせない気持ちを心の奥に仕舞い込んだ。そのままユキを背負って砂浜を歩いた。呆気にとられるほど軽い。体温も低い。ブーツが少しだけ砂に沈み込む。波打ち際でルリちゃんとヒロナが駆けている。水平線の彼方に沈んだ太陽の名残と月明かりが辺りを仄かな光で包んでいた。ルリちゃんの髪が潮風になびく。点滅している星は宇宙船の光だ。

「愛おしい」

 背中のユキカゼがそう言った。

「この世界の何もかもが愛しく思えるよ」

 ヒロナの足跡が波にさらわれて消える。ユキカゼの声も波の音に消されてしまいそうだった。

「離れがたい。でも、連れて行けない」 

 ユキの視線はヒロナを追っているのだろうか。遠くの海が発光している。生物なのか植物なのか、あるいは化学反応なのか、僕には分からなかったけれど、とても幻想的な光だった。

「なあ、ハナテ。ルリちゃんのこと、大事にしろよ。ヒロナのことも、よろしく頼む」

「分かっているよ」

「お前がシップマスターになってくれて、本当によかった」

 よかった、とユキは繰り返した。ユキを砂浜に降ろしても、きっと砂に足を取られて転び、折れてしまうだろう。きっと欠片を拾い集められない。砂に埋もれ、波にさらわれ、風に飛ばされて、分からなくなる。ユキもそのことは理解しているから、僕の背中から降りたいとは言わなかった。

 最期は地球が良いとユキカゼは言っていたけれど、それは無理な話だ。月の病室でその時を迎えるだろう。せめてその部屋からは、地球が見えていたら良いのにと思う。ユキの部屋のように。

「ユキカゼ」

 僕は名前を呼んだ。

「ひとつ、約束をしよう」

「約束?」

「じいさんが教えてくれた。ユキがいなくなった後、僕が果たすべき約束をひとつ、交わしておけばいいって」

「そっか。これが、きっと最後なんだろう」

 肩に回されたユキの手に一瞬だけ力が入った。

「それじゃあ、俺は、そうだな。俺は死ぬまで生きることを諦めない。ハナテは?」

 僕は深呼吸をして潮風を吸い込んだ。ちゃんと考えてきた。いや、最初から決まっていた。たったひとつだけ選ぶならば、これ以外に考えられない。

「僕は帰るよ、どこに行っても、必ず帰る。帰還の約束こそが、一番大切な約束だ」

 それは星を飛び回る僕たちにとって、自分と世界を繋ぐ大切な約束だ。たった一言でもいい。言葉じゃなくても構わない。だけど、再会の約束さえあれば、またここに戻る。果てしない宇宙の中でも、その約束さえあれば明日も生きていける。未来に希望を抱いて宇宙を飛べる。帰るべき場所がある、それがどれほど幸福なことだろうか。

「約束だからな、ハナテ。俺が見ていないからって破るんじゃないぞ」

「僕がいつ約束を破った」

「ああ、俺たちの約束はいつだって確かだったからなぁ」

 僕は空を見上げた。薄い雲の向こうに星空が広がっている。月も、火星も、まだ見ぬ星も。果てもなく広がる宇宙が静かに待っている。

「そろそろ帰ろうぜ。夜は冷える」

 ユキがそう言ったから、僕はルリちゃんとヒロナを呼んだ。二人は半透明で丸みを帯びた石を拾っていた。暗い緑色がどことなくユキの欠けた手首の輝きに似ている。

「はい、ユキちゃん。お土産にどうぞ」

 ヒロナがユキに石を手渡した。鉱石に詳しいルリちゃんが続く。

「ガラスが波で削られたものだと思う。こういうガラス、今はもう生産されていないから。私たちと一緒、地球の名残」

 僕とユキは一緒にガラス玉を覗きこんだ。世界が濁った緑色に映る。

「部屋に飾って大事にする。ありがとう」

 それから僕たちは地球を後にした。遠ざかる青い星をユキはとても名残惜しそうに眺めていた。もう訪れることの出来ない故郷を目に焼き付けるように。僕は出来るだけゆっくりと、地球がよく見えるように飛んだ。


 ユキカゼが息を引き取ったのは、それから二ヶ月と少し後のことだった。体の先から少しずつ結晶化して、結晶化したところから少しずつ欠けていって、最期は全身が宝石のようだった。今、宇宙に放り出せば、彗星のような尾を引きながら、そのまま軌道を保って飛んで行くのだろうか。周期が来れば、流星群のように降り注ぐのではないだろうか。僕はそんなことを考えながらユキの閉じた瞼を見ていた。二度と開くことはない。睫毛まで繊細な宝石みたいだった。ユキの命が尽きても、宝石の輝きが失せることはなかった。細かく星屑のようになったユキの欠片が、それでもなお瞬く星のように光っていた。

 侵食崩壊性宇宙症候群。

 原因も治療法も分からないその病を、人類は、せめて星屑症候群と呼んだ。星に願いを掛けるように。あなたは確かに生きたのだと、その輝きを抱きしめるために。

 どうしようもなく悲しくて、悔しくて、荷物が片付けられて空っぽになったユキの部屋で僕は泣いた。この日が来ることを理解していたし覚悟もしていた。もう会えないと分かっている。けれど、行かないでほしかったと心がごねる。涙が涸れるまで、声が掠れるまで僕は泣いた。もう戻らない日々が懐かしく、あの笑顔が忘れられず、一緒に過ごした何もかもが愛しくて、悲しくて、仕方がなかった。もうどうしようもなく、どうしようもなく、切ない。

 けれど、心のどこかで安心していた。それは、ユキは最期まで生きることを諦めなかったから。すべてが星屑になる最期のその瞬間まで、ユキカゼは笑っていた。笑って僕の名前を呼んだ。やっぱり、ユキカゼは僕の親友で、僕たちの約束は決して破られることなどない。

 ユキを看取って分かったことは、僕はこれから一生、もう二度とユキのような親友が出来ることはないということだ。それから、永遠の別れは、永遠の悲しみではないということ。僕は悲しいだけではなかった。悲しいのは本当だ、でも、もう大丈夫。僕は立ち上がって深呼吸をした。

 今度は僕が約束を果たす番だ。

 泣き疲れた僕は瞼の腫れが引かないまま、機体に乗り込んだ。酷い有様、とヨダカは言って笑った。

『イグニッションシーケンス、スタート。オールエンジン、ランニング』

 コックピットにヨダカの声が響く。システム、オールグリーン。カウントダウンが始まる。僕は操縦桿を握る手に力を込めた。ルリちゃんとヒロナに、ユキカゼの欠片を渡さなければ。それぞれの場所で、ユキが残してくれた輝きは、強い光を放ち続ける。永遠に。僕たちの変わることのない友情のように。

 三……二……一……。

 発射の合図とともに、僕は右手のレバーを一気に引いた。すかさず左手のレバーを半分ほど倒す。火を噴くエンジンが月面を熱くする。加速、加速、上昇。重力がのしかかってくる。希望が溢れ出す。もっと強く、もっと確かに。

 僕は果てなき宇宙へと飛び立った。


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さらば、僕らの流星群 七町藍路 @nanamachi

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