ハナテ 二
飛び立った同じ場所に帰って来た。エンジンを逆噴射させて速度を落とし、着陸する。機体はゆっくりと停止した。完全に止まったのを確認して、僕は主電源以外の電源を落とした。
「ヨダカ」
名前を呼ぶと、ヨダカは宙返りをしてからコックピットの窓際に座った。
「ありがとう、楽しかった」
ヨダカは自慢げに鼻を鳴らした。
『地球はとても美しい星だったでしょう?』
「ああ」
僕はシートベルトを外した。体がやっと自由になる。グローブを外して操縦席の肘掛けに置き、それからゴーグルを首から掛けた。防護ジャケットを背もたれに引っ掻けて、僕は操縦席に沈み込んだ。
「懐かしかった?」
『ええ、とても。オーロラを探して北極圏をよく飛びましたからね。耳を傾ければ、氷の中から過去の音が聞こえます。氷が出来るときに回りの空気を閉じ込めたのです』
そう言うと、ヨダカは窓の外に目をやった。僕は目を閉じて、氷の大地を思い出す。過去の空気が含まれているのなら、そこにヨダカが生きた時代の空気もあるのだろう。ヨダカの声が聞こえるだろうか。夢見がちなことは、口には出さない。たとえばヨダカが飛ぶ姿を見てみたいと思っても、言葉にはしない。
僕は目を開けた。笑いが込み上げてきて止まらない。飛びきったあとのすがすがしい達成感が心を満たす。
『オールシステム、コンプリート。破損なし。エンジンを冷却中。すべてのロックを解除します』
ヨダカの声に僕は立ち上がった。余韻に浸っている場合じゃなかった。そろそろシップキーパーがやってくる。機体を格納庫に牽引するのだ。僕は大きく伸びをした。長時間同じ体勢で操縦席に座っていたから、背中のあたりがポキポキと鳴った。
『ハナテさん、外』
窓の外を見ていたヨダカが僕を呼んだ。僕はヨダカの隣に並んで窓の外を見る。展望ラウンジやデッキに人が大勢いる。みんな笑顔で手を振っている。僕は泣きたくなる。
あの日、両親や多くの人たちが迎えたかった、この瞬間。地球を再生して帰って来たら、待っているはずだった帰還の時。
ああ、そうだ。
最期の約束なんて最初から決まっていたじゃないか。
僕はコックピットを出て、タラップが設置される前に飛び降りた。滑走路に両足で着地する。すぐに駆け出した僕をシップキーパーたちが呼び止めているけれど、その声が届かないふりをする。一歩踏み出すたびに、首のゴーグルがガチャガチャと音を立てる。僕は展望デッキの下まで走り、大きく手を振った。群衆の中からでも見つけ出せる。ひらひらと手を振るユキカゼ、一生懸命手を振り返すヒロナ、それから。
「ルリちゃん!」
僕は名前を呼んだ。二人の隣にルリちゃんがいた。来てくれているだろうという期待が半分、もう会えないかもしれないという恐れが半分。だけど、ルリちゃんは来てくれた。
「ルリちゃん!」
僕はもう一度ルリちゃんの名前を呼んだ。大勢の前で名前を呼ばれたルリちゃんは、本当に自分のことかと周りを見回して慌てているようだった。ルリちゃん以外に、誰がいると言うのだろう。ルリちゃんは僕を見た。喧嘩をしていたから、少し気まずそうな表情だ。だけど、喧嘩のことはまたあとで謝ろう。今はただ、言わなきゃいけないことがある。僕は深呼吸をした。煙混じりの乾いた空気を深く吸い込んでゆっくりと吐き出す。さあ、伝えなきゃ。次々と戻って来る機体の音、歓声に負けないくらい、大きな声で。
「結婚しよう!」
ありったけの力を込めて、迷うことなく、僕はそう叫んだ。
亜麻色の長い髪が風に揺れている。驚いた顔が、三回の瞬きで、耳まで真っ赤に染まる。ルリちゃんは両手で顔を覆うと、大きく頷いた。
一際大きな歓声が上がった。拍手が鳴り止まない。祝福の声が遠く火星まで届きそうなほどに響いている。ヒロナはルリちゃんに抱き付いて泣き出し、ユキカゼは欠けた両腕を高く掲げていた。僕は振り返った。牽引されていく機体の窓の奥で満面の笑みのヨダカが泳いでいた。僕はどんな顔をしているだろう。きっと、世界で一番幸せな表情だ。
数時間後、僕は表彰台の一番高いところに立っていた。シップマスターのリーダーからプレートを受け取る。火星で採掘されたマーズコーラルと呼ばれる赤い鉱石に今日の日付や僕の名前が刻まれている。前回は同じように火星産のクリスタルだった。航海中に割れてしまうのも惜しいから、シップマスターの月面施設に預けている。今回のプレートも預けることになるだろう。
「ハナテ君、海中散歩は楽しかったかい?」
リーダーが僕に尋ねた。僕は頷いて、クジラのことを伝えた。リーダーは興味深そうに頷いた。
「地球に帰る日も、そう遠くはないかもしれないね。君たちの孫の時代くらいには、再び人類は地球に立つだろう」
その言葉に、僕は勇気づけられた気がした。両手で抱えるプレートがずっしりと重い。
「ああ、そうだ。結婚おめでとう」
もうリーダーのところまで伝わっていたのか。僕は今になってとても照れ臭くなった。
それから、格納庫でシップマスターたちに揉みくちゃにされていたが、ユキカゼからのコールでようやく解放された。三人はラウンジにいるそうだ。僕は端末を抱えてラウンジに向かった。端末の中のヨダカが機嫌よく鼻歌を歌っていた。知らない歌だった。多分、昔の歌なのだろう。
ラウンジは大会を見に来た人たちでいつもよりも賑わっていた。人波の中、窓際のテーブルに三人の姿を見つけた。誰かの端末を覗きこんでいる。テーブルの上には四人分の、あの不味いドリンクがあった。
「ハナちゃん、お疲れ様!」
僕に気付いたヒロナが端末から顔を上げて言った。笑顔を輝かせている。本当に、眩しいくらいに笑う。僕はルリちゃんとユキカゼの間に座った。正面のヒロナが僕に端末を手渡した。大会の映像だ。
「ハナテが水中に飛び込んだ時、ああもう終わったなと思ったぞ。ヒロナもルリちゃんも顔が真っ青になって」
ユキがそう言った。折れた手首は相変わらず綺麗な色を放っていた。テーブルの下でゴツンと音がした。多分、ルリちゃんかヒロナのどちらか、あるいは両方が、ユキの足を蹴ったのだ。壊れ物なのだから、優しく扱ってあげてくれ。
「ユキちゃんが一番オロオロしていた」
「そうよ。もう見ていられないって帰ろうとしたくせに」
二人からそう言われたユキは慌てて僕にドリンクを渡した。
「そんなことより、優勝祝いだ」
僕はドリンクのフタを開けて、いつもの癖でルリちゃんにそれを渡した。受け取ったルリちゃんの頬は淡い赤に染まっていた。
「おめでとう、ハナテ。格好良かったよ」
ルリちゃんが笑ったから、つられて僕も笑う。
「ね、本当にハナちゃん、すごいね。鳥みたいだった」
ヒロナがそう言ってくれて、とても嬉しい。だって僕は鳥と一緒に飛んでいるから。
「ありがとうな。約束、守ってくれて」
ユキカゼの言葉に僕は頷いた。当たり前だ。僕たちの約束は絶対だから。僕たちはドリンクのボトルを高く掲げた。こういう時の掛け声はユキの役目だ。
「ハナテの優勝を祝して、乾杯!」
ドリンクを一口飲む。不味い。本当に不味い。この独特の苦みはいつまでたっても慣れない。後味まで苦い。味覚が少し麻痺している僕でもこれだけ不味いと感じるのだから、みんなの眉間に深い皺が寄るのも納得だ。苦いよぉ、とヒロナが目をギュッと瞑って呟いた。
「でもさ、いいよなぁ、海の中。見たこともない」
ユキがテーブルに頬杖をついた。テーブルに当たった肘がカチャンとガラスがぶつかるような音を立てた。結晶化が進んでいる証拠だ。
「見てみたい気もするし、だけどちょっと怖いよね」
そう言ったのはルリちゃんだ。ユキが頷く。月と火星、海のない星で暮らす二人にとって、海とはとても遠いものなのだ。
「私も近くで見たことはないけれど、でも、素敵な場所だよ。白い波が浜辺に打ち寄せて。とっても不思議」
ヒロナが言うと、ユキは僕を見た。
「行こうぜ、海」
「今から?」
「そう、今から。明日の昼までには月に戻ってこられるだろ?」
「僕は別に構わないけど」
明日も技術大会だ。地上職の大会や、他の部門がまだ残っている。僕はもう出場するものはないから、どうせ暇だ。僕はルリちゃんとヒロナを見た。
「一緒に乗っていく?」
「もちろん」
「ハナテの操縦なら、どこまでも行けるよ」
多分、これが最後のチャンスだということを僕たちはみんな分かっていたと思う。次に四人全員が揃う機会はない。ユキの体はもう待てない。離着陸の衝撃に耐えられるのは、今しかない。誰も口にはしなかったけれど、これが最後だ。
「ヨダカ」
僕は端末のヨダカを呼んだ。僕が指示を出さなくても、画面にはすでに地球へ出発できる発射台の利用時間が表示されていた。表示されている時間ならば、発射台に空きがある。僕は機体の整備も考えて一時間後の利用を申請した。それを三人に伝える。
「発射は一時間後。だから、三十分後にターミナルの第二格納庫に集合して」
僕はドリンクを一気に飲み干し、立ち上がった。
「ハナちゃん、もう行くの?」
「機体の準備をしなきゃいけない。ああそうだ、これ」
空になったボトルを小さく振る。
「口の奥、舌の付け根に流すイメージで飲むと、意外と苦くない」
僕はそう言い残してラウンジを後にした。苦いじゃないかというユキカゼの声が追いかけてきたが、僕はひとりでこっそりと笑った。
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