ハナテ 一
「シップマスター競技大会、短距離星間往復部門、出場者の紹介です」
大会会場にアナウンスが流れている。今日は祭り日和だ。月の重力変換装置も大気維持装置もシステムはすべて快適に作動している。この大会を見るために各地から人が集まった。ほとんどの仕事の稼働率は低いが、大会開催中は仕方がない。これしか娯楽がないのだから。シップマスターだけはいつもと同じかそれ以上に稼働している。みんなの移動手段を担っているのだからやっぱり仕方がない。
スタート地点にいくつもの宇宙船が適切な距離を保って並んでいる。今日の月は人口が多いので、いつもよりも大気が濃い。本来の月のままでは大気が宇宙に逃げてしまうので、重力や濃度を調整することによって人工的に大気を生み出している。開拓時代は重力の調整が最も複雑な課題だったらしい。今でも膨大なエネルギーを費やしている。人間はそれぞれの星の環境に適して変化することが出来ない。だから、地球を捨てるという決断の重さがのしかかってくるし、人類が生きるべき場所は他のどの星でもなく地球だけなのだと思い知る。
僕は操縦席に座り、コックピットの窓から外の景色を眺めていた。緊張していないと言えば嘘になるが、それ以上に高揚感がある。飛べることの喜びが内側から溢れてくる。
『天気晴朗なれども風冷たし』
コックピットの中を泳ぎ回るヨダカが地球の状況を教えてくれる。
『珍しく北極圏の上空に雲がありません。突入時、被雷の恐れはありません。この気温だと水飛沫が凍結する可能性が高いですね』
ヨダカはくるりと向きを変え、後ろを振り返るような体勢で外を見た。
『あ、ユキカゼさんとヒロナさんが見えますよ。アマツさんとルリさんは見当たりませんね』
窓際でヨダカが外に向かって手を振った。僕はすでにシートベルトを締めているので、ヨダカが見ている方向を見ることが出来ない。ゴーグルをかけて、グローブもはめ、衝撃に備えるジャケットも着て、システムはオールグリーン。いつでも飛び立てる。
リーダーはいつも仕事に追われている。すべての人類をまとめているのだから忙しいに決まっている。だからじいさんは分からないと言っていたけど、僕は無理だろうと思っていた。
ルリちゃんは、あれから一度も話をしていない。こんなにも長い間、連絡を取り合わなかったのは初めてだ。火星に行っても訓練で忙しかったし、最近は宇宙ステーションを巡るルートが多かったから。仲直りをしなければ後悔するということは分かっている。
管制塔からの指示がコックピットに流れ始めた。いよいよスタートだ。落ち着け、集中だ。前方の窓にカウントが表示される。僕は操縦桿を握りしめた。
エンジンが火を噴き、風で風を吹き飛ばす。体を押さえつける、唸り声に似た振動。熱風が大地を燃やし、大気を焦がす。空間を切り裂くように飛び立つ大きな翼が、乾いた月面にいくつもの影を映す。音に追い付け、光を追い越せ。金属の塊が宇宙へと突き進む。
その一瞬、世界から音が消える。
轟音を響かせながら機体が一斉に発射した。いかに素早く正確に安定軌道へ入るかが最初の勝負の分かれ目だ。僕は操縦桿を上手く操って、他の機体の間をすり抜けるように抜かす。周りの機体はこの機体よりもずっと性能が良い。多少の無茶はしてもここでしっかりと飛んでおかなければ、あとが厄介だ。今は他の機体に食らいついて飛ぶしかない。
『安定軌道に乗りました。このスピードを維持すれば、地球の大気圏を突破できます』
ヨダカが最良のルートと速度を案内する。こうして安定軌道に乗っている間だけ、自動運転が使用可能になっているが、気を抜くことは出来ない。いつ好機が訪れるのか分からないから、常に他の機体の動きを意識しなければならない。小型で古い機体を使っている僕にとって、最大の勝負は地球でどれだけ速く飛べるかということになる。加速性能の差はかなり大きいから、氷柱の間の最短ルートを減速せずに飛ぶ技術が僕には必要だ。
最初のチェックポイントを過ぎた。大会の様子は中継されている。同時進行で月面のバードの大会も行われているので、今頃大いに盛り上がっているだろう。
いくつもチェックポイントを通過して、いよいよ地球の大気圏に突入する。猛スピードで降下すると下のほうに、青い海が広がっていた。
『空も海も、かつては清く青く輝いていました』
ヨダカが僕の後ろで言った。水面ギリギリのところで向きを変える。水飛沫が高く上がって光とともに降り注いだ。そのまま海を北上すると厚い氷の壁が見えてくる。北極圏だ。氷の壁の隙間からさらに北を目指して飛行する。両側が氷に囲まれた狭い地形を飛んでいると、前を飛ぶ機体の風圧で細かい氷の結晶がまとわりつくように飛んでくる。しかし、こっちに辿り着く前に氷は熱で水になるので雨の中を飛んでいるようだった。
『青いと一言で表現しても、実際には様々に表情を変えて、海の青も空の青も星の青も、すべて異なる色なのです』
ナビゲーションはどこにいったのか、ヨダカは青色の話ばかりをしていた。制限速度を設けても、それでも氷は削られているらしい。氷の壁にいくつもの筋が入っている。
『たとえば群青、深い海の色。紺碧、鮮やかな海の色。深縹は紫を含んだ深い青』
「ヨダカ」
僕はヨダカの話を遮った。
「そろそろ追い抜きたい」
『分かりました。ルートを検索します』
少しの間があってからヨダカは答える。
『この先、氷が薄くなっている場所が』
ヨダカの声が一瞬途切れた。しかし、次の瞬間、ヨダカが声を荒げた。
『エンジン全開! 上昇!』
僕はすかさずレバーを倒してエンジンを全開にし、高度を上げた。状況が掴めない。僕は前を見たままヨダカの指示を待った。
『後方の氷壁が崩壊し、雪崩が向かってきています。このまま逃げ切ります!』
唸りを上げるエンジンの音で分かりにくいが、確かに轟音が近付いてきている。後方でクラッシュがあったのか、あるいは熱風に耐え切れなくなったのか。巻き込まれたらひとたまりもない。僕は機体を縦に傾けて、すり抜けるように前の機体を抜き去った。速度を上げるとコントロールが難しくなり狭いところを飛びにくくなるが、今はそんなことを言っている場合ではない。燃料は宇宙に戻った時に調整すればいい。とにかく迫りくる雪崩から逃げなければ。
『ハナテさん』
ヨダカが僕の名前を呼んだ。頭上から声がしたから、僕の上にいるのだろう。先ほどまでとはうって変わって落ち着いた声だった。
『ヨダカのこと、信じていますか?』
「何を今更」
返事をしながら、ドキッとした。また騙されたのだろうか。本当は雪崩なんか追いかけては来ていなくて、ただ僕を速く飛ばすために嘘を吐いたのではないか。でも、轟音は近付いてきている。それに、ヨダカがそんなことするはずはない。もう、そんなことはしない。
『では、そのままヨダカのことを信じていてくださいね』
ヨダカは僕に重なって操縦席に座った。機体をコントロールする操縦桿やレバーに手を伸ばす。
『いいですか、ハナテさん。チャンスは一度きりです。タイミングを間違えないでください』
ゴーグルを通すと視界に重なるホログラムのちらつきが軽減されている。防護ジャケットもグローブも厚いので、ホログラムの温度はあまり伝わってこない。
『この先、あと一分で、回転しながら急降下してください。そのまま氷を突き破って海中に入ってください』
「海? 基本防水しかしていない。潜水用のパーツは積んでいないぞ」
『今だけでも構いません。ヨダカが培った技術を信じてください。大丈夫ですよ。ハナテさんもヨダカも、この星で生まれたのですから』
そう言ったヨダカの声があまりにも穏やかだったので、僕の心は落ち着いていた。いつもよりずっと冷静に判断できる。ほんのわずかに調整しても、僕の手の動きがヨダカの手の動きと重なる。
先代から譲り受けて、今までずっと、一度も変わることなく、僕はヨダカのナビゲーションで宇宙を飛んでいる。だから同じ時間、ヨダカも僕をナビゲーションしてきたのだ。僕はヨダカのナビゲーションの癖を知っているし、ヨダカも僕の操縦の癖を知っている。他の誰かと飛ぶことを考えたことはない。ヨダカは僕のパートナーだ。僕のナビゲーションだ。
「目標地点の座標」
僕の声に反応して、窓ガラスにマークが映って目標地点を示す。
「カウント」
さらにカウントダウンの数字が表示される。僕は操縦桿を握り直した。
『行きましょう、ハナテさん』
「しっかり掴まれ」
数字がゼロになるのと同時に、僕は機体を回転させながら急降下させた。歯を食いしばる。切り裂かれた空気が悲鳴を上げている。近付いてくる氷の大地に少し怯えるけれど、だけど、大丈夫。
『シールドを展開します』
僕は氷を突き破った。バリバリ、ガシャンと鼓膜を破りそうなほどの音の中に、ヨダカの落ち着いた声が聞こえた。
衝撃が全身を揺らす。視界が真っ青だ。そうか、海の中も青いのか。大小いくつもの泡が猛スピードで窓の外を通り過ぎていく。僕は機体を水平に立て直した。画面にルートが表示されている。僕はその案内に沿って海の中を進んだ。
「何のシールド?」
『ダストシールドですよ。この前、変更したじゃないですか』
「防水も付いていた?」
『ええ、古いのであまり知られていませんが、非常に優秀なシールドですよ。このままのスピードを維持して飛行してください。まあ、海の中ですから、潜航ですか』
氷が薄いところや隙間から柔らかな光が差し込んで、海の中を淡く照らしている。
『ヨダカや先代が現役の頃は、飛行職のルートが今ほど細分化されていなかったので、宇宙船は多様な機能を搭載して飛んでいたのです。このダストシールドはその名残ですね』
シールドがあるとはいえ、やはり不安だ。普段は空を飛んでいるから、海の中は勝手が違うし、上が氷なので圧迫感がある。浸水しないだろうか。エンジンはちゃんと動いているだろうか。雪崩はどうなったのだろう。氷を割って落ちてきたりはしないだろうか。それに、いつ浮上できるのだろう。
『グレイシャーブルー』
不意にヨダカが言った。
『氷河の青のことですよ。青色と言えばそれだけで済むことなのに、人類はいくつもの言葉を使って、いくつもの色を区別したのです。これほど世界が色鮮やかだなんて』
少し感傷的になる。
そういえば、ルリちゃんの名前の由来は青色なのだと言っていた。瑠璃色はラピスラズリという鉱石の色でもあるらしい。だからルリちゃんは鉱石研究の道に進んだのだ。ユキカゼの手のオパールという鉱石のこともルリちゃんなら知っているだろう。
海の中にも氷壁は続いているから、このまま進み続けてもルートには沿って行けるはずだ。普段は見ることのない海の中は不思議な光景が広がっていた。巨大な氷柱が形成されているところもあった。海底はよく見えない。もしかすると何か植物や動物が生息しているのかもしれないが、確かめる余裕はなかった。
「ヨダカ、どこで浮上すればいいんだ?」
僕はヨダカに尋ねた。ヨダカは僕の体からふわりと離れて宙に浮いた。
『極点を過ぎてからで構いません。後続は雪崩で壊滅したでしょうから、あとは前を行く機体をどうしましょうか』
「だけど、この高度でもう一度、氷を割って浮上するのは難しいぞ」
『そうでしょうね。だから、割らずに浮上するのですよ。裂け目は必ずあります。あとは好機をじっと待つのです。獲物を狙うように、ひっそりと』
宙に浮いているヨダカが海の中を泳いでいるようだ。コックピットも青く染まる。グレイシャーブルーの世界だ。
潮の流れが変わった。雪崩が地面の氷を割って水中に落ちたのだろう。波打つ水が後ろから押してくれる。これなら燃料を温存できる。僕は速度を緩めたが、それでも同じ速度を保って機体は進み続ける。そのまま海の中を進み続けていると、すぐに極点を過ぎた。
『ハナテさん、ハナテさん!』
ヨダカが興奮気味に僕の胸元をすり抜けた。
『前方に生体反応、何か生き物がいますよ!』
「そんなこと言われても」
『バラエナです! 追いかけてください』
「え、何? バラエナ?」
聞き覚えのない単語に僕の眉間に皺が寄った。バラエナって何だ?
『クジラですよ!』
「クジラって何だよ!」
さらに聞いたことのない単語を言われたので、思わず大きな声が出た。
『魚に似た形をしている大きな哺乳類です。こうした氷に覆われた場所で生息している種類は、呼吸のために氷の裂け目を探すのです』
バラエナやクジラがどんな生き物なのかあまりイメージが湧かないが、つまり、その生き物を追いかけていけば必ず氷の上に出られる場所があるということだ。遥か前方の氷の壁の間に、ちらりと黒い影が見えた。あれがクジラだとすれば、とても大きな生き物だ。
『目標地点をマーク、出力準備を開始、浮上ルートを設定します』
ヨダカの声に合わせて前方の窓ガラスにデータが表示される。氷の裂け目が見えてきた。かなり広い範囲に光が降り注いでいるから、浮上には十分適した大きさがありそうだ。だがその光の下に、巨大な黒い塊があった。魚に似ているとヨダカは言ったが、そんな風には見えない。魚よりももっとずっとたくましく、迫力がある。きっとこの機体よりも大きい。
「何、ヨダカ、あれ」
『あれがクジラですよ。さあ、空に戻りましょう』
クジラの影は遠ざかって行く。人類が去った地球にまだあんな生き物がいたなんて。込み上げてくる感情が、生命の強さに対する感動なのか、逃げることも出来ずに残された生命に対する憐れみなのか、それとも他の生命を残して逃げた人間に対する怒りなのか。複雑な思いを抱えながら、僕は海を飛び出した。
潮の流れに乗って勢いがついていた機体は一気に加速した。制限速度ギリギリだ。弾き飛ばした水滴が氷の粒になって眩しく光りながら後方へと流れ去る。遠くから見ればきっとたなびく彗星の尾のように見えるだろう。細い道で慎重になっている機体を僕は大胆に抜かしていく。何度も繰り返して練習した。氷柱が地面まで到達して出来た狭い隙間を通り抜ける飛び方も、落ちてくる氷の塊を避ける方法も。体が覚えるまで繰り返した。
低空飛行で前方の機体を抜くと、目の前が開けた。青よりも少し黒に近い色をした広大な海が広がっている。ポイントまで到達すると、僕は一気に機体を上昇させた。バチバチと聞こえてくる破裂音は、海水に含まれる成分が弾ける音だ。高速で大気圏を目指す。高度計が瞬く間に五桁になった。重力が僕の体を操縦席に押さえつける。
『オールエンジン、ランニング』
ヨダカの声がハッキリと聞こえる。太陽の光が眩しい。ゴーグルを通しても、あの星の力強さが良く分かる。周りの空の青が濃くなり、やがて闇の色になる。ぼやけた大気の層を突き抜けて、そこは真空、無重力の世界。
宇宙へ飛び立つ瞬間は、いつも心躍る。僕の中にも確かに流れている地球人の血が、途方もなく広がる星の海の果てに近付きたいと叫んでいる。いくつもの星の間を泳ぎ、誰も見たことのない輝きのその先へ、辿り着きたいと騒いでいる。人類は宇宙に飛び出す前から、空を飛ぶ前から、いいや、初めて空を見上げた時からずっと、遥か彼方に広がる宇宙に憧れていたのだろう。
月が見える。遮るものは何もない。銀河を翔ける喜びが抑えきれずに、僕は少し笑った。はやく戻ろう。
みんなが僕を待っている。
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