ヨダカ 二
まだ肉体があった時代のことをヨダカは話してくれた。当時は今のような職業区分が整備されておらず、ヨダカは長距離を専門とする宇宙船のパイロットだったそうだ。
『コメットと呼ばれていました。決まった軌道を周回する、彗星のような職業でしたから』
ヨダカはそう言った。星の観測と、物資の輸送が主な仕事。休みの日には地球のあちこちを飛び回っていたらしい。ホログラムに重なると、自分の声もヨダカの声も、くぐもり、反響して聞こえる。まるで声が頭の中に直接響いているようだった。
「地球はどんなところだった?」
『すでに壊れ始めていました。赤い砂漠や黒い海が地球上の生命を蝕んでいました。森林は枯れ果てて、青空のない街もありました。だけど、とても綺麗な星でした』
ヨダカが片手を挙げると、半透明の指先から、同じように半透明の光の粒が空気中に現れる。光の粒は次第に集まって帯状になり、ふわふわと揺らいだ。
『極光、オーロラですよ。今ではもう厚い雲に覆われているので地上での観測は難しいですけれど、かつては地球の両極で見ることが出来ました』
赤や緑、紫。不思議な色合いの光の帯が波打つ。オーロラというものを宇宙から見たことがある。あの光の帯に胸騒ぎを覚えたのは、その色があまりにも美しかったからだ。観測されることがなくなってもなお、ずっと輝いているなんて。
「他には?」
『そうですね。大きな滝がありました。とても大きな滝。虹が架かると、潜り抜けてみたりして。水飛沫が窓ガラスを叩き、光を浴びて、水滴の一粒、一粒の中に、小さな世界が映るのです』
「その滝はどうなった?」
『確か、もう随分と昔に涸れたと聞きましたね。ヒロナさんが、そう教えてくれました』
「そっか」
ヨダカが手を伸ばしてグッと宙を掴んだ。オーロラをつくっていたホログラムの光が拡散して消えた。
専用の機械を使えば、ホログラムに質量を与えることが出来るらしい。向こう側を透過せず、物体に触れることが出来るホログラムの研究はずっと続いている。今は静電気や磁力を利用して粒子状の物質で実体を形成しているらしい。将来的にはゲル状ホログラムの量産化を目指すという話を聞いたことがある。質量を持ったものをホログラムと呼んでいいものか分からないが、とにかくこれから先も改良が重ねられるだろう。ロボットたちはどんどん人間に近付いて行く。それでもきっと、人間になることはない。
伸ばしていた手を下ろすとヨダカは言った。
『やはり謝っておきますね、健康管理のこと』
「別に、怒っていないってば。でも理由を教えてくれたら嬉しい」
『ヨダカは試したかったのです。人間としての命を終えて、機械になっても、なお、ヨダカはまだ人間でいられるのかどうか。すべての人類が不安の中で生きているように、ヨダカもまた不安でした。ひとり残されて、孤独だったのです。他のナビと何が違うのか、その特別なところを確かめたかったのです』
「特別なところは分かった?」
僕が尋ねると、ヨダカは首を振って否定した。ホログラムの光が目の前にちらつく。
『通常のナビゲーションのあらゆる行動は、基礎プログラムによって選択され実行されます。人格プログラムはただの脚色です。同じベースを使用していればどんなナビゲーションでも、言い回しは違っていても、同じことを言います。そういうふうに出来ているのです。ヨダカの場合は順序が逆で、人格プログラムが先に働きます。だけど、ヨダカがどれほど特別でも、所詮はプログラムだと思い知りました』
淡々と話すヨダカの声は、抑揚がなく、今どんな顔をしているかも分からない。僕は黙ってヨダカの言葉を聞いていた。
『たとえハナテさんがヨダカのことを心から信頼しても、それでもヨダカはユキカゼさんやアマツさんには敵わないのです。ヨダカは人間であって人間でないから、本当の人間にはなれないし、もう戻ることも出来ません』
「生身の人間に戻りたいと思っているか?」
『まさか』
ヨダカは鼻で笑った。
『そこまで貪欲に見えますか?』
見える、と僕は頷いた。
「誰もが皆、一度は永遠に憧れるものだろう?」
『そうですね。だけど』
ハナテさん、とヨダカは言った。
『ヨダカは夢も希望も、大切な人たちも、すべて過去に置いてきてしまいました。ヨダカは今、本来あるはずのない生き方で、生きるはずのない時間を生きているのです。もしもう一度生身の肉体を手に入れたとしても、それはヨダカにとって、何か意味や意義があると思いますか?』
僕は少し考えてから、思わない、と答えた。
「きっと後悔する。自分だけが一人で生き残るくらいなら、限られた時間でもいいから、みんなと一緒に生きていたいよ」
『だから、ヨダカの後継は開発されなかったのでしょうね』
そう言うと、ヨダカはふわりと浮きあがった。僕は空中に浮かぶヨダカを見上げる。ヨダカはぱちくりと瞬きを繰り返している。
「どうかしたのか?」
『はい、ユキカゼさんからコールです』
「繋いで」
僕の指示に従って、ヨダカはユキからのコールを繋いだ。
『すごいぞ、ハナテ』
ユキは開口一番にそう言った。何が? 僕がそう尋ねる前に興奮気味のユキは続けた。
『手が取れた』
「はぁ?」
何を言っているのか分からず、僕は裏返った変な声で聞き返した。
『だから、手が取れたんだってば。いいから見に来いよ、月にいるんだろ? 部屋で待っているからさ』
一方的にそう言って、ユキのコールは切れた。僕はヨダカを見上げた。
『行ったほうが良いと思いますよ。星屑症候群が進行しているのでしょうから』
ヨダカに言われて、僕はユキカゼの部屋に向かうことにした。
手が取れた。
その言葉は確かに正しい表現だったと思う。
ユキの部屋に入ると、ユキはベッドに座っていた。そして、手首から先が床に落ちていた。
「うへっ」
僕は思わず後ずさりした。ユキはヘラヘラと笑っていた。
「悪い、拾って」
「え、やだやだ、嫌だ、無理」
「俺じゃ自力で拾えないんだからさ。噛んだりしないから、大丈夫だって」
僕は顔をひきつらせながら、床にボトリと落ちている手の指先を恐る恐る摘み上げた。つめたい。軽い。
「断面、見てみろよ。すごいから」
ユキの右手首から先が切り落とされたようにスパッと綺麗になくなっていた。僕は取れた手をベッドの上に置いて、僕もベッドに腰掛けた。ユキと僕の間に置かれた右手。妙な光景だ。この前までは繋がっていたはずなのに。僕は取れた右手の断面を見た。
そこには、虹があった。
「ヒロナに教えてもらった。これ、オパールに似ているんだってさ」
「オパール?」
「そう、オパール。地球で採掘されていた鉱物で、昔の人は宝石に加工していたらしい」
僕は断面をまじまじと眺めた。本来は血肉や骨だったはずの断面が、今では鉱物のように硬化し、光を反射して虹色に輝いている。角度を変えると色合いも変化する。改めて触れてみると、肌とは違う、ガラスのような手触りだった。
「それが砕けて、粒になる。最終的には体全部が結晶になって砕け散る。星屑症候群っていうのは、そういう症状らしい。今はまだ固まっているけれど、宇宙に放り投げたら、俺の右手も彗星みたいに尾を引きながら飛んで消えるんだぜ」
ユキの腕の先のほうの断面は、取れた手よりもずっと暗い色をしていたが、同じようにキラキラと光を反射して輝いていた。黒に近い青、紫、緑。宇宙を詰め込んだように思えた。
「傷口を塞いでいると思えばいいのか、それともここからまた硬化していくのか、よく分からないけど。でも、綺麗だから、まぁいいかって」
頬が緩むとはこういう表情のことを言うのだと僕はユキの笑顔を見て思っていた。
「俺の手、宝石」
先程までずっと自分の一部だった右手を愛しそうに眺めながらユキが言った。うっとりしていると言うよりも、どこか悲しみを帯びているその表情を的確に表現する言葉を僕は知らない。あえて説明するならば、卒業式の時の表情に似ている。互いに志望する職業に就けたことを喜ぶ一方で、別れの気配が漂っている。そんな顔に似ていた。
「手も、足も、体も、髪も睫毛まで全部、こんな、宝石みたいになるんだぜ。それってすごいよな」
「すごいって、どういうふうに?」
「んー」
ユキは言葉を探してから答えた。
「命は宝石みたいに綺麗だってこと」
その言葉に、僕はヨダカのことを思い浮かべた。命が宝石なら、今のヨダカの命は何だろう。鉱石は劣化するのだろうか。それともより強固に、より眩しく輝く石になるのだろうか。
帰ったらヨダカに教えてあげよう。命の輝きを。それくらいとっくの昔から知っていますよ、と答えるのだろうけど。
「明日のお守りに、これ、持っていくか?」
「絶対要らない。不気味すぎる」
宝石になった右手をユキは差し出したけれど、僕は断った。さすがに気味が悪い。
「研磨すればクリスタルみたいになるかもしれないぞ」
「駄目だろ、削ったら割れて砕けるんじゃないか」
「あー、そっか、それもそうだな」
そう言うとユキは止める間もなく右手を床に叩き付けた。ガラスが割れるよりも高い音が部屋に響く。僕は呆気にとられてポカンと口を開けたまま、輝きながら舞い上がる光の粒を眺めていた。空気の流れが光って見える。
「お、割れた」
ユキの言う通り、右手は大小さまざまな大きさの欠片に割れて床に散らばった。照明の光を反射して、まるで宇宙の彼方に輝く星をすくい上げて床に散りばめたようだ。
「何をしたいんだ」
僕は呆れていた。壊してどうするつもりなのだろうか。ユキは笑いながら答えた。
「崩壊が始まっても、最初の頃の結晶は硬度があるんだってさ。徐々に脆くなっていくらしい」
「それがどうしたんだよ」
「綺麗な形の破片、持って行けよ」
僕はユキと砕けた欠片を交互に見た。僕に持って帰らせるためだけにわざわざ砕いたのだとしたら、とんでもないバカだ。だけどユキは気まずそうな顔をしていた。ああ、そうだ。これはユキの頼み事だ。
「……というより、連れて行ってくれないか。お守りにはならないだろうけれど、すごい作用があるわけもないけれど、もしよかったら一緒に連れて行ってほしい。俺の代わりにというわけじゃない。ただ、うん、俺が忘れてほしくないだけだ。俺が死んだら、ヒロナとルリちゃんにも渡してほしい」
歪な笑顔でユキがそう言ったものだから、僕はどうしようもなくなり、立ち上がって欠片を拾い集めた。
「ユキのこと、忘れるわけないのに」
「みんながそう言ってくれる。だけど、俺は不安なんだ。信じていないわけじゃないんだけど、でも、俺は体も残さずに死ぬんだぜ? みんなの記憶だけが頼りだから、残せるものは残しておきたい」
「うん」
僕は一番大きな欠片を拾った。これはヒロナの分。レコーダーは荷物が多くて、ヒロナはそそっかしいから、失くしてしまわないように、すぐ見つけられるように、大きいものを。
次に、細くて長い欠片を拾う。これはルリちゃんの分だ。ルリちゃんは仕事で見つけた鉱石を試験管に入れて飾っているから、そのコレクションに加えてくれるだろう。きっと保存状態は良いはずだ。
僕の分は、出来るだけ平べったいものを選ぶ。重力が安定しない僕の生活では簡単に壊れてしまう。だけど一緒に宇宙を飛ぶならば、適した保管場所は一ヶ所しか思いつかない。ヨダカの箱の中だ。あらゆる衝撃から精密機器を守る箱の中ならば、ユキの欠片を守ってくれるだろう。だけど、それでは見えないところにずっと閉じ込めることになるから、僕は手ごろな大きさの欠片も拾っておいた。これは部屋に飾っておこう。
それから、最も輝く欠片を拾ってユキに渡す。
「ほら、ユキカゼの分」
ユキは受け取ったものの、困った顔をしている。
「要らないと思うのなら、それを人に託そうとするんじゃない」
「いや、そういうわけじゃなくて、まさか俺の分があるなんて思っていなかったから驚いただけ」
ユキは受け取った欠片を照明にかざしていた。けれども透き通るわけではない。反射した七色の光が部屋の白い天井に虹を架けていた。ユキの体はこれからどんどん宝石になっていく。その宝石はユキの命を蝕んでいく。命を糧に美しい結晶となって、そして砕け散る。
「あ、そうだ、ハナテ」
「うん?」
「明日の大会、応援している。忘れられない一日にしてくれるのを、楽しみにしているから」
「約束する」
「約束だぞ」
僕とユキは頷き合った。僕たちの約束はいつも絶対で。あと何回、約束できるだろうか。
守るべき約束がひとつあれば、それだけで人は強くなれる。
頭の中でじいさんの声がこだました。僕は考えなければならない。ユキカゼと交わす、たったひとつ、最期の約束を。
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