ヨダカ 一

 僕が退院し、宇宙を飛び回り、大会の準備をしている間に、ユキカゼの症状は悪化していった。体のあちこちに不調が出始め、仕事を続けることが困難になった。ユキはヒーラーの仕事を辞めた。こればかりは仕方がない。

「予定通り」

 廊下の強化ガラスの向こうに広がる月面の光景はいつもと変わらず、地球は眩しいほどの青色だった。ユキカゼは単調な景色を眺めながら言った。

「そろそろだって、最初から言われていたからさ。車イスが手放せなくなっても、そんなに落ち込まなかったよ」

 僕は車イスを押して廊下を歩いていた。ユキが乗っているにもかかわらずとても軽く感じた。痩せた、というわけではない。確かに細くはなったけれど、ユキカゼは病的に痩せているわけではない。むしろ健康そうに見える。

 ユキに言わせれば、内側から軽くなる感覚らしい。かつて大空を飛び回っていた鳥たちは、空を飛ぶために体を軽量化していったそうだ。この腕に羽が生えたら飛べそうな気がするとユキは笑ったが、僕は笑えなかった。このままユキがどこかに飛んで行ってしまいそうな気がしたから。

 見た目は変わらないのに、中身が変わっていくのだとユキは言った。肉体を構成する元素そのものが軽くなり、やがては別の物質に作り変えられ、最後には砕け散る。

 肉体が崩れるのは、新しく作り変えられた物質が人間の肉体という器では抑えきれないものだからだという説がある。実際のところはハッキリしない。

「あー、でも暇だよ、暇。仕事が出来なくなったら、目の前に広がる時間が膨大で、怖いくらいだよ。おかしいよな、終わりが見えているのにさ」

 自嘲気味に笑ったユキに相槌も打たず、僕は車イスを押し続けた。

 ユキが普段使っていたところとは反対側にあるラウンジに着くと、いつもとは違う景色が窓の向こうに見えた。窓の外は裏側と呼ばれるエリア、クレーターだらけの月の裏側だ。このラウンジはコロニーの端にあるので、裏側がぎりぎり見える。このコロニーではここだけだ。僕にとっては珍しくもない景色だけど、ずっとこのコロニーで働いていたユキにとっては、滅多に見ることの出来ない、そしてもう二度と訪れることのない場所だ。僕はユキを窓際の席に残して、夕食を買いに行った。今日はユキと一緒に夕食をここで食べる約束をしていた。

 ユキが好きなメニュー。ムーンチキンのソテー、ミルクパン、熟れる前の月イチゴ。昔から変わらない。今でも、変わらない。僕は野菜炒めといつもの不味いドリンクを買った。

「お前、いつもそれを飲んでいるけどさ」

 僕がムーンチキンを食べやすい大きさに切り分けているとユキが言った。

「不味いんだろ、それ」

「ああ、不味い」

 ユキは口を開けて待っていた。僕は一口サイズになったチキンをフォークに刺して甲斐甲斐しくユキの口に運んだ。

「ルリちゃんから聞いた」

「何を」

「ハナテはいつもそれを飲むって。不味くて顔をしかめながら、でも、飲むんだって」

 二口目は自分でフォークを持ったユキは、器用に僕の野菜炒めの上にチキンを落とした。肉も食べろと言いたいらしい。

「ルリちゃんが飲むから、僕も飲むんだよ」

「いいや、それは違うね」

 ユキは僕の野菜炒めにフォークを刺し、黄色い野菜を食べた。ブロックフラワー、確かそんな名前だったような気がする。

「ハナテが不味いって言うから、ルリちゃんもそれを飲むんだ。お前、相変わらず味のことはよく分かっていないんだろう? そんな中でハッキリと不味いって言えるものだから、ルリちゃんはそれを選ぶんだ」

「なにそれ」

 さあな、とユキは含みのある笑顔で答えた。

「それよりさ、調子は? 大会、優勝できそうか?」

 大会は来週に迫っていた。どこもかしこも大会の話で持ちきりだった。行く先々で応援される。期待されていることは素直に嬉しい。プレッシャーだとは思わない。むしろ、みんなの想像を超えたいと思う。

「ヨダカもやる気を出してくれているから、負ける気がしない」

 そうだ、僕は負けず嫌いだから。

「大会が終わったら、休暇が取れるから、地球に行こう」

 僕はユキに提案した。

「下見だな」

 ユキは笑った。


 大会の前日、僕は月の格納庫にいた。機体に大会用のプログラムを入れて、最終チェックをする。パーツを付け替えてから慣らし運転もした。軽くなった分、気流の影響を受けやすくなった。大気圏を突破する時には細心の注意が必要だ。普段は発射台を使っているが、大会では自力で大気圏を突破しなければならない。自力突破をするための機能は小型と中型の宇宙船には必ず搭載されているが、滅多に使わない。発射台を使ったほうが、燃料効率が良く、安全性も高いからだ。だけど、いつも発射台があるとは限らない。たとえば小惑星探索のパイロットとして召集されたならば、離着陸は非常に高い技術が求められる。

 格納庫では他にも機体をメンテナンスしている飛行職が何人もいた。明日はみんなライバルだ。僕はタラップに座って端末を見ていたが、ふと気になって、暇そうにしていたシップキーパーを呼び止めた。

「ちょっと変なこと聞くけど」

 僕に声を掛けられて、シップキーパーの背筋が伸びる。多分、新人だ。制服が綺麗だし、飛行職の前で緊張している。大型船の電気系統のエンジニアだろう。

「一般的なナビゲーションの外見年齢はどれくらい?」

「あ、え。えっと」

 明らかに慌てふためいたシップキーパーを少し可哀想に思いながら、僕は答えを待った。

「男性モデルなら、その、五十代前後で、女性モデルなら二十代から三十代が多いですが」

「ああ、やっぱりそうか」

 僕は隣の機体に目をやった。コックピットの窓の奥に見える半透明の女性はナビのホログラムだ。凛とした佇まい。泳ぎ回る誰かさんとは大違いだ。

「ありがとう、参考になった」

 シップキーパーにお礼を言って、僕はコックピットに入った。行動を共にするなら、信頼できるものがいい。誰だってそう考えるはずだ。落ち着きがあり、博識で、緊急時にも適切な判断を下せて、従順。頼もしく、知的で、安心感がある。自分の命運を託すならば、後輩や同僚よりも経験豊富な上司を選ぶだろう。それが普通の選択なら、ヨダカはどれほど特殊なのだろうか。

 僕はコックピットの床下ハッチを開けた。そこにナビゲーションの本体が収納されている。両手で抱えられるほどの大きさの黒い箱の中に、メインデータが入っている。端末と同期することでナビを携帯できるが、アップデートはこの箱の中身を更新しなければならない。ナビゲーションのブラックボックス。これがヨダカの心臓だ。

 箱の上部に型番が刻まれた銀色のプレートが取り付けられている。僕はゆっくりとフタを開ける。中にはもうひとつ箱が入っている。基盤を保護する強化素材の頑丈な箱の中身がメインデータだ。けれど僕はメインデータには目もくれず、フタの裏側を見た。

 これを見るのは初めてだった。機体とヨダカを譲り受けた時に先代がメモを残していたから存在は知っていたが、実際に確かめるのは初めてだ。ヨダカのことを知る必要がある時に、これをヨダカに尋ねてごらん。先代はそう残していた。フタの裏側には八桁の数字が並んで刻まれていた。

 記念日だ。僕はすぐにそう思った。

 僕はフタを閉じ、箱を丁寧に戻し、床下ハッチを閉めた。

「ヨダカ」

 僕はヨダカの名前を呼んだ。現れたヨダカのホログラムは操縦席に座っていた。

「八月二十七日」

 ヨダカは無表情で前を見ていた。

「何の日?」

 ヨダカは答えない。僕はヨダカの前に立った。

「教えて、ヨダカ」

 瞼を閉じ、ゆっくりと開いて、ヨダカは答えた。

『それはヨダカが死んだ日です』

 今にも掻き消されそうな声がコックピットの空気をわずかに揺らした。ヨダカは俯き加減のまま続けた。

『ハナテさんも知っていますよね。ヨダカがたったひとりのために開発され、開発中止になった型番だということを』

「うん」

『かつて人類が地球に暮らし、月はまだ開拓が始まったばかりで、火星は未開の星だった頃。誰もが迫りくる地球の期限に焦りを募らせ、星への移住に希望を膨らませていました。ヨダカが生きていたのは、そんな時代です』

 ヨダカの声はまるで独り言のように小さく、曖昧で、傍に寄らなければ聞こえないほど弱々しかった。

『通常のナビゲーションは、共通の基本プログラムのあとから人格プログラムを導入します。でも、ヨダカは逆なのです。先に人格プログラムを形成し、ナビゲーションの基本機能はあとから追加されました』

「待って、ヨダカ。どういうことだ? 死んだ、生きていたって?」

『ヨダカは、かつて、人間でしたから』

 諦めたような声でヨダカはそう言って僕を見た。

『表向きには生産中止になったただの古い型番ということになっていますが、ね。人間の脳を使ってプログラムを作るという実験が行われていたのです』

「脳?」

『ええ、脳波や電磁波によって人間の脳の中身をそのままプログラムに変換するのです。つまり、そうですね。ロボットの体に人間の脳、生身の人間よりも頑丈な人類を作ろうとしていたのです』

「そんなこと……」

 言葉が続かなかった。あんまりだ。

『倫理も道徳も、そんなもの、もはや何の役にも立ちませんよ。きれいごとで救える世界はとうに果てていましたから』

 ヨダカの言葉に僕は眩暈がした。僕が知っている地球は、絶えず酸性雨が降り注いでも、消えることのない炎が噴き出す大地でも、生き物の気配のない湖でも、それでもまだマシなのかもしれない。

「でも、どうしてヨダカが……?」

『酷い事故を起こしました。肉体の損傷があまりにも激しく治療は絶望的だったそうです。でも、肉体さえどうにかすれば、まだ生きられる。幸か不幸か、ヨダカは実験体になり、目が覚めた時にはこうしてプログラムになっていたわけです』

 僕は全身の力が抜け、床にへたり込んだ。特別って何だ。ヨダカは、一体、何なんだ。

『ああ、ヨダカの脳はすでにプログラム化を終えていますから、埋葬されていますよ。脳にも寿命はあります。だからヨダカは、人間を基盤にした人格プログラムです』

「理解が追い付かない」

『いいえ、ハナテさんは十分に理解しています。ですが、頭では分かっていても、心が受け入れられないのです。延命措置と言えば聞こえは良いですけれど、プログラム化された人間を、もはや人間とは呼べません』

 ヨダカは僕を見ているようで、どこか遠くを見ていた。

『もし、ハナテさんがヨダカのことを憐れんだり悲しんだりしているならば、それは今の時代の人類が生存に余裕を持っているということです。それはとても、幸せなことのはずです』

 ヨダカはそう言った。人類は故郷を捨ててでも生き残ろうとした。どんな手段を使ってでも、生き延びようとした。たとえそれが道を踏み外していても、そうしなければきっと人類は地球と一緒に滅び、僕たちは生まれることすらなかった。自分の命を棚に上げて過去を責め、命を弄んだと批判できるほど、僕は出来た人間ではない。

『結局、実用レベルでうまくいったのはいくつかありましたが、残ったのはヨダカだけだったそうです。あの時代はとても事故が多かったですから。その後、計画の無謀さと、月面移住の安定により、計画はなくなり、隠蔽されました。開発中止になったのは、そういうわけです。多分、それでよかったのだと思います』

 その声には安堵が込められているように僕は感じた。自分と同じ道を辿る人がいないことに対する安心と、少しの喜び、自分は特別なのだという誇り。ヨダカはヨダカのために開発された、世界でたったひとりのナビゲーションだ。

 僕は深呼吸をした。それからヨダカの名前を呼ぶ。

「ヨダカ」

『はい』

「今でもまだ、飛びたいか?」

『飛びたいです』

「世界の果てまで?」

『誰もまだ辿り着いたことのないところまで』

 僕は頭を横に振った。

「それは出来ないよ」

『知っています。分かっています。太陽系の外は片道切符です。もう戻れないと分かっていながらの挑戦が許されるほどのことではありません。命はもっと尊いものです』

 ヨダカはそう言って、下手な笑顔を浮かべた。僕は立ち上がり、ヨダカに重なるように、操縦席に座った。ホログラムを通して見る世界がチカチカと輝く。

「地球と月と火星、それから星の間の宇宙。僕の世界はそれだけだ。金星も隣の銀河も、何万光年先の星も、あとは全部、僕にとっては同じ、宇宙の光のどれかに過ぎない」

 ホログラムが温かい。これがヨダカの体温で、これがヨダカの視界だ。

「僕の世界はとても小さいけれど、それでもとても大切な世界だ。いつか、連れていくよ。世界の果てまで、一緒に行こう」

 迷わずにそう伝えられるのは、僕がヨダカを信頼しているからだ。別れのその時まで、ヨダカにさよならを言うことはない。それが僕の引退の時なのか、ヨダカが壊れる時なのかは分からない。どれほど技術が進歩しても、ヨダカを他のナビと交換することはない。

 人間になりたかったわけじゃない。人間に憧れていたわけじゃない。人間の真似をしていたわけでもない。ヨダカは、かつて人間だった。ヨダカの人格はほかでもないヨダカによって形成されているプログラムだ。たとえみんながヨダカをソースコードに過ぎないと言っても僕は、それは間違っていると思う。触れることが出来なくても、食事を必要としなくても、涙を流せなくても、僕の体をすり抜けても、重力に影響されなくても、ヨダカはここにいる。

 ヨダカは、ヨダカだ。

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