アマツ 三
ひとりになった部屋の中、消毒液の匂いの中に、じいさんの匂いが微かに残っていた。古い本の香りだ。小さい頃、じいさんはよく地球の話をしてくれた。古い本を僕に読んで聞かせてくれた。地球での暮らしがどんなものだったのか。今ではもうほとんど残っていない、音楽や踊りを教えてくれたのも、じいさんだった。ユキカゼの下手なワルツも。ルリちゃんの鼻歌も。レコーダーに憧れたヒロナも。僕たちはじいさんの話を聞くのが好きだった。地球のことを知りたかったわけではない。どれほど説明されても、故郷と呼べるほどの実感は湧かなかったから。だけど、地球の話をするとき、いつも必ず少し寂しそうな色を帯びる、じいさんの瞳が好きだった。溜息にも似た、懐かしむ声が好きだった。
僕は端末を手に取った。泳いでいたヨダカは、画面の中に座っていた。膝を抱えて座る姿は不貞腐れているようにも見えた。
「ヨダカ」
『何でしょう?』
ヨダカは億劫そうに僕のほうを見た。
「僕はお前のことを信じているんだから、騙さないでくれ」
『意図的に健康管理を操作し改竄していたことをヨダカは謝ったほうが良いですか?』
「好きにすればいい。お前にも何か考えがあるんだろうと思うことにしたから」
僕がそう言うと、ヨダカは膝に顔を埋めた。あれほどじいさんに食って掛かっていたのに、今では落ち込んでいるらしい。
「僕は怒っていないよ」
『ヨダカは塞ぎ込みたい気分なので、放っておいてください』
「作戦会議をしよう、ヨダカ。お前なら地球のどんなところでも飛べるだろう?」
ヨダカは動かないが、僕の話を聞いていることだけは分かる。
「競技大会で優勝したい。ヨダカと一緒なら、出来る気がするから」
僕の言葉に、ヨダカは顔を上げた。塞ぎ込みたい気分のまま、憂鬱そうだ。
『したい、出来る、出来ないということではありません。優勝すると言い切ってください。そうすればヨダカは全力でサポートします』
「僕は必ず優勝する」
迷うことなく僕はそう言い切ってみせた。後悔したり、撤回したり、そんな揺れる気持ちはない。誰よりも速く、誰よりも美しく、誰よりも確かに、僕は星を巡る。
『分かりました。どこまでも付いて行きます。では、手始めにパーツを変更しましょう。この休みの間に改修出来ると良いのですが』
ヨダカがそう言うと、画面の右側に付け替える宇宙船のパーツが三つ表示された。名前だけではピンと来ないが、多分、二つは軽量化のパーツだ。そして残る一つは、名前にシールドと付いている。防護パーツのようだが、何のために必要なのだろうか。
「この、シールドは?」
『ダストシールド、その名の通り塵対策の防護パーツです。ここに挙げたタイプは機体と大気の間に薄いシールドをつくることによって機体を保護するものです』
「うん?」
『今回のルートは氷山です。いくつもの機体が飛ぶと、熱と風圧で氷が削れ、粉雪が舞い上がり、氷の欠片が機体を傷付けます。機体に付着した水分が融解と凝固を繰り返す場合もあります。とにかく、そういった氷から機体と視界を守る必要があるということです』
なるほど、と僕は頷き、画面を操作してパーツ変更を申請した。すべての機体にはシールドが標準装備されているが、今回はさらに強力なものが必要になるようだ。大会では速度規制プログラムが組み込まれることになっている。宇宙と同じ速度で何機もの宇宙船が地球を飛ぶと、その威力で地表を削ってしまう恐れがあるからだ。それに、機体同士が近距離で飛行するので、気流の乱れが発生しやすく、事故の可能性が高くなる。決められたルートを定められた速度内で競い合う、それが競技大会だ。機体の性能よりも操縦技術が求められる、技術者のための大会なのだ。
「ヨダカは氷山も飛んだことがあるのか?」
『ええ、もちろん』
「お前には、飛んだことのない場所なんてあるのか?」
『ええ、もちろんありますよ。たとえばオールトの雲、太陽系の外、宇宙の果て』
「そんな場所、誰ひとりとして辿り着いていない」
『飛んでみたかったのです』
ヨダカは手を伸ばして宙を掴んだ。虚空を握りしめる手に力を込める。
『世界の果てまで、飛んでいきたかったのです』
僕はなぜだかとても寂しい気持ちになった。それは、ヨダカが今にも泣きだしそうな顔をしていたからなのかもしれないし、決して届かない果ての場所に思いを馳せたからかもしれない。
宇宙には漠然とした孤独が漂っている。
いつか聞いたそんな言葉を思い出して、僕は小さな溜息をひとつ吐いた。
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