アマツ 二
ヒロナは定期便で地球に戻ったらしい。メッセージが届いていたので返信した。ヨダカは呼んでも姿を見せなかった。僕はベッドに横になり、手を天井に伸ばして、開いたり閉じたりを繰り返した。透けない。確かな肉体がここにある。
自分は生きているのだと改めて思うことが時々ある。それは無重力状態から抜け出して、自分の足で歩くとき。光を通して見ても、体が透けていないとき。ホログラムでもなければ、プログラムでもない。僕は人間だ。
そのことがヨダカにとって、どれほど残酷なのだろうか。
『飛ぶために生まれたような人でした』
先代のことを尋ねると、ヨダカはいつも同じ言葉を返す。それ以上のことは言わず、瞳はどこか遠くを見ている。けれど、僕は考える。ヨダカの人格が、先代との航海で重ねられた会話によって形成されているのではないか、と。培われた経験に基づいてヨダカが人間らしく振る舞っているのだとすれば、何も不思議はない、ヨダカは人間に憧れているのだ。他のナビゲーションシステムが機械的な、プログラムされた反応のままなのに、ヨダカだけは不自然なほどに人間らしい反応をする。たったひとりのために作られたのならば、きっと、その人のためだけに、ヨダカは人間になりたかったのだろう。
「ヨダカ」
僕はヨダカを呼んだ。画面の中は静まり返ったままだ。この調子でヨダカが無反応ならば、メンテナンスに出さなければならない。
「おーい、ヨダカ。故障か? 修理に出すぞ?」
画面を指でつついてみるが、反応はない。いよいよ故障かもしれないな。僕はベッドから這い出してシップマスターの修理室へ行くことにした。外出届は必要なのだろうか。部屋のドアを開けると、そこにはユキカゼが立っていた。僕たちは互いに面食らったような顔をしていた。ユキカゼの手がドアに伸びていたところを見ると、今まさにドアを開けようとしていたタイミングだったらしい。
「何、え、脱走?」
ユキが僕をまじまじと見る。
「違う。ヨダカを修理に出そうと思って」
僕は手に持っている端末を見せた。
「故障したのか?」
「さぁ」
「さぁって何だ」
ユキは僕から端末を受け取ると画面に触れた。
「ヨダカは?」
「呼んでも出てこないんだよ」
「確かに反応がないな。型番が古いんだっけ? そりゃ故障もするよな」
「拗ねているだけかもしれないけれど」
ユキは僕に端末を返して、そんなことより、と言った。
「面会、来ているぞ。いや、ヨダカのことも大事だけどさ、ヨダカよりもっと驚く」
僕の腕を引っ張って、ユキは廊下の奥のほうを僕に見せた。行き交う人が会釈をする灰色の制服。知っているようで知らない、嫌い、だけど懐かしい人。僕の祖父だ。祖父が医療棟の廊下をこっちに向かって歩いてきていた。僕はユキを引っ張って強引に部屋の中に入った。
「じいさんに言った?」
「俺じゃない。これくらいの症状なら連絡だって行かないはずだぞ」
開けたままのドアから少しだけ顔を出して廊下を確認する。僕の下からユキも覗いている。間違いない。見間違うはずもないが、じいさんだ。
「アマツじいちゃんなら、お前のことくらいすぐに調べられるだろ」
「あのじいさんが僕のことを調べると思うか?」
僕は下にあるユキの顔を見た。ユキは僕を見上げて肩をすくめた。
「ハナテ。お前、アマツじいちゃんと仲直りしたいのか、このままでいたいのか、どっちなんだよ」
「仲直りしたいに決まっているだろ」
「じゃあどうしてコソコソするんだよ」
「心の準備が必要だろ。ああ、急に動いたから眩暈がしてきた」
「ベッドに戻れ」
僕はユキに引きずられるようにしてベッドに戻された。呆れた顔のユキが呆れた声で僕に言い聞かせる。
「大人しくしていろよ、患者なんだから。一時間後には食事だな」
ベッドの上で横になった僕の腕にユキが血圧計を取り付ける。僕はユキの端末を自分にかざして体温を測った。どうやら熱が出てきたらしい。こんな時ヨダカなら、知恵熱ですかと鼻で笑うのだろうか。僕は端末をユキに渡した。
「ここにいる限り、ヒーラーの言うことは絶対だ。いいか、ハナテ。アマツじいちゃんと、しっかり話し合うんだぞ。そうじゃなきゃ、俺、死んでも死にきれない」
血圧計がピピッと鳴った。僕のところからは見えないが、ユキは数値を端末に入力した。
「あとで追加の薬を持ってくる」
慣れた手つきで血圧計を外しながらユキが言った。仕事をする姿は誰だって格好良い。僕は自分の言葉を思い出していた。必死に勉強して希望の職業に就いて、やっと仕事にも慣れて、まだこれからなのに。次に僕が火星に行ってまた戻って来る頃には、ユキはもう仕事も出来なくなっているだろう。大会の頃には良くて車イス、症状が進んでいれば部屋から出られないかもしれない。
これからなのに。
「じゃあ、またあとで」
そう言って出ていったユキと入れ替わりに、じいさんが入って来た。面と向かって話をするのは、一体何年振りだろうか。記憶よりも少しだけ皺が増えている。白髪も増えた。それでも崩されることのない姿勢と鋭い眼差しは変わっていない。上に立つ者の姿だ。見透かすような瞳から逃げ出したくなる。全身が緊張する。僕は布団の端を握りしめた。さっきとは違う息苦しさが襲ってくる。
「久しぶりだな」
じいさんはベッドサイドに立った。座らない、長居をするつもりはないのだろう。僕は出来るだけ平静を装うとして体を起こし、何食わぬ顔でじいさんを見る。
「少し……痩せたか」
「……そうかな」
気まずい。何を言えばいいのか分からなくて、沈黙が流れる。機械の音、空調の音、誰かの足音、窓の外を飛んで行く宇宙船の音、息を吸い込んで吐き出す音。世界はこんなにも音で溢れていたのかと思うほどに、小さな音まで聞こえてくる。耳の中で鼓動が聞こえる。次の言葉が出てこない。僕の視線は泳いだ。
「そう構えなくても、叱責するために来たわけではない。今日は見舞いに来たのだから」
じいさんはそう言いながら、ゆっくりと窓辺に移動し、僕に背中を向けた。じいさんの背中越しに見える植物園の深い緑が、今の僕には恐ろしく感じられた。
「ハナテ」
振り返らずにじいさんは言った。
「お前は今でも私を責めているのかね?」
その声は周りの小さな音に紛れてしまいそうなほど弱い声だったから、僕は聞き逃してしまうところだった。
「僕は」
違う、と言いたかったのに、僕の声は音にはならなかった。違う、そうじゃない。伝えたい言葉があるのに、それがどうしても空気を震わせられない。喉がカラカラに乾燥する。胸が焼けるように痛む。
「お前がどう思っていようが構わない。私は、この仕事に誇りを持っている。この選択が間違っているとは思わない」
そう言った声は、いつも通りの声だった。空気を切り裂くように鋭く、心を閉ざすほどに冷たい。言葉を畳みかけるわけでもないし、声を荒げるわけでもないのに、僕は、この声が苦手だった。どうしようもなく、怖い。
僕は無意識のうちに手を伸ばして端末に触れた。無機質な手触りに救いを求めてしまう。そこにあるのは触れることの出来ない、ただのプログラムにすぎないはずなのに。
「ハナテ」
名前を呼ばれ、僕の肩はビクリと大きく揺れた。
「私の仕事を憎む前に、自分の健康管理くらいはきっちりとこなせ。話はそれからだ」
そう言い放つと、じいさんは窓際から僕の横を通り、部屋のドアのほうへと歩いて行った。歩調は乱れず、背筋は伸びたままで、この人が取り乱すことなんてきっと何もないのだと僕は思った。足元を見ながら、顔を上げることも出来ずに、じいさんの足音を見送ろうとしていた。その時だった。
『それは聞き捨てなりませんね』
静かな部屋の中に、機械的な声が響いた。けれどそれは澄んだ声だった。ドアの前でじいさんは足を止めた。
「何か言ったか?」
『聞き捨てならないと言ったのですよ、アマツさん』
じいさんはゆっくりと振り向いた。僕は自分の手元を見た。端末が光っている。
ヨダカが帰っていた。
「ナビの……ヨダカと言ったか」
『ハナテさんの健康管理はナビであるヨダカの管轄です。ハナテさんに非はありません』
「ナビの言うことを鵜呑みにして頼り切っている依存状態に問題がある」
『いいえ、アマツさん。ヨダカはこうなることが分かっていましたよ。それでいて、こうなるように仕向けたのです』
ヨダカはそう言った。画面の中のヨダカはいつものように泳いだりせず、地に足をつけてしっかりと前を見据え、堂々と立っていた。プログラムであることを忘れてしまいそうになるほど、その存在は確かだった。
じいさんの眉間には皺が寄っていた。険しい表情で僕の手元にある端末を見ている。
『ヨダカはハナテさんの信頼を勝ち取っただけですよ』
そう言ったヨダカの表情は、人を食ったような、悪戯心を秘めるあの表情だった。ヨダカが戻ってきた。僕はそのことがたまらなく嬉しかった。嬉しかったが、ヨダカは何と言った?
こうなるように仕向けた?
『ナビのくせに、と思いますか? ですが、ね。ハナテさんはヨダカを信用した。ヨダカを信頼した。ナビにも出来ることが、アマツさん、あなたには出来なかった』
ヨダカの声は、ナイフのように鋭く尖っていた。聞き慣れた声とは違う。別人ではないかと思うほどで、張り詰めた空気の中、僕は言葉を発することも出来ないまま成り行きを見守るしかなかった。じいさんを挑発するようなことを言って、ヨダカは何をするつもりなのだろう。どういうプログラムをしているんだ、こいつは。
じいさんはつかつかと歩み寄り、僕の端末を手に取った。床に叩き落されるのではないか、一瞬ヒヤリとしたが、その手は振り下ろされなかった。
「ハナテ。このナビゲーションプログラムに手を加えたか?」
僕は首を横に振った。そんな技術を僕は持っていない。
「では、こいつは初期からこんな人格プログラムなのか?」
『ヨダカは特別なのです』
端末の中でヨダカが誇らしげに言う。後継機種が開発されなかった、高度な自我形成プログラムで構成されている型番。それがどれほど特別な技術なのか、僕には想像も出来ないけれど、今までヨダカと航海をしてきて、交換したいと思ったことは一度もない。ヨダカが言った通り、僕はヨダカを信用しているし、信頼している。口も態度も悪いけれど、それでもそんなヨダカがいるから、僕は飛べるのだ。
『アマツさん。あなたは確かに数多の功績を残してきた立派なレコーダーです。ヨダカは地球で生まれましたからね、地球のことをひとつでも多く引き継いでいくことは、とても喜ばしいことです』
ヨダカの声にトゲがなくなった。今どんな顔をしているのだろう。僕からは見えない。じいさんは複雑な表情をしていた。怒っているようにも見えるし、呆れているようにも見える。目元に刻まれた深い皺を、年を取ったなぁと僕はぼんやり見ていた。
『あなたとハナテさんが疎遠になる以前のことをヨダカは知りません。ですが、ハナテさんがなぜあなたと距離を置いているのか、ヨダカはその理由を知っています』
僕はヨダカの言葉で我に返った。
「ヨダカ」
それ以上は何も言うな。僕はヨダカの名前を呼んだ。
『ではハナテさんが自分で打ち明けますか? 出来ないでしょうね。ハナテさんにはそんな度胸なんてないのですから』
鼻で笑われたが、言い返す言葉が見つからない。僕は押し黙った。
『アマツさんは、地球再生プロジェクトを提唱した一人であることをハナテさんが憎んでいると思っているのでしょうが、それは違いますよ。あなたが提唱しなくても、いずれは誰かが提唱したでしょうし、誰もが皆、いつか地球へ帰ることを望んでいるでしょうから』
最後のほうは早口でヨダカは言った。じいさんの眉がピクリと動いた。
『ハナテさんが責めているのは、自分自身、あなたを恨もうとしたハナテさん自身です』
じいさんが僕を見た。僕は目を伏せた。唇を噛みしめる。布団を握りしめる。
「どういうことだ?」
じいさんが尋ねた。それは、ヨダカに尋ねたのだろうか、それとも僕に尋ねたのだろうか。唇をきつく噛むと血が滲んだ。
「どういうことだと聞いているんだ」
僕の口から乾いた息が漏れた。胸がギュッと痛む。
「あの日」
消え入りそうな声が震える。だけど、僕は、根性も度胸もないけれど、僕は、それでも前に進まなきゃいけない。ユキカゼを地球に連れていきたいし、競技大会でルリちゃんに僕が飛ぶ姿を見せたい。ヒロナの話をヨダカと一緒にもっと聞きたい。何よりも、そう、僕は、どうすることも出来ないからといってすべて諦めて投げ出してしまうような、そんな最低な人間にはなりたくない。僕は、みんなから期待され、そして自分に自信を持っている人になりたい。
「宇宙船が爆発するのを窓から見ていた。一生、忘れない。リーダーたちが地球再生を決めなければ、レコーダーが地球に戻らなければ、あんなことにはならなかったんじゃないかって、やっぱりそう思うよ。だけど」
僕は顔を上げた。じいさんと目を合わせる。もう逸らさない、もう逃げない。
「こんなことになるくらいなら、地球に憧れなければよかったと思った。僕は、一瞬でもそんなくだらないことを考えた自分が許せなかった。今でも許せないんだ」
脳裏に両親の笑顔が浮かぶ。しばらくの別離を悲しみながら、それでも使命に燃えていたあの誇り高く澄んだ表情を。
「宇宙船が爆発した。ユキカゼが星屑症候群になった。どこかで別の道を選んでいれば、今の状況は変わっていたかもしれない。でも、今とは違う未来を望むということは、それまでの過去を否定することになるんじゃないか。この道を選んだ決意や覚悟や誇りが間違っていたと言うことと、何が違うんだ」
あの日、あの事故のことを、今でも思い出しては胸が締め付けられるけれど、それは家族を失った痛みだけではない。そのことに気が付いた時、僕は宇宙を見上げた。飛びたい、そう思った。僕ならもっとうまく飛べると思った。誰よりも綺麗な軌道を描いて飛べる。くすぶっていた消えそうな火種が冷えた僕の心を染め上げた。
「ごめんなさい」
僕は頭を下げた。
「あなたが歩んできた道を否定して、ごめんなさい」
言えた、と思った。やっと癒えた。だけど多分、じいさんはこう返すのだろう。そんなこと、と。
「そんなことをいつまでも」
呆れた声でじいさんが言った。思った通りだ。だから嬉しい。だから、悲しい。
「レコーダーである以上、否定的な意見は飽きるほど聞いてきた。理論的なものから感情的なものまで様々だったが、何かを言われるたびに立ち止まってなどいられない。お前が否定したところで」
「僕は嫌だ」
じいさんの言葉を遮って僕はハッキリと告げた。
「誰かの道を否定することも、自分の道が否定されることも、どっちも嫌だ」
じいさんの白髪交じりの眉が片方だけ少し上がった。声だけでなく顔も、呆れたと言っている。じいさんは僕のベッドに端に腰掛け、端末を布団の上に置いた。重みでベッドが軋む。
「競技大会に出場すると聞いた」
「うん」
「もう出ないと言っていなかったか?」
「ユキカゼと約束したから」
端末の中でヨダカが泳いでいるのが見えた。やるべきことはやったと言わんばかりの表情だ。
「ユキ君のことは聞いている」
「うん」
「残念だが、星屑症候群を治す術はない」
「分かっている」
「あの病の原因すら、我々には解明できていない」
「知っているよ」
「だが、希望を残すことは出来る」
じいさんの少し色素の薄い瞳がしっかりと僕を捉えていた。年を取ったと眺めていた目元の皺は、じいさんが今まで生きてきた証だ。僕の何倍も別れを経験し、そのたびに止まりそうな足を動かして、前へ前へと進み続けてきた証拠だ。同僚も、部下も上司も、仲間も、そして家族も、たくさんの大切な人たちがじいさんを置いて宇宙の果てに行ってしまった。別れの言葉も交わさずに、去っていた人もいただろう。だけどそれでも、じいさんは進み続けることを諦めなかったし、生き残ることをやめなかった。次の世代へ託すことも投げ出さなかった。
フィールダーは今を生きるためにエネルギーを作る。
シップマスターは人類を繋ぐために星を巡る。
ヒーラーは明日も生きるために傷を癒す。
リサーチャーは未来へ託すためにエネルギーを探す。
レコーダーは希望を忘れないために記録を集める。
帰るべき故郷を捨てた人類には選択肢がない。必要のないものなんて何もない。すべての職業が尊い存在で、すべての人がかけがえのない存在だ。
「体調を崩している場合じゃないぞ。ちゃんと栄養を摂りなさい。お前は星の間を飛び回るのだから、一緒に過ごせる時間など、ほんの僅かだ。だから、今のうちに出来るだけのことをしておきなさい」
じいさんは僕を諭すようにそう言った。そんなこと分かっているけれど、と僕は思う。誰だって未練ばかりのまま別れたくはないはずだ。分かってはいる。でも、どうすればいいのか分からない。僕の考えが顔に出たのだろう。じいさんが言葉を続けた。
「たとえば、楽しかった思い出話で笑い合えばいい。それこそ、飽きるほどに。もうこれ以上は必要ないと思えるくらいに、幸福感で満たせばいい。悲しいことなど数えたらキリがないからな」
僕は頷いた。
「それから、そう。約束をしておきなさい」
「約束?」
「ユキ君がいなくなった後、お前が果たすべき約束を、ひとつ。それは具体的な目標でも、漠然とした夢でも構わないが、たったひとつ、ユキ君と約束しておきなさい」
「ひとつだけ?」
「ああ、ひとつだけだ。守るべき約束がひとつあれば、それだけで人は強くなれる。お前も、私も」
僕は瞬きをした。じいさんは、今まで誰とどんな約束を交わして、どんな約束を果たして、ここまで辿り着いたのだろう。
「愛しい人との永訣に、嘆かぬ術を人類はいまだ見つけられていない。そんな術はどこにもないとさえ思っている。悲しくて寂しくて、やりきれないことは、どうしようもない。どうしようもなくつらいものだからこそ、胸に深く刻み込まれる」
「父さんと母さんが死んだ時も、悲しくて、どうしようもなかった?」
「ああ、勿論だとも」
「僕が」
自分でもどうしてそんなことを尋ねたのかは分からない。けれど、僕の口から無意識に零れるように、その言葉が出てきた。
「僕が死んだら、じいさん、悲しんでくれる?」
一瞬。じいさんはとても寂しそうな顔をした。宇宙よりもずっと深い色の翳りがじいさんの瞳の中に沈んでいった。
「悲しいさ。きっと、何が喜びで、何が悲しみなのか、分からなくなるだろう」
じいさんの大きな手が僕に伸びた。
「長生きしなさい。這いつくばってでも、どんなに格好悪くても構わない。お前は、長生きしなさい」
優しく温かな手が、僕の頬を愛おしそうに撫でた。とても穏やかな表情で、だけど、とても悲しい瞳をしていた。失ったものを思い出していたのだろうか。それとも、失うことを思っていたのだろうか。
自分のほうが先だと、言い切ることが出来たならば、どれほど楽だろう。僕よりずっと長く生きているじいさんも、星屑症候群という終わりが見える病に侵されているユキカゼも。誰が先で誰が後なのか、確実な順番を断言することなど出来ない。死は僕たちが思っているよりもずっと近くにあって、だけど近いからこそ普段は見えない。必ず訪れるという、その一点においてのみ死はすべての人に平等だけど、順番は平等にはやってこない。燃料が切れる、ボルトがひとつ外れる、小さな隕石に衝突する。たったそれだけのことで、容易く壊れる船に乗っているのだから、僕の順番が先かもしれない。
僕が失うのか、じいさんが失うのか。いずれにせよ、永遠の別れは耐え難いものだ。
そして僕たちはそれでも耐えなければならない。
「いつでも帰っておいで」
じいさんの手は名残惜しそうに離れていった。ゆっくりと立ち上がって、部屋を出ていく。
「競技大会は観戦出来るか分からないが、応援している。励みなさい」
「あ、観覧チケット」
僕はじいさんの分もチケットを取っていたことを思い出した。しまった。機体の中だ。
「いや、心配するな。孫の大会のチケットくらい、もうすでに手に入れてある」
そう言ってニヤリと笑った。そのままじいさんは出ていった。僕は黙ってじいさんを見送っていた。じいさんでも、あんな顔をするのだ。
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