アマツ 一
目を開けると、白い天井が見えた。貨物室の天井とは違う。微かに消毒液の匂いがした。僕はこの場所を知っている。ヒーラーの管轄施設、医療棟だ。
『ハナテさん』
ヨダカが呼んでいる。
『ハナテさん……ハナテさん……』
何度も繰り返して僕の名前を呼んでいる。僕はゆっくりと体を起こした。動けば頭がズキズキと痛い。覚醒しきっていない意識が、ふわふわと浮かんでいるような感覚にさせる。
『ハナテさん』
枕元に端末が置かれていた。ヨダカが僕を呼んでいる。今にも画面から出てきそうなほど身を乗り出して、僕のことを心配そうに見ていた。
「ヨダカ」
僕は端末を持ち上げた。
「次の出発は?」
『……ハナテさん、あなた、どうして倒れたのか分かっていないのですね。まあ、責任はヨダカにもありますから、これ以上は言いませんが』
不貞腐れた様子のヨダカは画面から姿を消した。呆れたような声だけが残る。画面に触れてみても、ヨダカは捕まらない。諦めて端末を元あった場所に戻してベッドに横になると、ちょうど部屋のドアが開いた。入って来たのはユキカゼだった。
「よぉ、起きたか」
ユキカゼは黄緑色の制服を着ていた。ユキがまだ仕事を続けられていることに僕は安心した。持っている薄い端末はカルテだろう。みんなそれぞれ、自分の職業に適した機能を持つ端末が支給されている。ヨダカのようにルート案内機能のあるナビを搭載しているのはシップマスターの飛行職だけだが、仕事のサポートや生活の管理を行うナビはどの端末にも入っている。
「お前、自分が倒れたってこと、分かっているよな?」
ベッドの傍に置かれた椅子を引っ張ってユキは座った。分かっている、と僕は頷いた。
貨物室でワルツを踊るユキとヒロナを見ていた。綺麗で、幸福で、悲しい時間だった。だけど、途中から記憶がない。
「過労だな、過労。あと栄養が足りていない。もっと肉を食えよ」
カルテを見ながらユキが言う。その口調は軽く、僕の容体は深刻ではなさそうだ。
「これでよく検査をクリア出来たもんだよ、ギリギリだな」
ユキは僕の額のあたりに端末をかざした。数秒で僕の体温が検知される。ユキは端末を机の上に置いて僕を見た。
「まだダメなのか?」
深刻なユキの視線から逃れるように、僕は顔を逸らした。高いところに取り付けられた換気扇が小さな唸り声をあげていた。窓からは植物園が見えていた。フィールダーの農業施設のひとつだ。医療棟と隣接しているのは入院患者のためだ。緑は心を安らげる効果があるらしい。それに、月面は殺風景で、色が少なすぎる。だから制服は職業それぞれで異なる色を使っている。せめて、少しでも世界を彩るように、と。
「これでもマシになった」
僕は視線をユキに戻して言った。
「心因性の病は治療に時間がかかる。完治しないこともある。そう言われた」
「食事は?」
「毎食、ちゃんと食べているよ」
「食事内容だって大切だ」
肉が食べられなくなったのは、あの事故の時からだ。月からも肉眼で確認出来るほどの事故だった。僕の両親は帰らなかった。脱出ポッドが救助されても、そこに僕の両親の姿はなかった。結局、戻ったのは熱で変形した小さな父親のタグだけだった。シップマスター、アラシ。辛うじて読めるその文字に、幼い僕は体が芯から冷えていくような感覚を覚えた。心が凍っていく音がした。
それ以来、僕の食生活は野菜が中心で、それも、ほとんど食べられないし、味覚もほとんどが麻痺してしまった。多くの栄養をサプリで補う生活だ。空腹は感じる。食べなければ体が動かない。けれど、食事が喉を通らない。航海中の食事はヨダカが口を出してくるから改善されてはいるものの、ヨダカは強制しない。実体を持たないヨダカが干渉できることには限界がある。
「俺はハナテが心配だよ。星屑症候群の俺よりも先に死ぬんじゃないかって」
「みんな、いつ死ぬかなんて分からないだろ」
「そういうことを言っているんじゃない」
ユキの視線は鋭く、射抜くような力強さを持っていた。
「僕だって治したいよ。治したいに決まっているだろ。でも、思い出すんだよ。忘れたくても、忘れようとしても、忘れてはくれないんだ」
僕は布団を頭から被った。暗闇が広がる。
「あの爆発の光が瞼の裏から離れない。黒旗を掲げた船が、窓の外を漂う塵のような肉片が、バラバラに壊れた船が、忘れられない。声のない叫び声が、耳から離れない」
布団を握りしめる。手に汗が滲む。呼吸が荒くなる。声が震える。
「怖い、怖いよ。宇宙が怖いんだ。怖くて仕方がないんだ。助けてよ、ユキカゼ。助けてよ!」
「ハナテ」
暗闇の向こうからユキカゼの声が聞こえた。僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「俺だって怖い。いつだって不安だよ。お前が宇宙の果てに飛んで行ってしまうんじゃないか、不安になる」
穏やかな声だった。風のように心地良い。ユキカゼの声は広がりを持っていて、遠くまで届くような気がした。たとえば広い宇宙の果てに立っていても、ユキが名前を呼べば、僕は振り向くだろうと思えるほどに。
「頑張りすぎない程度でいいんだよ。少しくらい手を抜いたって、誰もハナテのことを怒ったりはしない。責めたりなんてしない。宇宙が怖くて嫌いでもいい。でも飛ぶことが好きだって構わない」
僕の呼吸が落ち着きを取り戻していく。
「お前が眠っている間に、ヒロナと言っていたんだ。俺もヒロナも、ハナテの横顔が好きだって。操縦席に座っているときの姿勢が、前を見詰めているゴーグル越しの瞳が、キュッと結んだ口が」
深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。呼吸が楽になった。
「卒業式のあと、ハナテの船を見せてもらっただろ? あの時、俺、思ったんだ。このままどこかに連れて行ってほしいって。このまま離れ離れになるくらいなら、銀河を越えて、誰も行ったことのない宇宙まで、連れ出してほしいって。ハナテなら連れて行ってくれるかもしれないなんて、そんなことを思っていた」
ユキの言葉に、僕は布団から顔を出した。ユキは俯いていた。
「嫌だよな、本当に嫌になる。宇宙なんて、なんでこんなに広いんだよなぁ。どんなに酷い場所だっていいから、狭くても構わないから、みんなと生きたかったよ」
「ユキカゼ」
僕が声をかけると、ユキは顔を上げて僕を見た。どうした、と言ったその顔は、困ったような笑顔だった。まるで泣いている子供に話しかけるような、そんな顔をしていた。
「地球なら僕が連れて行くよ。一緒なら、きっと宇宙だって怖くない」
「ああ、頼む。最期は、地球がいいな。それは無理かもしれないけれど、死ぬまでに一度でいいからあの星に行きたい」
困った笑顔のままユキが頷いた。僕も頷く。僕たちの約束はいつも確かで、破られることはない。たとえそれが最後の約束になっても。
今日は入院、明後日まで業務禁止だとユキに言われた。ヒーラーの判断だから従わなければならない。それから数種類のサプリメントと栄養ドリンクと安定剤が処方された。暇だろ、とユキが言った。暇だよ、と僕は答えた。
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