ヒロナ 二
月に到着したのは夜中だった。貨物室から積み荷を降ろすが、整備や補給は日が昇ってからになる。夜勤のシップキーパーがコートを羽織っていた。月の夜は冷える。僕はヒロナと一度別れ、ヒロナはレコーダーの施設に向かった。僕は残って積み荷を降ろす作業を手伝った。荷物の配達はポストマンと呼ばれるシップマスターの仕事だ。朝になればポストマンもやって来るだろう。
「メンテナンスについてはまた後ほど連絡が行きますので」
シップキーパーがタラップに白い旗を掲げた。初期メンテナンス待機中という意味がある。赤なら緊急、黄色は修理待機中、緑は出発待機中、青は長期メンテナンス中、黒は廃棄だ。シップマスターは黒の旗が上がることを何よりも嫌う。けれども、年に一度は必ず廃棄される機体が出る。黒旗の機体は、それはもう見ていられない。曳航されて戻って来た船だ。ほとんどは原形を留めておらず、修理しても二度と飛べないと判断される。赤旗ならまだ修理すれば飛べるようになるが、黒旗は絶望的だ。パイロットがいないのだから。僕たちが黒旗を嫌うのは、船が廃棄処分されるからではない。仲間を失ったことが悲しくて仕方がないからだ。船内に遺体があれば、まだマシだ。
一度だけ、船の回収に行ったことがある。牽引する中型船のパイロットが手配できなかったため、小型船の僕に仕事が回ってきた。数人のシップキーパーとヒーラーを乗せて、僕はポイントへ飛んだ。原因は隕石との衝突だった。避けることの難しいものではない。けれど、避けられなかったから衝突したのだ。その後、燃料が漏れて爆発したらしい。本来ならば曳航するのだが、引っ張って帰れるほど原型は留めていない。バラバラになった機体の破片をかき集めて船内に収容した。見ないほうがいいよ、とシップキーパーが言った。酷い臭いに眩暈がした。機体の周りに漂っていたあの小さな塵は、多分。
積み荷を降ろし終えると、貨物室はすっかり空になり、こんなに広かったんだなぁと少し感心した。僕はシップキーパーと別れ格納庫を後にした。シップマスターの宿泊室に向かい、シャワーを浴びてからベッドに沈み込んだ。目を閉じると、瞼の裏に黒旗の船が浮かんでくる。
ああ、嫌だな。
大きな船だ。事故の映像があちこちの画面で流れている。左舷で爆発。尾翼はすでに折れている。助けを求める人の姿が窓の向こうに見える。けれど、近付くことすら出来ない。爆発の衝撃波で救助船が大きく揺れていた。ぽっかりと開いた穴から船の中身が引きずり出されていく。無音の映像のはずなのに、悲鳴が頭の中に響き渡って耳鳴りになる。脱出ポッドが飛び出していく。
ああ、やめて。
僕は耳を塞いだ。目を瞑る。それでも追いかけてくる。燃え盛る炎が、強すぎる光が、真空を切り裂く悲鳴が、僕に突き刺さる。僕の心を砕く。息が出来ない。
僕は目を開けた。
窓から光が差していた。朝だ。朝が来た。僕はいつのまにか眠っていたのだ。夢だ。嫌な夢を見た。僕は両手で耳を塞いだ。大丈夫、何も聞こえない。耳を塞ぐ手が震えていた。体が震えていた。暑くもないのに汗をかいている。ベッドから降りても足が震えて上手く立てない。手が滑って、ベッドサイドに置いていた端末が床に落ちた。目が回る。吐き気が込み上げてくる。検査では異常なんてなかった。大丈夫、落ち着け。自分に言い聞かせる。夢だから、と。
『ハナテさん』
床に落ちた端末から声が聞こえた。ヨダカの声だ。
『起こしてください。床しか見えません』
不機嫌な声。いつものヨダカの声だ。僕は端末を拾い胸で抱えた。そのまま床に倒れる。床が冷たい。
『苦しいです、ハナテさん、起きてください』
「ちょっと黙って。少しでいいから、こうしていてよ」
ヨダカは黙った。呼吸が楽になる。震えが収まっていく。
時々、夢を見る。あれは最初の適性試験の翌日のことだった。地球に再移住するためのプロジェクトが始まった日だ。そしてプロジェクトが終わった日。計画では各地で眠っている浄化施設の再稼働や、新しいコロニーの建設、緑化の推進など、何年もかけて地球を再生していこうとしていた。プロジェクトのメンバーや機材を乗せた船が月を出発した時、みんながターミナルで手を振っていた。僕も手を振った。再び地球に戻れるという希望を乗せて船は旅立った。そして、爆発した。地球まであと少しのところだった。詳しい原因は今でも分かっていない。燃料漏れだと言う人もいたし、操縦ミスだと言う人もいた。いずれにせよ、この事故で多くの命が失われ、地球再生のプロジェクトも中断になった。犠牲があまりにも大きすぎたのだ。地球を捨てて十年、人類は地球へ帰還する希望も捨てた。
僕の両親も、あの事故で死んだ。僕がシップマスターを目指したのも、祖父と仲違いしたのも、あの事故がきっかけだ。
『ハナテさん、起きてください。もうすぐヒロナさんと会う時間ですよ』
ヨダカの声に、僕は体を起こした。まだ少しふらつくけれど、震えは止まっている。吐き気もしない。僕は冷蔵庫の中から水を取り出して飲んだ。
「ヨダカ。僕は今日も酷い顔をしているか?」
『ええ、それはもう、酷い有様。朝食をとってせめて血色を良くしましょう』
僕は立ち上がって大きく伸びをした。着替えてヒロナと待ち合わせをしているラウンジに向かった。
時々、ヨダカが羨ましい。僕もプログラムになりたい。人間であることをやめて、機械になってしまいたい。そうすれば傷付く心もなくて済むのに。だけど、それを口にはしない。ヨダカなら、怒って、悲しむだろう。それがたとえプログラムされたものであったとしても。
ラウンジに着くと、ヒロナはすでに朝食を食べ始めていた。僕はサンドイッチと飲み物を買ってヒロナの向かいに座った。
「おはよう」
「おはよ。ハナちゃん、顔色が悪いけれど、大丈夫?」
「ああ、気にしないで」
僕はサンドイッチにかぶりついた。ヒロナは見覚えのある紫色の麺類を食べていた。
「ユキは格納庫に呼び出しておいたから。昼過ぎなら都合が良いって」
「ありがとう」
「それまでヒロナはどうするつもり?」
「お母さんとお父さんのところへ顔を出すつもりよ。ハナちゃんは?」
「家に帰る」
ヒロナは紫麺をツルンと飲み込んで、驚いた顔で僕を見た。
「いや、じいさんは仕事でいないけど」
「なぁんだ」
「でも、じいさんとはちゃんと仲直りするつもりだ」
「本当に?」
「ああ」
僕が返事をすると、ヒロナは笑った。昼過ぎに格納庫で会う約束をして、僕はヒロナと別れた。一度、メンテナンスのことを聞くために格納庫へ寄って、それから家に帰った。居住区には単身者用の部屋と、家族で住める部屋の二種類がある。家と呼ばれるのは家族で住めるほうだ。単身者用よりも間取りが少し広い。しかし、実際に家族で住んでいる人たちは少ない。職業や勤務先が違えば、住む場所どころか住む星さえ変わってくる。飛行職は留まらないので、そもそも家と呼べるような固定された場所を持たない人も多い。
カードをかざすと扉が開く。図書館に似た匂いがする。昔から変わらない匂いだ。祖父はこの家をまるで書庫のように使っていた。僕のスペースはロフト部分で、上から部屋を見下ろすと本の海が広がっていた。その海を眺めながら、いつかここを出て行こう、そればかり考えていた。祖父は留守だった。「また来る」僕はテーブルの上に書置きを残して家を出た。廊下を歩きながら、「帰る」のほうがよかっただろうか、と少し思った。
格納庫にやって来たユキカゼは随分と痩せていた。発症が分かってからもうすぐ二ヶ月だ。そろそろ日常生活にも支障が出てくる頃だろう。けれどもユキは久しぶりに訪れた格納庫の光景に目を奪われて、表情は穏やかだった。
「相変わらず大きいよなぁ。科学ってすごい。なんでこんなに大きいものが飛ぶんだ」
ユキは天井から吊るされて修理を受けている中型船を見上げて感嘆の声を上げた。けれど、そのすごい科学はユキを治してくれなどしないのに。僕はユキの後ろを歩いていた。後姿が小さくなった。いつも見ていた頼もしい背中がもうどこにもない。ユキカゼを蝕む病の影がそこにはあった。
「ユキ、そこの白旗の船だ」
機体を見せるという口実でユキを呼び出していた。ヒロナのことは何も伝えていない。驚くだろうか、それとも、怒るのだろうか。
「そういえばさぁ、ルリちゃんからコールがあったぞ」
「ああ、そう」
「ルリちゃんのこと、怒っているのか?」
タラップを上がる途中で立ち止まり、ユキは僕を振り返った。
「僕が腹を立てているのは不甲斐無い自分自身に対してだ」
ルリちゃんは今頃、戸惑っているのだろうか。チケットの意味を考えているのかもしれない。だけど聡明なルリちゃんのことだから、答えはすぐに導き出せる。
ハナテの部屋はどっち? とユキが機内を見回しながら尋ねる。右、と僕は答えた。ユキは右に進んで行く。
嘘。右は貨物室だ。
僕の体をすり抜けて、ヨダカがユキを追いかける。そのままユキの体もすり抜けた。うひょっとユキは変な声を出した。
「なんだよ、ヨダカか。びっくりさせるなって」
『こんにちは、ユキカゼさん。今日はシップマスターの見学ですか?』
ヨダカは宙に浮いたまま、ユキを奥へと案内する。
「ナビってどれもヨダカみたいに浮いているのか?」
「さあ。後で隣の機体のナビを見せてもらおう」
「すごいなぁ。ホログラムってどこにでも出せるのか?」
「機体の中なら、どこにでも。壁にホログラムの出力装置が巡っていて、それで形成されているらしい」
「そのうち質量をもったホログラムも導入されるんじゃないのか?」
『それはないですね』
ヨダカが急に動きを止めたので、ユキの手がヨダカの胸のあたりを突き抜けた。
『実体のあるホログラムを搭載するのなら、アンドロイドを乗せたほうが遥かに便利です。しかし、操縦士の積極性を損なう危険があるので、どちらにせよ実体のあるナビゲーションは導入されません。開発はされているんですけれど』
つまりどういうこと、とユキが僕を振り返った。
「自分で出来ることでもナビ任せになってしまうかもしれないってこと」
ああ、とユキは頷いて前を向いた。僕たちは動き始めたヨダカに続く。貨物室の扉の前に立つと、扉は自動で開いた。
音楽が流れていた。懐かしいメロディー。三拍子、そう、確かワルツ。積み荷のないがらんとした貨物室の真ん中にヒロナが立っていた。二本の足でしっかりと立っていた。
「ヒロナ?」
ユキカゼの声が裏返る。
「え、お前、何してんの、こんなところで」
戸惑いを隠しきれないユキが僕に答えを求める。
「ハナテ、お前、俺を騙したな?」
「何も聞かれなかったから、何も言わなかっただけだ」
僕は入り口の段差に座った。状況をうまく理解できていないユキに、ヒロナが声をかけた。
「ユキちゃん。私がハナちゃんにお願いしたの」
ヒロナは服の裾を手で握りしめていた。
「あんな手紙だけじゃ分からないよ。全然、納得できないよ。ユキちゃんが死んじゃうって言われたって、ちゃんとお別れできないよ」
「ヒロナ……」
「私、いつもルリちゃんとユキちゃんの背中を追いかけて、ハナちゃんに背中を押されてばっかりで。勉強も運動も出来ないし、技術もない。どうしてこんなにも駄目なんだろうって、ずっとそんなことばっかり考えていた」
俯き気味のヒロナの顔に翳が掛かる。裾を握りしめているか弱い手が小さく震えている。頑張れ、僕は心の中でヒロナを応援した。頑張れ、ヒロナなら、ちゃんと言える。
「でもね、私にも一つだけ、特技があるの。みんなが忘れていくことも、ちゃんと覚えていたいから、だからレコーダーになりたかったんだよ」
昔から、ヒロナは引っ込み思案で、人見知りで、いつもルリちゃんとユキカゼの影に隠れていた。何をやっても人より遅くて、要領が悪くて、だけど丁寧で。優しくて、不器用で、いつも穏やかで。地球の過酷な環境でヒロナが傷付くことを僕たちは恐れていた。だけど、ヒロナはそれでもレコーダーを選んだ。レコーダーじゃなきゃダメだと言った。
「私、忘れないよ。ちゃんと覚えているよ。ユキちゃんが死んでも、ユキちゃんのこと絶対に忘れない」
ヒロナの記憶力だけは、誰よりも確かだった。忘れてしまうような些細な出来事も、ヒロナは覚えていた。
「好きよ、ユキちゃんのことが好き。宇宙で一番大好きよ。みんなが忘れてしまっても、私は一生覚えている、約束する」
言い切った。ヒロナの瞳は力強く、澄んだ色をしていた。とても綺麗な瞳をしていた。
ユキカゼは泣いていた。声を上げて泣いていた。死にたくない、と。忘れられたくない、と。ヒロナが好きだ、と。
涙を拭いて、ユキはヒロナの両手を取った。
貨物室の真ん中で、ユキカゼとヒロナが踊っていた。ぎこちないステップ。曖昧に繋がれた手。幼い頃に僕の祖父が教えてくれたワルツだ。かつて地球人は音楽に合わせて踊っていたのだと祖父は言った。祝いの時も祭りの時も、感情が昂ぶるその時、人類の傍には音楽と踊りがあったのだ、と。音楽に乗って、足がもつれそうになりながら、けれど、とても優雅に二人は踊っていた。あの頃にタイムスリップしたような感覚になる。全ての動作が、見詰め合う瞳が、あの頃と全く同じだ。僕は無性に悲しくなった。何も知らなかったあの頃が、ただただ恋しくて仕方がなかった。
どれほど戻りたいと願っても、時は止まることなく過ぎて、いつかこの深い嘆きさえも忘れる日が来る。忘れはしなくとも、片隅に追いやられる。そんな薄情な自分が嫌になる。この欠落感を感じなくなる日なんて訪れるはずなどないのに。
息が苦しい。視界が滲む。もう泣かないと決めたはずなのに、それでも悲しみが追い付いてしまう。僕は目を閉じた。
遠くでヨダカの声が聞こえたような気がした。
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