ヒロナ 一
誤算は、月の滞在時間があまりにも短いことだった。他の宇宙船が遅れている影響で、格納庫や発射台の都合上、準備が整い次第すぐに地球へ出発しなければならなくなったのだ。祖父の元にも立ち寄る時間がなかった。ユキカゼのところには、積み荷の入れ替えと燃料補給の間に走って行った。息を切らせて現れた僕の姿にユキは驚いていたが、すぐに状況を理解して手紙を僕に渡した。僕はスミレおばさんから預かっていた荷物をユキに渡した。
「お母さんから?」
「会いに行けないから、せめてこれだけでも渡したかったんだろう」
「そっか。ありがとう、ハナテ。ヒロナに、よろしく」
ユキは荷物を愛しそうに抱きしめていた。その肩が、以前よりもずっと細くなっていた。
僕は走って機体へ戻り、すぐに月を飛び立った。息を整えるために深呼吸をしていると、ヨダカが珍しそうに僕を見ていた。周囲を泳ぎ回るヨダカを手で払って、僕は操縦席に深く座った。沈み込んでしまいそうだった。
月と地球の間は半日もかからない。火星と比べれば、とても近い。しかし、便利ではない。地球への着陸が最も神経を使う作業だった。地球の天候は急変しやすい。悪天候の場合は旋回をして待機することもあるし、予定とは異なるターミナルに着陸指示が出ることもある。時には嵐や雹の中を飛ぶこともある。竜巻が発生したこともあった。
今回は被雷したため点検項目が増えた。いつもよりも整備に時間がかかるらしい。
「破損はなさそうだけど、念のため、な。空中分解するなんて嫌だろ? 地球でゆっくりしていってくれよ」
疲れた表情のシップキーパーがそう言って肩をすくめた。必要な手続きを済ませて、僕はヒロナがいる場所へ向かった。ヨダカによれば、ヒロナは図書館にいるそうだ。地殻変動で街全体が地下に落ちてしまった地域がある。そこは街の姿を保ったまま、地下で眠っていたらしい。これほど保存状態の良い地域はほとんど見つかっていないので、この街は地球における重要な拠点となっている。
ターミナルから街へは定期便のバードで移動する。空が赤い。地形と大気中の成分によって空が燃えているように見えるのだという。今のところ人体に影響はないが、恐ろしくて、とても悲しい色をしていた。地面には錆びた塵のようなものが堆積している。空気を清浄した時に赤い空から降ってくるのだ。地下に落ちたこの街は、都市機能は失われたものの、景観は陥没に耐え、レコーダーが比較的安全に活動を行える数少ない地域のひとつだった。
図書館は街の中央にある重厚な建物だ。数百年も前に建てられ、改修を重ねて現在まで保存されている。中に入ると埃っぽい風が吹いた。図書館の匂いは独特だ。古びた紙の匂いらしい。月や火星では嗅ぐことのない乾燥した空気だ。エントランスでヒロナの勤務時間を尋ねると、あと一時間ほどで休憩に入るということだったので、僕はそれまで待つことにした。エントランスの隅に置かれた椅子に座って、せわしなく動き回っているレコーダーの姿を目で追う。山吹色の制服は、目立たず、けれど紛れず、何世代も前の景色と調和していた。図書館は静寂に包まれている。
レコーダーという職業が提唱されたとき、長い協議が続いたのだという。捨てた地球に置いてきた知識は、様々なリスクを冒してでも取り戻す価値のある必要なものなのか。人類は再び同じ道を歩むことにはならないか。リーダーたちは話し合いを重ね、レコーダーが新設された。十年かかった。それからおよそ三十年。今でもまだレコーダーは肩身の狭い職業だ。重要性は誰もが理解しているが、多くの人はためらっている。地球に戻りたい気持ちと、月や火星で新しい生活を築きたい気持ちとが複雑に絡む。
しばらくレコーダーを見ていたが、やがて飽きた僕は端末でスケジュールの確認やニュースのチェックをした。
この図書館の蔵書の大半を僕は読むことが出来ない。僕の知らない文字が並んでいる。読めないし、書けない。記号にしか見えない。かつて地球には何百も何千も言語が存在していたらしいが、今では片手で数えられるほどだ。共通言語はただ一つ、それが公用語だ。他の言語はほとんど使われていない。今でも理解できるのは、僕の祖父くらいの年代の人や、レコーダーくらいだ。僕が引退する頃には失われているだろう。
チャイムが鳴った。休憩時間だ。静寂が解ける。途端に人がわらわらと僕の周りに集まって来た。
「シップマスターだ、久しぶりに見た」
「すごい、本物だ」
どうやらシップマスターがこの場所を訪れることは滅多とないらしい。確かに、そうだ。シップマスターとレコーダーにはほとんど接点がない。誰かが僕の背中を見て、星間飛行士だと気が付いたらしい。飛行職ともなればさらに珍しさは増し、まるで展示品のようだ。僕は曖昧な笑顔を浮かべていた。
「ハナちゃん」
聞き慣れた、けれど少し懐かしい名前で呼ばれた。人だかりをかき分けて現れたのはヒロナだ。ちょっとすみません、ちょっとすみません、と繰り返しながらようやく僕の前に辿り着いた。
「やっぱりハナちゃんだぁ」
人混みから抜け出したヒロナの髪はぐちゃぐちゃになっていた。それを気にもせずにヒロナは顔を輝かせて僕の手を取り、ぶんぶんと上下に振った。熱烈な歓迎だ。
「久しぶりだね! 今日はどうしたの? 調べもの?」
「いや、ヒロナに届け物」
「え、私に?」
ヒロナの輝きが増した。心苦しい。でも、渡さなきゃ。僕たちは場所を変えて話をすることにした。
図書館の二階にあるバルコニーからは図書館の前の通りがよく見えた。清掃車が塵を吸い込みながら走っていく。バードに乗って人が行きかう。生温い風が枯葉を転がす。陥没した街に機械の音がこだまする。この街はまだ生きている。
「これ」
僕はユキから預かった手紙を差し出した。
「ユキカゼから」
ヒロナは手紙を手に取った。あらゆる情報がデータ化され、デジタルツールが主流となってもなお、人類は手紙を残し続けた。アナログでつづられる文字に思いを込める。効率は悪く、資源が必要になる。それでも手紙は重要視されている。自分の手で伝えたいという気持ちはどれほど機械に囲まれても消え去ることはなかった。
手紙を読んでいたヒロナは、やがてその場に力なく座り込んだ。表情がなくなる。瞳から光が消える。
「ユキちゃん」
あまりにも小さな声だった。
「嘘よ、こんな手の込んだ冗談はやめてよ。だって、この前会った時はあんなに元気だったのに」
「ヒロナ」
「ハナちゃんは知っていたの?」
「うん」
「ルリちゃんは?」
「この前、僕から話した」
「知らなかったのは、私だけ?」
ヒロナが僕を見た。瞳に映った僕が滲んでいる。
「私がドジで、ノロマで、いつもみんなの足を引っ張っているから? だから私だけ仲間外れなの?」
「そんなことない」
歯を食いしばって涙をこらえるヒロナを見ていられなくて、僕は目を逸らした。積もった赤い塵が風に吹かれて舞い上がる。僕はしゃがんでヒロナと視線を合わせた。
「ヒロナは悪くない。意気地なしのユキが悪いんだ。時間がないのに、こんなにヒロナを待たせたユキが悪い。でも、分かってやれよ」
僕は出来るだけ優しくヒロナに語りかけた。
「ヒロナのことが嫌いなら、教えたりしない。適当なことなら、何とでも言える。でもそうしなかったのは、ちゃんと伝えたかったからだ。わざわざ手紙を書いたのは、ヒロナが特別だからだ」
ヒロナは手元の手紙に視線を落とした。
「どうする、ヒロナ。ドジでノロマなヒロナは、またユキカゼの背中を追いかけるだけなのか?」
手紙を握りしめていたヒロナの手に力が込められ、手紙がクシャリとシワになった。紙は貴重な財産だから大事にしなきゃいけないのよ、と紙切れ一枚にも細心の注意を払っていたヒロナが。真っ赤になったヒロナの瞳から、こらえきれなくなった涙が溢れる。
「ハナちゃん」
嗚咽が漏れた。零れた涙の粒が塵を濃い赤に染めた。
「私を月に連れて行って!」
僕は大きく頷いた。もう、泣かない。僕はもう泣かないのだ。
人を乗せて飛ぶのは久しぶりだ。距離が短い月と地球の間なら、簡単な手続きで済む。高速船なら日帰りだ。休日の前日の仕事が終わってから出発して、次の日の夕方に帰ることも出来る。そんなことをする人が少ないのは、やはり地球の環境が悪いからだろう。月からは離れがたい。誰もが口を揃えてそう言う。地球は仕事場で、もはや帰る場所は月なのだ、と。
ヒロナを乗せるために出発の予定を変更しようとしたが、また船が遅れている影響でどちらにせよ僕の出発も遅れていた。都合が良い。変更になった積み荷を確認してから、僕は機内を掃除した。物が少ないので掃除とも呼べないが、普段使っていない乗客用の設備は見ておかなければならない。この機体は最大五人まで搭乗できるらしいが試したことはない。火星まで行くのは無理だろう。五人で向かうには、生活空間が狭すぎる。
三日後、約束の時間の少し前にヒロナは格納庫へ現れた。泣きはらした瞼が外と同じ夕焼けの色をしていた。ヒロナも覚悟を決めたのだ。泣いて、泣いて、顔を上げて前を向いたのだから、もう進むしかない。
僕はヒロナの手を引いてタラップを上がった。ヒロナと一緒に行くことをユキには秘密にしている。仕返しのつもりだ。驚けばいい。ヒロナは緊張した表情で椅子に座り、シートベルトで体を固定した。僕は一度機体から降りて、シップキーパーと握手をした。
「ハナテさん、また大会に出るそうですね。応援していますよ」
「ありがとう」
「それでは星間飛行士ハナテ、あなたの帰還を待っています」
「いってきます」
「いってらっしゃい。良い航海を」
握る手に祈りの言葉を込める。やはり何度繰り返しても、この瞬間はたまらなく胸が締め付けられるような切なさが溢れる。それが出発の寂しさなのか、飛べることの喜びなのか、僕にはいつも分からない。
コックピットに戻り、操縦席に座る。
「ヒロナ、準備は?」
ヒロナは頷いた。僕はグローブをはめ、ゴーグルをかける。怖いだろうな、と思う。飛行職の僕でも、安定軌道に乗るまでは怖い。
「このターミナルからは、かなり急な角度で飛び立つけれど、大丈夫。僕を信じて」
僕を信じて。繰り返して言うと、ヒロナはようやく笑顔を見せた。はにかんだ笑顔で頷いた。システム、オールグリーン。機体が揺れる。
「ハナちゃん、格好良いね」
僕は肩越しにヒロナを見た。
「仕事をする姿は、誰だって格好良いだろ」
「うん、そうだね。みんな輝いて、素敵だね」
カウントダウンが始まった。加速して急上昇する。大気圏を抜けて、安定軌道に乗る。自分でも納得できるくらい、うまく飛び立てた。
「シートベルト、もう外しても大丈夫」
ガチャガチャと不器用にシートベルトを外したヒロナは、窓から振り返るようにして地球を見た。
「きれい。あの街の空は赤いのに、宇宙から見ると地球はまだ青いのね」
窓際に座って、窓に手を触れて、ヒロナはまるで慈しむように呟いた。僕は隅でヨダカを呼んだ。ヨダカは宙返りをしながら現れた。
「ヨダカ、ユキカゼに繋いでくれ」
『少々お待ちを。……ああ、駄目ですね。電源が入っていません』
「まだ仕事中か」
僕はユキにメッセージを送っておくことにした。ヨダカはフラフラと空中を漂ってヒロナの元へ泳いで行った。
「あ、ヨダカ君」
『ヒロナさん、お久しぶりです』
「地球の話をしてあげる。今日はどんな話がいいかな?」
ヨダカは地球の話が好きだ。だから、地球で働いているヒロナの話を聞きたがる。一年に一度会えばいいほうだが、そのたびにヒロナは地球であった出来事をヨダカに話してくれる。食べ物のこと、景色のこと、空のこと、仕事のこと。日常では気にも留めない些細な話をヨダカは好む。ヒロナの話を聞いている時のヨダカは、とても満たされた表情をしている。きっと、そういう場所のことを故郷と呼ぶのだ。
プログラムにも郷愁があるのだろうか。それともヨダカが特別なだけなのだろうか。もしも、ヨダカが地球に帰りたいと言ったなら、その時僕はどうするだろう。決断できない。その時が来ることを僕は心のどこかで恐れている。
ヒロナは図書館にある本の話をしていた。薄い本、分厚い本、軽い本、古い本。ひとつとして同じ本はない。同じに思えても、それぞれが少しずつ異なっている。
「手触りが違う、汚れ具合とか。書き込まれていたり、折れていたり。同じ本が二冊あっても、でもやっぱり、違う本なの」
話し方を見ていれば、ヒロナがどれほどレコーダーの仕事に誇りを持っているのかよく分かる。情熱だ。人類の発展は情熱と忍耐によって成された、そう言ったのは誰だったか。夢中になっている人は、美しいのだ。誇りを持っているということは、それだけで尊いのだ。ヨダカはヒロナの話を夢中になって聞いている。普段僕と一緒にいる時よりもずっと人間らしい。
だけどヨダカはプログラムだ。
それでもヨダカは、ただのナビゲーションだ。
僕は感傷的になって、窓の外に視線を移した。遠い銀河が流れていく。
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