ルリ 三

 翌日、朝から一通りの検査をした。大会に出るためには健康診断が必要だからだ。午後には結果が出る。僕はそれまで、飛行訓練をしながら過ごすことにした。

 飛行訓練はコックピットを模した小さな部屋で行う。映像や振動など、疑似的に飛行状態を作りだすのだ。シミュレーションを繰り返すことで技術を向上させるためのこの訓練は、飛行職を目指すシップマスターコースの学生が初めに学ぶ授業のひとつだ。何十回も何百回も繰り返して、ようやく実際の機体に搭乗できる。搭乗してからも、しばらくは教官の運転を見学するだけで、自分で運転することが許されるまでには、かなりの時間がかかる。そのあまりにも長すぎる道のりの半ばで諦める人もいるし、最後まで喰らいついても結局、飛行職にはなれない人もいる。そういう世界なのだ。

 シップマスターの飛行職と地上職を分かつのは、適性試験の最後の項目だと言われている。茫漠なほどの宇宙に放り出されたその時。

 人類の発展を望むのか、それとも、自身の帰還を望むのか。

 航海中の事故で死亡した飛行職の人間は、名誉の死として後世まで名を刻まれる。けれどそれは、他の職業にとっての誉であって、飛行職にとっては恥であり、醜く、そして何よりも不名誉なことだ。

「あなたの帰還を待っています」

 出発の前に交わされるあの握手は、約束の証だ。必ず帰るという、帰還の約束だ。宙を飛ぶ者は皆、帰還すべきものたちなのだ。這いつくばってでも、何を失ったとしても、帰還しなければならない。そのために、飛行職は、僕たちは学び、身に付けなければならない。

 帰還するための、すべてを。

『今日はどこへ?』

 シミュレーション装置と繋いだ端末から、ヨダカの声が聞こえた。僕の端末にはホログラム機能が搭載されていないので、ヨダカの姿はない。

「地球へ。厚い氷に閉ざされた、北の極点へ」

 僕の声に反応して、映像が変化し、氷の世界が広がる。一度だけ見たことがある。それはまだ学生の頃。地球見学というような名前の授業で、地球のあちこちを見て回った。砂漠、枯れた森林、空を焦がす火山。かつてそこにあったであろう人類の営みが、廃墟となって片隅に置き去りにされていた。まるで、時を閉ざしたような空間が広がっていた。この土地で、もう一度、人類は生きられるのだろうか。

 氷山の隙間を縫うようにして僕は飛んだ。窓の外の映像が過ぎ去っていく。時折、大気の振動に耐え切れず、氷山が折れるように崩れ落ちた。雪崩に巻き込まれないように僕は飛んだ。飛んで、飛んで、飛び続けた。やがて、氷の大地が終わり、黒い海が広がった。僕はあらかじめ決められていたポイントに着陸した。訓練はこれで終わりだ。

『お疲れ様でした』

 映像が終わり、装置の電源が落ちる。ヨダカは画面の中で膝を抱えて座っていた。

『作り物と分かっていても、懐かしい景色でした』

 愁いを帯びた溜息がヨダカから漏れた。僕もヨダカも地球の生まれだったが、僕にはヨダカのように地球を懐かしむ気持ちは湧かなかった。

「月へ寄ったら、次は地球だ。時間があれば一周しよう」

 僕はヨダカに語り掛けた。ヨダカは首をすくめて寂しそうに笑うだけだった。

 思えば、僕はヨダカのことを何も知らない。譲り受けたヨダカが、一体どういうナビなのか、メイやヨハンに教えてもらうまで知らなかったし、知ろうともしていなかった。ただのプログラムだと割り切ったつもりになっているだけで、本当は、プログラムであることを認めたくはなかった。

 いつか、聞いてみよう。

 ヨダカのことを、遠い地球のことを。

 午後になって健康診断の結果が出た。異常はなかった。星屑症候群の兆しも見つからなかった。僕は安堵している一方で、ユキの不運を少し嘆いた。

 筋力トレーニングをしていると、僕の名前を呼ぶ人がいた。

「ハナテ君」

 ユキの母親のスミレおばさんだった。荷物を抱えて、トレーニングルームの入り口で僕を呼んでいた。僕は汗を拭って、スミレおばさんの元へ駆け寄った。

「スミレおばさん」

 黄緑色の制服。スミレおばさんは火星で薬剤師として働いている。薬剤師はヒーラーが担当する分野のひとつだ。スミレおばさんは、やつれていた。僕にも分かるほどだった。僕はスミレおばさんの荷物を代わりに持った。僕たちは僕の宿泊室に移動した。

「ユキのことは、本人から聞きました」

「そう……。あの子、ハナテ君には自分で伝えられたのね。私のところにはシステムからの通知よ。すぐにコールをしたわ」

 お母さん、ごめん。

 ユキはそう言って泣いたのだという。

「ハナテ君、ごめんね。あなたも辛いでしょう? でも、あなたしか頼める人がいないの。星の間を飛び回ることが出来るのは、この思いを託せるのは、ハナテ君しかいないの」

 スミレおばさんは潤んだ瞳で僕を見た。

「僕に出来ることならば、何でも」

 僕はスミレおばさんの手を取った。その手は震えていた。

 スミレおばさんは僕たちが学生の頃にはまだ月に配属されていた。火星の配属になったのは僕たちが卒業してからだ。学生時代にはとてもお世話になった。四人の中でも特に僕は、スミレおばさんが母親代わりだった。僕の両親は僕がまだ子供の頃に事故で死んだ。僕には祖父がいるけれど、祖父とは折り合いが悪かった。今も連絡を取っていない。あの人がどうしているのか、僕は知ろうとしない。

「ユキカゼに、荷物を届けてほしいの。大したものは入っていないのだけれど」

 スミレおばさんは持ってきていた荷物に目をやった。

「日用品と、あの子が好きだった食材、昔の写真のデータ。それから、手紙」

 お願いね、とスミレおばさんは僕の手を強く握り返した。こんな時でさえ自由に息子に会いにさえ行けない現実を僕は酷く憎んだ。愛情が我儘だと言われる世界なんて。

 ユキカゼのことは、根性なしだと思う。それは優しさではなくて、逃げているだけだ、と。けれども僕は、そんなことを口には出さない。僕だってきっと同じ立場なら、ユキ以外の人には打ち明けられずにいるのだろうから。結局は僕も根性なしだ。

 スミレおばさんと別れた後、僕は預かった荷物を機体に積むため、格納庫へ向かった。午前中に大型船が到着したので、格納庫は賑わっていた。大型船には積み荷のほかに、人も乗せる。異動の時期になると、多くの人が星の間を行きかう。その光景はまるで、いつか授業で習った渡り鳥というものたちのようだった。それをヨダカに言うと、ヨダカは懐かしそうに目を細めて笑った。

 機体の貨物室にはすでに半分ほど荷物が積み込まれていた。ラベルを見ると、火星で採取された物質のサンプルがほとんどを占めていた。僕は私物を仕舞っておくボックスの中に預かった荷物を丁寧に入れた。

 じいさんに、会いに行こう。

 僕はふと、そう思った。たとえば僕が星屑症候群になったならば、僕は祖父に連絡をするだろうか、祖父は僕に連絡をするだろうか。会わなければならないと思ったのは、気まぐれではない。ただ、このまま冷めた関係が変わらずに終わるくらいならば、せめて、壊れたとしてもぶつかっておこう、そう感じたからだ。僕は根性なしだから、きっと何かきっかけがなければ、この先、祖父と話をすることもないだろう。

 タラップに座って、端末のヨダカを呼ぶ。ヨダカは画面の中で両手を広げていた。それはヨダカが風を待つ仕草だ。実際に風が吹くことはないのに、ヨダカは時折、風を待つ。鳥のように。

『何でしょうか』

「祖父の居場所を教えてほしい」

 ヨダカは首を傾げた。

『どうしました、熱でもあるのでは? 検査の結果は良好でしたよね?』

「検査結果は良好だ。僕のじいさんはどこにいる?」

『アマツさんなら月の保管庫ですよ。居住の登録場所はハナテさんと同じところです』

 僕は片膝を立てて肘を乗せ、頬杖をついた。ヨダカが真似をする。

『近頃ハナテさんは目まぐるしく表情を変えますね。泣いたり、落ち込んだり、怒ったり』

「それは、目まぐるしいとは言わない」

『初めてお会いしたころと比べれば、ハナテさんは表情豊かになりましたよ』

「僕はそんなにも無愛想だったか?」

『ハナテさん、鏡を見たことはないのですか』

「失礼な奴」

 すまし顔のヨダカを見ていると腹が立つ気持ちも通り越してしまう。僕は溜息をひとつ吐いて格納庫を見渡した。

 大型船で作業しているシップキーパーの中にメイの姿を見つけた。応援しているよと言ってくれたメイの言葉が頭の中で反芻する。あまりにも綺麗に飛ぶもんだから。ヨハンの言葉も思い出される。

 飛びたい。

 僕は、端末を持つ手に力を込めた。

 飛びたい。もっと速く、もっと遠く、もっと美しく。

 大会は二ヶ月後だ。


 翌日、僕は火星を発った。ルリちゃんには連絡しなかった。その代わりに、小包をひとつ送っておいた。時間を指定したから、僕が安定軌道に乗る頃に届くだろう。中身は大会の観覧チケットだ。大会期間中は飛行職が出払ってしまうため、ほぼすべての職業が休暇になる。リサーチャーも休みだろう。ただ、月まで来るかどうかはルリちゃん次第だ。

 同じチケットをユキカゼとヒロナの分も用意した。前回の優勝賞金に手を付けないままでいてよかったと初めて思った。それから、祖父の分も。渡せるだろうか。僕は少し不安だった。ちゃんと話が出来るだろうか。

 火星が遠くなる。月が遥か彼方に見える。その奥で地球が青く輝いている。僕はコックピットの窓際に座って、無限に広がる星の海を眺めていた。

  

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