ルリ 二
宇宙船はターミナルの格納庫に収容されている。修理中のものも出発前のものも、どの機体も整然と並べられ、就労時間が終わって閑散とした格納庫で飛び立つ時を静かに待っている。その中に、僕の機体もあった。
コックピットへ上がるタラップの手すりに掛けられた端末に、今回の点検結果やアップデート内容が表示されている。僕は自分の端末をかざしてデータを受け取り、タラップに腰かけた。端末の画面に眠そうなヨダカの姿が映っている。ヨダカはクルクルと回転してから、アップデート内容を淡々と読み上げた。どれも頭には入ってこなかった。
『ご機嫌斜めですね、ハナテさん。喧嘩ですね、どうせ』
ヨダカがそう言って鼻で笑った。画面の中にいても嫌味な奴だ。格納庫の奥ではまだ作業が続けられているらしい。時々、金属を打ち付ける音が響いていた。
「ヨダカ。ユキを呼び出して」
『はい、どうぞ』
僕の指示に従ってヨダカはユキにコールする。画面の隅に接続中の文字が表示され、しばらく待つと、ユキが映った。
『なんだ、ハナテからコールなんて珍しい』
ユキは廊下を歩いているようだった。ユキの後ろに廊下の窓が並んでいる。
「調子はどう?」
『悪くはないな、握力が落ちてきただけだ』
画面の映像が揺れる。ユキが窓辺に座ったらしい。背後の景色が月面に変わった。
『ああ、手紙、な。心配するなよ、ちゃんと書いたから』
「分かった。月への帰還は三週間後くらいになる」
『じゃあ、大会のほうもよろしく頼むぞ』
僕は頷いた。
『で』
ユキはグイッと画面に顔を近づけた。ユキの顔がアップになる。
『何、お前。ルリちゃんと喧嘩でもしたのか?』
「うん」
『ひどい顔だぜ』
だからヨダカにもすぐに分かったのだろう。僕はよっぽど酷い顔をしているらしい。ユキが画面から遠ざかる。
『どうした? 今まで一度も喧嘩なんてしたことなかっただろ。ハナテはいつも俺やルリちゃんのことを黙って見ていたのにさ』
「どうしたもこうしたも」
ユキカゼのせいだ、とは言えずに僕は黙った。ユキがヒロナにすぐ伝えていればこんなことにはならなかったのに。だけど、たとえそうだとしても、ルリちゃんを傷付けたのは他の誰でもなく、僕だ。僕の言葉が刃のようにルリちゃんの心を傷付けた。あんな顔をしたルリちゃんを見るのは久しぶりだ。
「ルリちゃん、結婚するって」
僕が呟くようにそう言うと、ユキは目を丸くした。
『嘘』
「うん、嘘だ」
『はぁ?』
ユキは大袈裟なくらいに首を傾げた。
「隣のラボの人と結婚するって、ルリちゃんが嘘を言った」
『どうしてそれが嘘だと分かる?』
「言っておくけれど、ルリちゃんの嘘を見破るくらいには、僕、ルリちゃんのことが好きだからね」
今度は盛大な溜息を吐いてユキは頭を抱えた。
『ルリちゃんからコールがあったら、何か伝えておこうか?』
「別に。言いたいことは直接言うから」
僕は嫌味を言ったつもりだったのに、ユキは曖昧な笑顔を見せただけだった。
「そういえば、おばさんやミチ君は何か言っていた?」
『泣いていたよ、二人とも。俺も、つらいよ』
ユキは肩をすくめた。
『後悔だけはしないように、残された時間をよく考えて生きなさいって、さ。でも、難しいよな。何をしたいか考えるより、何が出来るのか考えてしまうから。限界が分かってしまったら、こんなにも窮屈に感じるんだな』
「例えば、何をやってみたい?」
『ハナテが飛ぶ姿を見たい』
「それはすぐに叶うよ。僕が叶える」
『待っている。でもさ、考えてみても、なかなか決まらない。今はまだ特別なことよりも、当たり前のことを大事にしたいんだろうなぁ。だって、すぐに、動けなくなる。そうしたら多分きっと絶対、普段通りの毎日が恋しくなるから』
ユキはそう言って少しだけ寂しそうな瞳をした。翳りがユキを飲み込もうとしているように感じた。遠くなる。遠くに行ってしまう。
夕飯の時間まで僕たちはユキのささやかな夢のことを話した。それはもう一度食べてみたい料理のことだったり、見てみたい鉱石のことだったり、行ってみたい星のことだったり、とても雑多な夢だった。
ありもしない未来の話をして僕たちは笑った。
この時間が永遠ではないことくらい、ずっと昔から知っていた。僕たちにも、分かっていた。
火星に滞在する時にはシップマスター専用の施設をいつも利用する。誰でも利用できるラウンジとは違い、職業の専用施設は、その職業に特化した施設になっているからだ。たとえばシップマスターの施設には飛行職のためのトレーニング設備があり、フィールダーの施設には農業スペースがあるらしい。食堂も宿泊施設も揃っているので何の心配もせずに出発までの時間を過ごすことが出来る。僕は大会のエントリーを済ませてから、食堂で野菜炒めを食べた。火星で作られている野菜は月の野菜よりもかなり固い。ガリガリとしっかり噛み砕きながら野菜炒めを食べている僕の前の席に、学生時代の同級生で大型船のシップキーパーになったメイとヨハンが座った。
「お前、いつもそれだな」
ヨハンが挨拶代わりにそう言った。ヨハンのトレーには魚のフライの定食が、メイのトレーには紫色の麺類が乗っていた。
「固くねぇの?」
「固いよ」
魚のフライはナイフで切るとサクッと心地良い音が鳴った。
「ハナテ、大会にエントリーしたんでしょ?」
紫麺をフォークに巻き付けながらメイが尋ねた。僕は頷いた。
「誰から聞いたの」
「えー、みんな言っているよ。チャンピオンが帰ってくるって」
メイの口元が紫に染まる。そのメニューを注文することはないだろうな、と僕は野菜を噛んだ。
僕は前々回の大会で優勝した。優勝者は連続して大会に出場することは出来ないというルールがあるので、僕は前回の大会には出ていない。
「でも、前回は運が良かっただけだ。前の機体がクラッシュしたから」
「優勝は優勝だよ。ハナテってば、自分で思っている以上に有名人だからね。みんな期待しているんじゃないかな。あ、もちろん、メイもヨハンもハナテを応援しているよ。ね、ヨハン」
メイの言葉にヨハンが頷いた。
「そうさ、ハナテ。俺たち同期の連中で、小型の飛行職になったのはお前だけだろ? 俺、学生の頃からずっと、ハナテのこと、すごい奴だなぁって思っていたんだぜ」
ヨハンがスープを混ぜながら続ける。
「あまりにも綺麗に飛ぶもんだからさ、羨ましかった。いや、お前じゃなくて機体が。あんなふうに飛べたら機体も幸せだろうなぁって。そんな機体を整備出来たら、どれほど幸せだろうかって。まあ結局のところ俺は大型のほうに進んだけどな」
「そうだよ。みんなで言っていたんだよ。ハナテが飛ぶと、まるで流星みたいだって。大気を貫いて、風を切って、いつまでも見ていたいくらい。あれって、何が違うのかな」
「さあ?」
僕は首を傾げた。心当たりは特にない。
「ハナテが使っている機体って確か縁起物だったっけ?」
「うん」
「え、でもナビは新しいんでしょ?」
「いや、アップデートはしているけれど、あれも一緒に貰った分だ」
端末でヨダカを呼び出して二人に見せる。二人は目を輝かせて画面を食い入るように見た。
「名前はヨダカ」
「ヨダカって?」
「鳥の名前らしい。見たことはないけれど。まだいるのかな、絶滅したかも」
「型番は?」
「知らない。ヨダカに聞いてみて」
僕がそう言うと、画面の中にヨダカの型番が表示される。I49CQ4U。
『ヨダカはそれのベータモデルです』
メイとヨハンはポカンと口を開けたまま何も言わない。僕は不安になった。
「……違法とかじゃないよな?」
「違うけど……」
「けど?」
二人は顔を見合わせて、それから困ったように言った。
「これ、未完成のまま開発中止になったモデルだよ」
「え? それじゃあヨダカはナビとしては完全版ではないってこと?」
「いいや、そういうわけじゃない。これはこれで完成されているんだと思うぞ。でも」
ヨハンは一度、言葉を区切った。
「この型番の後継機種は開発されなかったはずだ」
「つまり?」
「縁起物も縁起物。最後のひとつかもしれない」
僕は画面の中のヨダカを見た。ヨダカはどこか誇らしげな顔をしていた。
「ヨダカ。お前、見た目よりずっとジジイなんだな」
『失礼ですね』
ヨダカはそう言ってクルリと回った。
『ヨダカはこれでも当時の最新技術で作られていますから』
「今のナビだってそうだよ」
『ヨダカの技術は他のナビには使われていませんから』
「どうして?」
メイの質問に、ヨダカは片手を挙げて大きく円を描くように降ろして一礼した。
『ヨダカはたったひとりのために開発されたナビゲーションなのです』
「それは……」
前の持ち主のことだ。僕はメイとヨハンを見た。二人ともおそらくは同じことを考えていたのだろう。
『性能では勿論、最新のナビには遠く及びません。しかし、ヨダカにはヨダカだけが持つものがあります。それは、経験です。他のナビには到底真似の出来ないくらいですよ。負けません、絶対に負けません』
ヨダカはそう言うと、またお呼びくださいと言い残して画面から消え、ナビの電源が切れる。
僕は野菜炒めにナイフを刺した。相変わらず固い。それを口に運んで噛む。やっぱり固い。
「ちょっと変わっているなぁとは思っていたけれど、納得した。シップキーパーからはかなり旧型だとは言われていたけれど、そんなに古いなんて」
「いいや、めちゃくちゃ変わっていると思うぞ。普通のナビは自分で電源を切ることなんて出来ない。高度な自我形成のプログラムなんだろうな。勉強になる」
「大事にしてね。さあさ、食べよう、冷めちゃったよ」
メイはまた紫色の麺をフォークに巻いた。紫が濃くなっていた。
食べ終わってメイとヨハンに別れを告げ、僕はトレーニングジムに向かった。適度な筋力を保つことは全ての人に義務付けられている。無重力時間が長い飛行職は特に体に負担がかかる。体を動かすのは嫌いじゃない。全部、忘れられるから。頭の中が空っぽになるまでトレーニングをした。
けれど、心は少しも晴れやかにはならなかった。
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